松石の徳 その2

 素空が奥書院の詰め所に戻った時、法垂を除く全員が揃っていた。栄雪に書付けの礼をもう1度言って、にかわ柿渋かきしぶかすがいの手配を頼んだ。明智には、良円、仁啓、法垂、淡戒に彫りの手ほどきを頼んだ。明智は、淡戒を入れた意味が分からなかったが、素空の言葉に素直に従った。代わりに、淡戒が疑問を口にした。「素空様、何故私が彫りの練習をするのでしょうか?」

 素空は、淡戒を見て微笑んで言った。

 「淡戒様には、2、3日だけ道具を手にして頂きます。その後はまた日を改めてお願いすることにいたしますので、明智様にはできるだけ多くの道具使いを教えて頂きたいのです」

 5日後、淡戒が詰め所に呼ばれて、鍛冶方として道具を作るよう頼まれた。淡戒は、彫り方全員が仕事に掛かるまでの間、誰かに鍛冶場を手伝ってもらうことで承諾した。

 「淡戒様、道具作りはこれから最も大切な仕事になります。また、道具の修理や研ぎなどもして頂かねばなりません。配下を付けて、持てる技を伝授して頂きたいと思います。明智様から伺いましたが、彫の技は一通り会得して、道具の使いようが大変お上手だったとのことです。仏師方は技の限りを尽くして彫り上げます。そのためには、良い道具を持たねばなりません。守護神建立には、良い道具で臨まなければならないのです。淡戒様、どうかよろしくお願いいたします」

 淡戒は、天安寺に上がってこの方、灯明番一筋で、新たな責任を与えられるのが嬉しかった。ことに、素空の守護神を陰で支える大切な勤めだと言うことを理解していた。それから数日、素空と共に天安寺に昔あった鍛冶場に行き、つち砥石といしふいごなど、今でも使えそうな品を探した。

 鞍馬谷に出掛けて10日ほど経った頃、志賀孝衛門から素空宛てに文が届いた。素空達が戻ってすぐに大工を探し、工事を頼んだと言うことで、近日中に手をつけるとあった。素空はこの文を持って瑞覚大師を訪ね、西院の興仁大師を訪ねる許しを願った。瑞覚大師は、すぐに素空に許しを与えたが、素空も一緒に志賀家に赴くよう指示を与えた。素空は、早速その足で興仁大師を訪ね、松石を志賀孝衛門宅に派遣してもらいたいと申し出た。小屋の建て替えは目下の急務と言うことを興仁大師も十分承知していた。

 興仁大師が、素空に囁くように話した。

 「松石を伴うことの意味を、松石自身が知るのは、年が明けてからのことじゃろうよ。素空よ、志賀に寺を建てるのじゃよ。そなたが松石を頼りにしてくれる気持ちは、わしらと同じじゃよ。本山で修行に明け暮れるより、土地の人々と心を通わせることが得手えてな者もいるのじゃ。されば、松石を志賀の住職とするのはまことに良いことじゃ」

 素空は、興仁大師が当面の秘密を打ち明けた訳を考えていた。思いを進めると、おごりの種となることを避けて、それ以上考えることはなかった。素空にとって、解決できないことや、思考を止めるようなことは滅多になかったが、このことには興仁大師の何らかの示唆を感じていた。

 松石が、興仁大師の前に座したのは間もなくのことで、興仁大師に挨拶すると、素空ににこやかに話し掛けた。

 「素空様、その節はお世話になりました。御本山に上がって初めてです。あのように、実に活き活きとして、楽しかったことは。いやはや、一生忘れられない良い思い出になりました」松石は、いささか大仰に言って、笑い飛ばした。

 素空は、『何とも憎めないお方だ』と感心した。明日、自分と共に志賀家を訪れることを告げると、松石は笑顔で承諾した。この日も東院に宿泊することにして、松石は、素空と共に釈迦堂を後にした。

 道々、松石が今回は瑞覚大師に挨拶をしたいと言ったので、忍仁堂に着くと瑞覚大師に面会を願った。2人は、瑞覚大師の部屋に通された。文机の上には素空が彫り上げた薬師如来像が祀られていた。

