その人は僕に笑顔を作りにやって来たんだ

冬寂ましろ

*****


 頭から掛け布団をかぶっていたら、枕元のスマホが震えだした。それを手に取り、薄く光る表示を見る。


 イチカバチカ西城……。


 くすりと笑った。電話番号をそう読んで欲しいって、彼に教えてもらったときのことを思いだした。そのせいで、暗い感情がふっと薄れていった。

 布団の中で丸まりながらスマホのボタンを押すと、僕はそれを耳にぴったりと当てた。


 「西城どうかした?」

 『ドライブ行かね?』

 「はあ? いま? 夜の11時だよ?」

 『いいじゃんか』

 「よくないよ」

 『俺がドライブしたくなったんだよ』

 「もう、わがまま言って……」

 『つーか、下にいる』

 「は?」


 僕は布団を撥ね退けた。カーテンを開けて下を見ると、やたら平らな赤い車が止まっていた。


 「本当にいる……」

 『5分で来いよ』

 「ええ……。行くけど、ちょっと待ってて。すぐ支度する」

 『ああ。待ってるから』


 通話が切れたスマホをじっと見つめた。それはさっきまで開いてた画面へと切り替わる。


 これを見たせいかもしれない。

 誰に当てたわけでもないメッセージ。

 彼に迷惑をかけさせたかもしれないメッセージ。

 そっと「死にたい」というつぶやきを、僕は消した。





 車の前に出ると僕は彼に大きく手を振る。

 適当に着てきた黒いパーカーは、夏の夜には暑かった。少し長くなった髪が汗に濡れる。


 手を何度か降るけど彼が気づかない。ドアをコンコンとして、ようやく車のロックが開く音がした。

 車の少し重いドアを開けながら、彼に言った。


 「お待たせ」

 「おう」


 夏っぽいラフなベージュのシャツを着た彼が僕に笑いかける。車内はちょっとだけ薬品の匂いがした。シートベルトを締めながら彼に聞く。


 「これ、新車?」

 「だよ。NSX。先週乗り換えたばかり」

 「さすがディーラー様」

 「客に売っている人間の車がさ、ぼろぼろだとちょっとな。あ、そうだ」

 「なに?」

 「喜べ、お前が助手席第1号だ」


 僕は興味なさそうなふりをして笑った。


 「なんで僕なんだよ。助手席には普通は彼女だろ」

 「女って誘いづらいじゃないか。なんて声かけていいのか、わからなくてさ」

 「そうなの?」

 「会社の給湯室が地獄なんだ。ひたすら女同士でしゃべってて。女に告ったら、俺もあの中の話題のひとつにされるかと思うと、ちょっとな……」

 「そう、なんだ……」


 黙り込む。僕は将来の彼女の代わりなんだ。それでもいいけどさ……。


 「行き先、俺が決めていいか?」

 「いいよ、西城。どこでもいいから」

 「じゃ、行きますか」


 車が滑るように走り出していく。

 ヘッドライトの明かりを頼りに、暗闇の中へと僕らは走り出していく。




 少し大きな通りに出る。街の明かりが後ろへと流れていく。行き交う車のライトが黙ったままの僕たちを照らしだす。


 「西城、曲かけていい?」

 「ああ、いいよ。お前の好きなのかけな」


 僕はスマホをいじりだす。すぐに大好きなバンドの奏でる音が車内にあふれだした。『天体観測』。その少し寂しいメロディーが僕を満たしていく。

 革張りの少しごわっとした車のシートに、体が沈み込む。

 僕はくだらない人間で、どうしようもない奴で……。見えないものは一生見えない……。


 「なあ、この曲。踏切に望遠鏡を置いたら、かなり迷惑だよな」


 不意打ちだった。

 思わず噴き出した。


 「あはは。何それ」

 「そう思わないか? 電車通るとこだよ」

 「これはそういう意味じゃなくて」

 「午前2時とか歌ってるけどさ。それでも保線の人とかいるじゃん。困るだろ」

 「わかるけどさ。ああ、もう台無し。これって結構悲しい話なんだよ」

 「そうなのか? とっとと探し物を見つけて、望遠鏡と大げさな荷物担いで、どっか行って欲しい話だと思ってた」

 「言い方。そんな迷惑集団みたいなこと言って……」


 ふいに彼の大きな手で頭を撫でられた。


 「そんだけ笑えるなら、お前は大丈夫だな」


 彼はハンドルを握り、前を見ながらそう言う。

 振り払うふりをして僕は彼の手をつかむ。

 少しごつごつとして大きな手。僕を安心させようとしているやさしい手。

 ちょっとだけ目をつぶってそれを深く感じると、僕はおどけた。


 「なにすんだよ」

 「撫でたくなっただけ」

 「僕は猫じゃないぞ」

 「お前は猫っぽいからなあ。髪がくせっ毛で長いし」

 「そうですか。あとで撫で賃いただきます」

 「今日はそんなに金持ってないんだ」

 「後日集金に伺います」

 「えええっ。どこまでむしられるんだ、そんなの」


 暗い窓に映る僕の顔。

 それは少し心から笑っていた。




 車は街を離れ、どんどん山のほうへと向かっていた。

 もう午前0時を過ぎている。

 行き先を知らない僕は、ちょっと不安になって彼に聞いた。


 「これから僕は殺されちゃうの?」

 「ロープとスコップなら積んでるぞ」

 「たいへんらしいよ。人ひとりぶんの穴掘るの」

 「重労働だろうな」

 「いまだと汗だらけになるよね」


 急な曲がり角に出くわす。彼がハンドルを急いで右へと切っていく。


 「ま、うっかりハンドルを切り損ねたら、いますぐふたりで死ぬけどさ」

 「そんなのやだよ」

 「なら、もうちょっとがんばって生きような」


 彼は知っているのだろう。

 それを父のように怒ったりはしない。それを母のように説得しようともしない。

 ただ、いっしょにいてくれた。





 車はついに山道を走りだす。狭い道。何度も続く急坂と急カーブ。それをオレンジ色の暗い街灯だけが示していた。ヘッドライトで照らされるのは、森の木々のように見える黒い何かと、ガードレールの白い色しかなかった。


 「車の腹を擦るかもなあ」


 彼がそう言いながらハンドルをおおげさに切る。車のきゅるるという音といっしょに僕の体が端へと寄せられる。


 「酔ったらごめんな」

 「ううん、大丈夫。なんか楽しい。ジェットコースターみたい」

 「上等」


 彼がまたハンドルを切る。思わずそれに合わせて「ぎゅわーん」「ぎゅるるる」とか擬音を口にしていたら、彼はちょっと笑い出した。


 暗闇しかない世界を車が走る。少しでも間違えてしまえば死んでしまう。

 それでも彼となら。僕はそれすら楽しんだ。




 山道のさらに脇道に入り、道が砂利っぽいところになった。車の下から響くざーざーする音でそれがわかる。

 少し上がっていくと開けたところに出て、彼はそこで車を止めた。サイドブレーキをかけるきゅっという音と一緒に、彼がうながす。


 「はい、到着。降りるぞ」

 「ここ?」

 「ああ」


 シートベルトを外すと、車のドアを開けた。地面に足を踏み出すと、じゃりっという音がした。

 風が体にまとわりつく。山の空気は少しひんやりとしていた。


 「何にもないよ」

 「暗いから気をつけろよ。ドア閉めるからな」

 「うん……。わ、車のライトが消えたら真っ暗だね」

 「スマホをライト代わりにしなよ」

 「電池があんまりないや」

 「ああ、じゃ俺のを使おう。手を貸せ。引っ張っててやる」

 「うん……」


 彼の大きな手が僕の腕をつかむ。引っ張られながら暗闇のなかを歩いていく。

 怖い。寂しい。悲しい。でも、彼の大きくてやさしい手が、それを否定してくれる。


 「ほら、前見ろ」


 それは一瞬のことだった。

 顔をあげたら暗闇の向こうに光が輝いていた。


 空には星があった。それはさらさらとした絹の織物のように見えた。

 地上にも星があった。それはいろいろな宝石を散らかしたようにきらめいていた。


 夏草の香りが風に運ばれてくる。

 流星が幾筋かの軌跡を星々の間に残して消えていった。


 僕はその光景に目が離せなくなった。

 何かが僕の中でじんわりと湧き上がっていく。

 そこから出た言葉は、ありふれたものだったけれど、それしか言いようがなかった。


 「すごく、きれいだね」


 彼はそれを聞くと、いたずらが成功した男の子みたく、うれしそうに微笑んだ。


 「いいだろ。たまたま見つけたんだ」

 「ほんと?」

 「そういうことにしといてくれよ」

 「わかった」


 また、ちょっとだけ笑った。

 彼が持ってた小さな水筒に気づいたのはそのときだった。ポケットへ強引に入れてたらしい。カップに注いでくれたそれは、とてもよい香りがした。


 「ほら」

 「これ西城が淹れてくれたコーヒー?」

 「ああ、こないだのから少し配合を変えたんだ」


 差し出されたカップを受け取る。熱さに気をつけながら、おずおずと口につける。


 「あ、おいしい。苦み減らしたんだ」

 「こっちのほうがお前好きだろ」

 「うん、好き」


 僕が含ませた意味をわからせないように、あいまいに笑いながら彼に言う。


 「しばらく、ここにいていい?」

 「いいよ。そのつもりで来たからな」


 僕は遠くにある光を見つめる。


 「あっちって、僕の家のほうかな」

 「あの塊になっている高いビルが新宿だろ。だったらだいたい当たりだと思う」

 「そっか、結構遠くまで来ちゃったね」

 「そうだな」


 ふたりでぼんやりと夜を見つめていた。

 暖かいコーヒーが僕たちを包んでくれた。


 この時間を僕はたいせつにしたかった。いつまでもそうしていたかった。





 夜明けが近づき、僕たちは車に戻ることにした。

 名残惜しくなって、去り際に一度だけこの光景を振りかえった。


 車に乗り込むと、空の色が変わりだした。うっすらと明るくなっていくのをフロントガラス越しに感じていた。

 彼になんとなく僕はたずねる。


 「もう5時だけどさ、会社大丈夫? 平日でしょ?」

 「まだ眠くならないんだよなあ。まあ午前休ぐらいするさ。大人はずる休みできるんだ。すごいだろ」

 「いいなあ。ずる休み」

 「お前は?」

 「そろそろ出席日数が足りないかな。高校を追い出されるまで、あと10日というとこ」

 「そっか。無理するなよ」

 「うん」


 僕は生きているほうが無理なのだと思う。

 学校でクラスの男から言われた。「お前は普通じゃない」って。

 こうして彼への気持ちを理解してしまうと、普通ではない僕は死んだほうがいいのだろう。


 なりたかったな、普通……。


 僕がそんなふうに考えをぐるぐるとさせていたら、また彼に不意打ちをされた。


 「お前が書いてた小説、読んだよ」

 「え。ええ……。ここでそういう話する?」

 「なんだ、恥ずかしいのか」

 「まあ」

 「わりとよかったよ」

 「なにそれ。わりと?」

 「文芸賞には負かされたけれど、物書きの先輩として生半可なこと言えないからさ」

 「辛口のご意見、ありがとうございます」

