反芻
浅雪 ささめ
反芻
おはようを言い合っていた
テレビをつけると、何回見ただろうか。近くの海で身元不明の足が見つかって、地元の人が献花したとの報道。この前ふらりと規制テープに向かうと、朽ちた献花が砂に混じれているのが目に映ったので、すぐにその場を後にした。
恋人を失った悲しみも段々と薄らいできて、お酒の消費量も日に日に減っていった。とはいっても、部屋の掃除をするたびに出てくる長い髪を拾うたびに、涙は止まらないけれど。彩希が残したネイルの空き瓶は昨日のごみの日になくなった。
雨粒がドアを叩くのも、彩希が帰ってきたと思わせて嫌だったのは言うまでもない。
「酒また買ってこないとなあ。いや、これで最後って決めたんだから守らなきゃ。こんなこと続けてたらまた彩希に叱られちゃうな」
独り言は嫌でも増える。返事がないことに虚しくなってまた酒の量が増える。その繰り返し。
空いた穴を埋めようと女の胸にチップを挟むのも、むなしくなって先週やめた。
これで最後と自分に言い聞かせながら缶を口に付けるも、一滴だけが舌に乗るばかりだった。ため息を吐くと口の中が寂しくなり、重たい蛇口をひねった。しかし、ひねってもひねっても、一向に水は垂れてこない。
「水道代払ったはずなんだけどな」
しばらくしてやっと流れたと思ったら、そこにあったのは足だった。酒が回って幻覚でも見ているのだろうか。きれいな薄紫色のペディキュアは、昨日に捨てたものと同じ色だった。もしかしたら、と期待を寄せる。
手を伸ばしてその足を掴もうとしても、ただ指が濡れるだけだった。初めて愛撫した時のことを思い出してまた胸が辛くなった。
そうして眺めているうちに、腰のあたりまで出てきた。つっかえたようにスカートがめくれていて、太ももの裏側にほくろが見えた。これも彩希と同じ位置だ。
このままだと排水溝に流れることに気づいて、鍋は使っていたから慌ててそれをコップで受け止める。
彼女が出切った後は勢いよく水が流れてきたので急いで蛇口を止めたが、溢れそうになって焦った。コップに
「ただいま」
海に消えたはずの彩希がそこにいた。ちょうど、うずらの卵くらいの大きさで。
もちろん人の姿のままで当時の服を着ているし、僕が去年のクリスマスにあげたネックレスもつけている。
「おかえり。でも、水道から帰ってくるとは思わなかったな。折角玄関のカギを開けておいたのに」
「なんでだろうね、私にも分かんないや。でもさ、こうしてまた会えたんだからいいじゃん?」
どうせ私がいなくて泣いてたんでしょ? という余計な図星の指摘も付け加えて彼女は笑った。つられて笑うのも途中でなんか癪になって、結局変な顔がコップに映った。
「水槽にでも移そうか? その中じゃ窮屈じゃない?」
夏祭りに彩希がとった金魚が泳いでいる、少し大きめの水槽を指さして言う。
「お風呂がいいな。その方が広いし」
「僕も今日入るんだけど」
「今更恥ずかしがることないでしょ?」
それもそうだな。とチクチクする頬をさすりながら答えた。
浴槽を洗ってからお湯を張り、彩希をそこへ移した。僕が入るまで風呂に一人も可哀想だったので、おもちゃのアヒルも2匹浮かべとく。そのまま出て行こうとすると
「あれ? 入らないの?」
と不思議そうに聞かれたので、
「脱がないと入れないでしょ。僕は液体じゃないからさ」
と、トイレ掃除を後回しにして、服に手を掛けながら答えた。
「お待たせ」
シャンプーで頭を、泡のニキビケアで顔を洗い、青いあかすりで石けんを泡たてて体を洗う。
「まだその石けん使ってるの?」
「なんかもったいなくて使えなくてさ」
クチャの発音に彩希がツボり、沖縄旅行に行ったときに買った固形石けん。彩希がいなくなってからも使っていたけど、ピンポン玉サイズになった時くらいからそのままにしてあった。綺麗な球状のそれには少しヒビが入っている。折角、彩希が帰ってきたんだ。今日くらいは使いたい気分だった。
洗い終わってゆっくりと湯船に入ると、アