春は無言歌 現代語訳



 ・ ( )は、原文には相当する部分がないけれども、

   現代文としては付け加えるのが妥当だと判断した

   補足部分です。

 ・ 作者の元々の古典語彙並びに古語文法の認識が怪しいため、

   こちらの現代訳は、現代意訳、さらには現代超訳と

   呼ぶべき箇所も多々ありますことを、ご了承ください。




 (趣味のピアノを弾くにあたって、折々の季節に合わせた楽譜を、どのようにも選べるものならば、)春は(メンデルスゾーンの)無言歌(集)をまず持ってこよう。「デュエット」(の名前で知られる作品三十八の六)の、ゆったりとメロディーの立ち上がる変イ長調(のイントロでもういい気分になれる)。さらには一度短調に転じて後の、いよいよクライマックスへと上りゆくところで、鍵盤の底に深くアウフタクトする一瞬(の快感)。そこから遥か青空へ朗々と伸び上がる歌声。まさに春そのものではないだろうか。(無言歌集の中では、他にも)作品十九の四、三十の三、有名な「狩りの歌」「春の歌」などが、いささか定番すぎる曲とは言え、花々の咲き乱れる風景の中で鍵盤に向かう(気分でいる)のならば、いい選曲だし弾きがいもある。(無言歌集以外では)メンデルスゾーンの創造力の結晶である他のピアノ曲の数々も、(概して明朗かつ歌心が豊かなので)春向けなのは言うまでもない。

 緑が吹き出る時季にはバルトークが合う。昼の太陽熱で土の香りが高く立ちこめる中(にピアノを置いたつもり)で「アレグロ・バルバロ」(を爆奏する)、この時節ならではの楽しみだ。また、寒の戻りの、しんとした夜に、「ミクロコスモス」第五巻や第六巻(からよさげなのを見繕うとか)、「ピアノソナタ」(を全曲通してみる)など、意外な取り合わせの妙を楽しめる。無調の作品ならなお、(春の夜には)いい。

 世の中全体が幸せっぽい気分の季節であり、ヘンデルやラモー(のクラブサン曲の数々)も典雅でおめでたいイメージの音楽だから、春にはふさわしいだろう。



 梅雨の季節はドビュッシー。(だが、いくら雨の季節だからといって、ショパンの)「雨だれの前奏曲」みたいなのは、現実のじめじめした空気と相乗効果をもたらすので(とても弾く気になれず)、選曲対象としては論外である。(ドビュッシーの「版画」第三曲である)「雨の庭」はそうではない。強い雨足を聞きながら(やはり篠つく雨のような)アルペジオの綴織を味わい、クレシェンドで波立たせ、土砂降りのごとく大粒の滴が飛び散るコーダ(で決める)。実によく合う。(他の曲の例でも)小糠雨のような「夢」、夜中の(穏やかな)雨を感じながら弾く「夜想曲」、霧が立ちこめる日にフィットしそうな「前奏曲集第一巻・第二巻」の中のあれやこれやの曲、波紋が広がる水辺のほとりで(ピアノを置いたつもりで)演奏する(「映像」第二集第三曲の)「金色の魚」、どれも梅雨の曲として悪くない。たとえば、(長引く雨で)ダンパーが湿っぽくなって軒並み柔らかい音になってしまったピアノで鳴らす「レントよりも遅く」が、(小雨で)濡れそぼった庭の敷石で、寂しげに反響している(なんて場面をイメージしながら弾くと)、もうこの曲はこの時季、この場面のためにある曲なんだな、という気分にさえなりはしないか。



 夏はラヴェル。「水の戯れ」、(「夜のガスパール」第一曲の)「オンディーヌ」などのメジャーどころは言うまでもなく夏の曲だろうが、(他の例を挙げるなら、たとえば)熱波の中、朦朧とした頭で弾く(「夜のガスパール」第二曲)「絞首台」とか。夜明け直後からカンカン照りでうんざりし、やけくその気分でぶっ叩く(「鏡」第五曲の)「道化師の朝の歌」とか。はたまた涼しげな風がそよそよと吹き渡る川べり(にピアノを運んだつもり)で奏でる「クープラン様式のトンボー(注1)」第一曲の「プレリュード」とか。はては、(真夜中まで蒸し暑い)盆の中日の午前二時に(「鏡」第二曲の)「悲しい鳥たち」のラスト一ページをつま弾いてみる、なんてのは、どうでしょうか。真夏の夜にふさわしい、イカレまくったホラーな境地にたどり着くこと、間違いありません(注2)。まして、稲光が天空を号する闇夜に(「夜のガスパール」第三曲)「スカルボ」を(雷鳴とアンサンブルするつもりで)弾き飛ばす、なんてのは、完全にイカレてる(けど楽しい)。

 酷暑の夏にあえて自らを鍛えたいと願うのならば、リストの長大なやつを一つ選んで、それに打ち込んでみる、というのも(スポーツ的な楽しみがあって)ありだろう。滝のような汗をかきつつ、「ソナタロ短調」の(中間部の)グランディオーソに我を忘れ、空気の流れがぴたっと止まった暑気溜まりの中で、最後のH音が虚空に消えるのを聴き届ける、なんてのは、ある意味、夏にしかできない贅沢ではないかと。