 「でも、お前の文章、なんか好きだよ。やさしくて」

 「そう……」

 「そういう道もあるってことさ。あんまり思い詰めんなよ」

 「わかってる」


 わかっていない。わかろうとしたらつらくなるから。どんな道では普通ではない僕には、暗闇しかないんだ。


 ふと彼を見る。不思議そうに僕を見返す。

 一緒に暗闇を歩いてくれる人がそこにいた。ここにこんな光があるだろう。それがだめならこうした光もあるからさ……。そんなふうにいつも……。


 「そろそろ、行くか」

 「うん」


 車のエンジンがかかる。小気味良い揺れとともに、僕の気持ちが泳ぎ出す。





 もうすぐ終わり。夜明けになったらおしまい。

 山から下りて街に近づいてくると、なんとなく寂しくなって僕は言う。


 「いつか猫を飼うんだ。黒猫。ホーリーナイトって名前をつける」

 「猫が猫を飼うのか」

 「いいじゃん。じゃあ、西城のところで僕を飼ってよ」

 「なんだそりゃ」

 「まだ一人暮らしなんでしょ? 僕はあの緑のソファーに猫耳付けて寝そべっているから」

 「それはいいな。ビジュアル的に優れてる」

 「毎日ご飯ぐらい作るよ。得意だし」

 「知ってるよ。お前んちで食べさせてもらったから」

 「料理得意な猫はお買い得だと思われますよ」

 「ふふ。そうだな、考えておく」


 それはできない。そんなことはわかっている

 こんなのはただの冗談。わかってるのに。

 でも、そうなればいいなって願う自分がいる。


 ガラス越しの空が流れていく。

 空には黒と赤と青のきれいなグラデーションがかかり始めた。


 「家に帰りたくないな……」


 ぽつりとつぶやいた言葉を彼が聞いてた。


 「まあわかるが。飯でも食うか」

 「あ、うん……」

 「いまの時間だとファミレスぐらいだけどいいか?」

 「いいよ。それで」

 「よし、16号に出よう。なんかあんだろう」


 彼がハンドルを切る。少しでもこの時間が長引いたら、それでいい。まだ、彼と居たいから。





 国道沿いの大きなファミレス。明るい色のソファーに座ると、彼の目の前で肉がじうじうと鉄板の上で焼かれていた。


 「西城すごいな。朝から肉とは……」

 「体が資本なんだよ。お前のはお前らしいな」

 「そう?」

 「女子なご飯好きだろ。なんか量がちっちゃいのとか、小鉢がいっぱいあるのとか」

 「そんなに食べられないんだよ。ちびっこだし」

 「まあ、そうだよな」


 彼が肉をナイフで切りながら言う。


 「お前は小さいものが好きで、やさしい文章を書くのが好きで、俺の淹れたコーヒーが好きで、あの千葉出身のバンドが好きで……」


 彼がふとナイフを動かすのを止める。


 「お前の好きは俺がわかってる。だから、お前は大丈夫なんだよ。俺がいるから」


 朝日が差し込む。

 ファミレスの店内を駆け巡ったそれは、僕を撫でるように照らしだした。


 なんで、そんなにやさしいの。

 なんで、普通じゃない僕のことを見ててくれるの。

 どうして……。


 僕は彼のことがこんなにも好きなの。


 手を握りしめる。きつく。痛くなるぐらいに。

 彼か困ることを口に出してしまいそうだから。


 西城が僕を見て言う。


 「そんな顔するなよ。また行こうぜ、ドライブ」


 僕は西城を見ないで言う。


 「うん、そうだね」


 どうにか返事をしたけれど、きっと僕は変な顔をしていたんだろうな。





 家まで送ってもらっていたら、もうすっかり朝の時間を過ぎてた。

 シートベルトをゆっくりと外すと、隣の彼は少しあくびをしていた。


 「ちゃんと寝なよ」

 「ああ、わかってる」

 「ごめんね」

 「楽しかったか?」

 「うん」

 「なら、いいんじゃないのか。謝んなくてさ」

 「……そうだね」


 車を降りると、夏の暑さが僕に伝わった。

 汗ばむように僕の心は苦しくなっていく。


 男同士だから出会えた。

 男同士だから一緒にいられない。


 たぶん泣き過ぎたのかな。

 もう一粒も涙は流れないや。


 胸元を右手でぎゅっと握り締める。

 それから僕は、泣けない代わりに、せいいっぱいの笑顔をした。


 「またね」

 「ああ、またな」


 僕が車のドアをパタリと閉めると、ゆっくり車が動いていく。

 街中へと去っていく彼の車を見つめる。それが点になるまで小さく手を振り続けた。


 厳しい夏の日差しが僕を焦がそうとしていた。

 僕はそれでも笑顔でいた。

 またねって僕は言ったから。大丈夫だって彼が言ったから。

 その日を待っていられるから。

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その人は僕に笑顔を作りにやって来たんだ 冬寂ましろ @toujakumasiro

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