月の夢は凍えそうな世界へ

春雷

月の夢は凍えそうな世界へ

 月の物語を聞いた。竹から生まれた姫が月へと帰っていくお話だ。その発想の素晴らしさと素敵さに驚嘆しながら、僕は月に行きたいと思うようになった。

 アポロ11号が月に辿りついた時、僕らはまだ幼い子供で、何も知らない世界に胸を高鳴らせていた。月に人が降り立った時、これから新しい時代が始まるのだと思った。僕は歴史的な瞬間に立ち会っている。これからどんな未来が待っているのだろう。その疑問に早く答えてほしくて、僕は大人になりたがった。


 あれから何年経ったのか。僕は戦争で妻を失った。アポロ11号の月面到達を契機に、宇宙開発競争が各国で激化し、とうとう宇宙戦争が始まり、その戦争で出た化学物質が地表に降り注いだ。オゾン層は破壊され、紫外線は容赦なく僕らを襲う。地球環境はおそろしいほど変化した。人が住める場所はもうほとんどない。科学者の警告は再三無視された。

「子供の頃、未来はいつだって明るいものだった。でも、大人になるにつれ、現実を知り、その幻想は打ち砕かれた。大人になるということは、楽観的でいられなくなるということなのかもしれない」

 亡くなる二日前、妻は僕に自身の未来観を語った。僕はどちらかと言えば楽観的な人間だけれど、彼女のその考えに共感することができた。僕らの未来は決して明るいものではない。現実は予想外なことばかりだ。未来はいつも未知で、素敵なものであったはずなのに、願いはすべてかなうはずだったのに、今は苦しい現実のみが理想を砕きながら進む。光はどこだ。僕はそう叫びたかった。

「誰のせいだ」

 その問いに答えてくれる者はいなかった。でも答えは明確だった。


 宇宙戦争の発端は宇宙開発だ。その宇宙開発を進めたのは誰か。戦争に突き進もうと決意したのは誰か。その答えは同時代人なら誰でも答えることができた。

「ああ。未来よ。君だけは僕らの味方だと思っていたのに」

 そんな風なことを言って、自分を慰めても何も変わらなかった。僕はやがて、月を憎むようになっていった。月。お前さえいなければ、こんな世界にはならなかったのだ。


 彼は突然僕の部屋に訪れた。彼は自分の名を「マブ」と名乗った。

「悲しいのかい」

 マブはそう問いかけた。悲しいか? その問いかけは不躾に思えた。悲しんでいる人に悲しいと尋ねるのはどういうことだ。どういう気持ちで訊いているのだ。

「悲しいに決まっている」

「その悲しさを、僕は無駄にしたくないんだ」

「どういう意味だ」

「ともに立ちあがろう」

 マブは僕の手を取り、僕を外へ連れ出した。

「どこへ行くんだ」

「知ってる? 流れ星に願いを託すと、叶うんだ」

「迷信だよ」

「流れ星は、僕らの味方だ」

「今見えている流れ星のほとんどは墜ちた宇宙船や流れ弾だという話だ。もう純粋な流れ星は見られないんじゃないか」

「そんなことはない。きちんと眼を凝らせば見えるよ」

「そうかね」

 僕はだんだん面倒なことに巻き込まれつつあるのではないかと思った。この少年が話している内容はどうも胡散臭い。このまま付いていって大丈夫だろうか。

「アポロ計画はドイツから合衆国へ渡ったある科学者によって立てられた。彼は宇宙へ行くためならなんでもやった。どんなに批判されようとも、そんな声を撥ねつけて、自分の夢へ邁進し続けた。彼はまさに魂を悪魔に売ってでも、宇宙への夢を実現させようとしたんだ」

「それがどうしたというんだ。もうみんな知っている話だよ」

「人は時に、狂気的に何かに引き付けられることがある。その引力はすさまじく、周りが見えなくなるほどに、節操がなくなるほどに、強く人を惹きつける。宇宙はその最たるものだよ。宇宙開発は人の発展に寄与した。その一方で、破滅を加速させもした」

「その通りだ」

「でも、それはこの世界線での話なんだよ」

「何だって?」

「こことは違う世界では、宇宙戦争なんか起こっていないんだ」

 この子は何を言っているのだろう? 僕には理解できなかった。

「違う世界線では、アポロ計画の後、宇宙開発は下火になり、アポロ17号を最後に、人は月に降り立っていないんだ」

「アポロ17号? アポロは17号までしかないと言うのか?」

「ああ。大統領も暗殺されたし、宇宙競争に関与した主要な科学者も死んだ。こことは違う世界があるんだよ」

「信じられないな。第一、君はどうしてこことは異なる世界があると知っているんdな」

「行ったことがあるからだよ」

「行ったことがある?」

「うん。流れ星に願ったんだ。ここではない世界に連れて行ってくれって」

「それで、行けたというのか」

「そう」

「どうにも信じられないな」

「疑い深いなあ」

 その世界では、ケネディもフォン・ブラウンもコロリョフも、もういないと言うのか? 宇宙開発とロケット開発が並行して発展し、このような悲劇を生んでいない世界があると?

 それはいったい、どんなに良い世界なんだ。

 僕は妻を失った悲しみで混乱していたのだろう、少年の話を信じても良いという気がした。こんな希望もない世界だ。絶望に包まれた社会だ。すべてを失った自分だ。もうどうなっても良いだろう。少しでも希望があるのなら、たとえそれが荒唐無稽な話だとしても、そこへ進んでみるのも良いじゃないか。

「わかった。願ってみよう」

「うん!」

 少年は弾けるような笑顔で返事をした。僕まで嬉しくなった。

 さて、僕がこれから行く世界。それはどんなに素敵な場所なのだろう。戦争もなく、憎しみもなく、悲しみもない。嬉しさと、楽しさと、喜びと、美しさが溢れた世界。きっと、そんな希望に満ちた世界なのだろう。

 僕は少年と共に、星に願った。

 ここではない、どこかへ連れて行ってくれ、と。


 月の物語を聞いた。竹から生まれた姫が月へと帰っていくお話だ。その発想の素晴らしさと素敵さに驚嘆しながら、僕は月に行きたいと思うようになった。

 人類が月に行くことは容易なことではなかった。多くの犠牲がそこにはあった。血のにじむような努力がそこにはあった。悪魔のような欲望が、そこにはあった。

 僕が今から行く世界はどうなのだろう。月は、変わらず綺麗だろうか。

 人間は、まだ美しいままだろうか。

 月に行った姫に追いつくことのない僕は、新しい世界でひどく美しい月を見たいと思った。

 月を憎むようになった僕は、もう一度月を愛したいと心から思った。


 気づけば、僕は見知らぬ世界に立っていた。誰もが機械を手に持っていた。皆、焦っているみたいに見えた。

 少年はどこへ行ったのだろう。探しても、どこにもいなかった。

 人々は冷たかった。誰も僕の話を聞いてくれなかった。ニュースが大画面に映されていて、戦地の様子が報道されていた。その他にも、様々な悲しいニュースが報じられていた。

 昼間だったから、月は見えなかった。

 

 夜。公園で一人、ベンチに腰掛けていると、初老の婦人が話しかけてきた。空を見上げると、満月だった。久しぶりに月を見た。

「月、綺麗ねえ」

「いえ」

「あら、月、嫌いなの?」

「好きでした。でも、ある出来事があって、嫌いになりました」

「そう」

 沈黙が流れた。婦人は立ったまま、月を眺めていた。僕は地面ばかり見ていた。

「昔ね」

 ご婦人は話を始めた。

「人は月に行ったの。月に降りた宇宙飛行士はこう言った、『一人の人間には小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍である』と」

「僕も聞きました」

「まだ若いのに。再放送で聞いたのかしら」

「まあ、そうです」

 実際はリアルタイムで聞いていたが、それは言わないでおいた。

「みんな夢中になって見たわ。あれほど胸を高鳴らせたことはなかった」

「そうですか」

 彼女は何が言いたいのだろう。

「私、昔は虐められていてね。父親が無職だったから、それを理由に石を投げられたり、殴られたり、散々だった。だから、月なんてどうでも良いと思っていた。人類が月に行っても、私の状況は変わらないって。でも、実際にテレビで見ると、これほどわくわくするものはなかった。素晴らしいと本当に思った」

 僕は何も答えることができなかった。

「月に行きたい。本気で思った。でも、私には無理だと思った。それで諦めていると、ある日、少年が私の家にやって来たの」

「少年?」

「名は、マブ」

 あの少年だ。どういうことだ? 

「彼は色んな世界を旅していると言った。素晴らしい世界を作りたい、と。それで私を月に連れて行ってくれたの」

「月に?」

「ええ。不思議な話でしょう?

 月から見た地球は美しかったわ。月で踊るのは楽しかった。その時だけは、何もかも忘れて楽しむことができた。この世界も、捨てたものではないと思えたわ。結局、かぐや姫にはなれなかったけれどね。求婚者はさっぱりで」

「その少年は?」

「どこかへ消えてしまった。夢だったんじゃないかと思うこともあるわ」

「人類が」

「え?」

「人類が月へ行くことを夢見たのは、悪いことばかりじゃない」

 僕は呟くように言った。月は人を狂わせるが、慰めもするのだ。

 僕はもう一度月を見上げた。いつもと変わらぬ月がそこにはあった。変わったのは僕の心の方だったのだ。

「まだやれることはある」

 僕は婦人に宣言した。

「この世界で仲間を集めます。そしてまた僕の暮らしてきた世界へ戻ります。世界を、もう一度月が美しいと思える世界にするために、全力を尽くそうと思います」

 婦人は頷いた。おそらく意味は理解していなかっただろうけれど。

 月の夢は、僕らを良い方向へと導くのだと、信じながら、進めたら。

 そう思いながら、僕は満月の下にある街へ、走っていった。

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