 秋はショスタコーヴィチ。(年度の半ばである程度)打ち解けてきた周囲の人達と、つきあいが長くなった結果として、小さな人間関係のトラブルなどが続出する時期でもあるので、(ショスタコーヴィチの音楽は)聞くからにトゲトゲしいメロディー(が頻出し)、罵倒するようなリズム(も少なくなく、かと思えば)骨の芯まで絶望しそうな寂寞としたハーモニー(が飛び出したり)、どの曲も秋の頃の心境に沿った曲のように思える。(作品十三の)「アフォリズム(格言集)」などそのよい見本だろうが、二曲ある「ピアノ・ソナタ」、「二十四の前奏曲とフーガ」なども、浮世に煩悩まみれで生きる人間の本性をどこまでも露わにしたような深みのある音楽なので、前の曲ともども、譜面の中身を堪能するのもいいだろう。

 (ショスタコーヴィチが受け付けられないほど)気分がまいってる時は、晩年のブラームスの、いぶし銀のような珠玉の数々の小品が、この上ない心の支えとなろう。タイトルこそまるで工夫のない、魅力の感じられないものが多いが、それにしても彼の愛想のない「間奏曲」が、(当時には山のよう出版され、人気を博していた)どこぞの作曲家がドヤ顔でつけた「〇〇のアリアによる華麗なる演奏会用パラフレーズ……」を凌駕すること、幾万倍だろうか。

 行事・催し等で祭りのようなことも多い時節なので、ラテン系の曲もよい。スペイン音楽など、秋祭りのイメージにあんまりにも合いすぎて、呆れてしまうほど。アルベニス、グラナドス(のスペインの二大巨匠の音楽は)ともに、グルーブで活動している折であれ、一人で気楽にしている折であれ、弾きたくなるような曲がいくらでもあるだろう。(たとえば)友人たちが、実はそれほど期待してないようなのに形だけ「なんか弾いてよ」などとせがんでみせるような時に、適当にお茶をにごすと見せかけて華麗に弾いてのける(アルベニスの「スペイン組曲」第一集中の)「アストゥリアス」、くっきりした影を宿しながら風にさざめくもみじやカエデを眼の隅で眺めやりながら弾き浸る(グラナドスの曲集)「ゴイェスカス」のさまざまな作品。秋が深まって闇が深くなってきた頃に弾いてみるモンポウ(の種々の作品)なども、また興がのりそうだ。



 冬はシューベルト。クリスマスシーズンに弾く(チャイコフスキーの)組曲「くるみ割り人形」とか、新年明けてのJ・シュトラウス二世のあれこれなどは、もちろん冬の定番ではあるけれども、凍てつく星の夜、防寒対策に腰から下をすっぽり毛布で覆いつつ、ずっとずっと先の暖かい季節を心待ちにしながら弾く音楽と言えば、第一に(シューベルトの作品一四二の二、D九三五の二の)即興曲変イ長調、第二に「楽興の時第二番」。二月の終わりになれば、「同六番」を挙げたい。(普通なら重たくて鬱陶しいだけの)中低音の密集コードが、ほんとうにしみじみと心に響くのは、寒さ極まる時季だからこそではないかと思う。

 (冬という季節は)暗黒の凍てついた空間を却って親密に感じ、その世界を究めたいと思うこともある。そんな時はスクリャービンだ。(作品29より後の)後半生に作曲された音楽の数々、とりわけ、(病的すぎて)この世界で鳴らすべきではないような気さえするたくさんの「詩曲」など、(弾くとすれば)この時季に弾くべき曲かも知れない。だが、くれぐれも彼の世界にあまり深入りしないように。この世の終わりを見ようとするものは、この世の終わりからも見つめ返されるものである。

 (不健全な方向には興味がなく、)冬ならではの凛とした氷雪の気色を、ただいいなあと思い、その気分で弾きたいと思うなら、シベリウスをお忘れなく。(作品七十五の)「樹木の組曲」、(作品八十五)の「花の組曲」、その他おびただしい数の小品は、どれもこれも凍りついた水鏡のように厳しく、しかし健やかだ。厳寒の時季にこそ、その真価を理解できるような音楽ではあるけれども、一方でそれぞれの音楽の奥深くには、春の息吹への強い憧れがたしかに窺い見え、実に味わい深い。




(注1) 「クープラン様式のトンボー」

 この組曲「Le tombeau de Couprin」は「クープランの墓」の名称が広く人口に膾炙していますが、曲の成り立ちからいってこれは明らかに誤訳であり、まだしもましな訳名ということで、ここでは表記の名称を採っています。

     参考サイト 「音楽図鑑CLASSIC」(by BUN氏)

      http://www.asahi-net.or.jp/~qa8f-kik/index.html


(注2) 「悲しい鳥たち」は別段恐怖を描いた曲ではありません 笑。ただ、曲の最終部だけ真夏の真夜中に聴くと、作者の個人的経験ですが、ちょっと何とも言えないサイケデリックな気分になったことがあるので、こういう文になりました。

 





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春は無言歌 湾多珠巳 @wonder_tamami

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