春は無言歌

湾多珠巳

春は無言歌 原文(古文)





 春は無言歌。「デュエット」のようよう歌いめるAs-durアスドゥア、少ししおれて、いよいよ高みへ駆け昇りたる、アウフタクトへこむる打鍵の深み、遥けき碧空へ渡れる彩り、いと春めきたる。十九の四、三十の三、おとに聞く「狩りの歌」、「春の歌」なども、月並みなれど、花々こぼるる景色の中にて弾けるは、おもしろうておかし。他、メンデルスゾーンの彫琢せし数々の譜、言うべきにもあらず。

 緑開く折にはバルトーク。熱き土の香に臨める「バルバロ」など、この時節ならでは。あるいは底冷えたる夜のしじまに鳴らす「ミクロコスモス」五の巻、六の巻、はたまた「ソナタ」など、数寄の趣あり。無調なるはさらなり。

 そこはかとなくさいわひ深き月々なれば、ヘンデル、ラモーのごとき雅やかな楽の音も、またつきづきし。


 梅雨はドビュッシー。「雨だれ」のごときは、うつつの湿り相重なりてあれば、語るべきにもあらず。「雨の庭」はさならず。篠つきし折のアルペジオの綴織つづれおり、波打ちたるクレシェンド、驟雨しゅううの粗々しきコーダ、いとおかし。こぬか雨の「夢」、夜半の雨音に合わせて弾ける「夜想曲」、霧なびく日の「前奏曲」の数々、雫広がる水面のはたにて奏でる「金色の魚」、すべてよし。湿り和らげるダンパーにて鳴らす「レントよりも」の、濡れたる敷石に侘しげにうち響きたる、この一期のみにあるべき心地すれ。


 夏はラヴェル。「戯れ」「オンディーヌ」などは言を俟たず、熱に漂い朦朧たる心地にて弾ける「絞首台」、白熱の暁陽ぎょうよううち眺めてうたての思い極まれる朝に鳴らす「道化師」、あるいはさらさらと涼風すずかぜのそよぐ川べりに流るる「クープラン」の第一曲。されば、盂蘭盆会の中あたり、丑三つ時の折に「悲鳥」の結びの一葉など試さるるか。まこと、盛夏の夜にふさわしき怪奇、妖異の心、いと狂おしき。いわんや、いかづち鳴り渡るる闇の「スカルボ」においておや。

 酷暑に我が身鍛えめとの企てあらば、リストの長々しき大曲一つに心注ぐもまたおかし。珠の汗滴らせつつ「ロ短調」のグランディオーソに御霊みたま飛ばし、凪の淀みにて最果てのHハー音を虚に散らす、まさに夏日のぜいと呼ぶべかむめり。


 秋はショスタコ。睦み合う人ども、交わり長きに渡りて小事あまた出づる折なれば、そこはかとなくひがひがしき旋律線、嘲りののしるがごときリズムパターン、身の髄まで竦ましむる寂寞たるハーモニー、いづれもいづれも近しく覚えたる心地す。「アフォリズム」などその一端なれど、二つなる「ソナタ」、「前奏曲とフーガ集」など、現し身の罪深き喜怒哀楽無辺まで晒しつる楽の深みなれば、合わせて譜のならびに心委ねるもおもしろし。

 心弱りたる日々には、老いたるブラームスがいぶし銀のごとき妙なる楽の数々、まさにありがたからめ。題こそなべて口惜しかること多かれども、彼の愛敬なき「間奏曲」の、なにがしがしたり顔にて名付けし「誰それのアリアによる華麗なる演奏会用パラフレーズ云々」に勝りたること、幾万重に思ゆ。

 世の習ひにて集い騒ぐこと多かれば、ラテン系もまたよし。イスパニアのつきづきしこと、あさましきほどにてやあらむ。アルベニス、グラナドス共に、あまた群れなす中にても、一人安らけしくつれづれなる折にても、選ぶる曲多かるめ。親しき者ども、さにはあらねども気色ばかり求めつるに、あしらふに見せて弾き顕したる「アストゥリアス」、色濃き影にて揺れさざめく紅葉、楓など眼の端にして奏で入る「ゴイェカス」の数々。さては長き夜になじみて後のモンポウなども、いとおかし。


 冬はシューベルト。待降節の「くるみ割り」、新しき日のワルツ王なども、さらにもあらねど、凍えたる星々の元、ひざもとに毛布流して、遠かりし陽のぬくもり思いて弾くは、まづ「アムブロンプチュ」のAs-durアスドゥア、次に「楽興がっきょう」の二番。二月のつごもり近き折にて六番。中寄りの低きほどにて、いとみつなるコードの床しき味わひなど、いと寒かるべき日々こそめづるべき時節なれ。

 光なき酷寒をして、いとしく、あくがるる心地ある日はスクリャービン。後の身にて書かれし譜の数々、この世にあるべからざりしきあまたの「詩曲」など、まさにこの季節に弾かるるべき。ただし、ゆめゆめ溺るることなかれ。世の涯てうち眺む者、また世の涯てより眺め返さるるものなり。

 氷雪の凛々たるさま、いとおかしと思ゆ気色にては、シベリウスこそえ置き忘れめ。「樹木の組曲」、「花の組曲」、あまたの小品、いづれも凍えたる水鏡の如きに峻にして健やかなり。身竦む時節にのみその心を知れる楽なれど、深みにては西風の巡り来るをあくがるる色などほの見ゆる、いとおかし。


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