 松石は、瑞覚大師に挨拶すると、その後は、ひたすら薬師如来像に視線を投げていた。

 「松石よ、わしへの挨拶は口実に過ぎぬようじゃのう。良きかな、良きかな。…手に取ってみてはどうかな?」瑞覚大師は、終始にこやかに語った。

 松石は真顔で言った。

 「お大師様、そのようなことは恐れ多いことです。お大師様には、如来様の光背がお見えではありませんか?ジッと見るだけでも恐れ多いことです」

 瑞覚大師は、ハッとして如来像を見た。金色の光背がいつもと同じように輝いていた。瑞覚大師は驚いて、松石に問い掛けた。

 「そなたには、如来様の光背が見えるのか?金色に輝く光背が見える者は、わしと素空の2人だけだと思っておったが、そなたには、見えるのじゃな!」瑞覚大師は、驚きの後の虚脱感で呆然とした。

 「はい、ハッキリと見えています。素空様がお作りになった如来様が、とても素晴らしいと言うことは西院でも広く知られたことですが、興仁様の他に見た者はいません。今こうして目にすることができて、噂に違わず素晴らしいばかりではなく、如来様の御心が彫り込まれた、御仏そのものであることに驚いています」松石は、一見して動じた様子はないようだったが、俯き加減に伏せた目は明らかに動揺していた。

 鞍馬谷での未明のできごと以来、素空を優れた僧だと尊敬するばかりではなく、神仏に接する時に感じる畏れにも似たものを感じていた。松石は、この日改めて素空が偉大な存在だと認めた。

 「松石よ、そなたに何故見ることができたのか、疑問の残るところだが、先に申したように、このことはわしと素空とそなたの3人しか見ることができないのじゃ。興仁大師や、一部の高僧には話しても良かろうが、例え僧でもこのことは軽々しく知らせるべきではないと思っているのじゃよ。僧と言えども、御仏の存在を見ずして信じることのできない者には、必ずや不幸を及ぼすことになるじゃろうて」

 瑞覚大師は、松石の強張った顔を見ながら、優しい顔を見せて更に語った。

 「栄信にも見えないようじゃが、栄信は見ずして信じることのできる者じゃ。今宵はゆっくり休むが良かろう」

 素空と松石は、瑞覚大師の部屋を出ると、素空は奥書院の詰め所へ、松石は灯明番の詰め所へと別れた。

 松石は、栄信の部屋に着くとすぐに薬師如来像の光背が現れたことを話したが、栄信はグッと息を呑み、ジッと目を閉じ、黙して語ることはなかった。

 食事時まで小半時(30分)ほどあり、松石は暫らくの間、このことに付いて栄信の意見が聞きたかったのだが、黙したままの栄信は、次第に顔色が悪くなり、眉間にしわを寄せて何かの結論に行き着いたように思えた。

 「栄信、加減が悪いのですか?一体どうなされた?」

 やっと目を見開き、栄信がおもむろに口を開いた。

 「私は、お大師様のお体の心配をしていました。素空様の薬師如来像が御仏そのままに彫られたのであれば、お大師様に御仏の御光臨があっても、光背が現れても、何も不思議はないのです。ここに至って、お大師様に御仏の御召しが掛かったことを確信しました。私にお召しが掛かったとしたら、御仏に召されていることを認め、生あるうちに御仏の意に適うことを、できる限り成就するよう努めるでしょう。素空様がおいでになった頃から、お大師様が少しずつお変わりになったように思えたのは、御仏の御降臨があった最初の夜に召されることを告げられたせいでしょう」

 松石は、慌てて聞き返した。

 「では、素空様も私も、御仏に召されていると言うことですか?」

 栄信は、相変わらずの早合点に思わず笑顔を見せて答えた。

 「素空様は、御仏に愛されたお方です。そのお方が彫った御仏の光背が見えない筈はないでしょう。問題は、松石様ご自身のことだけですね」

 松石はホッとした顔で言った。

 「私のことなら大丈夫だよ。いつお呼びが掛かっても喜んでお受けできるよ。光背が現れたことで、覚悟もできて、嬉しい限りだよ」

 栄信は、松石の動揺が素空を心配してのことだと分かってホッとした。

 「松石様、あなた様が御仏に召されるのは、まだまだ先のことだと思いますよ。そろそろ夕餉ゆうげの時刻ですね。話はこれくらいにして参りましょう」

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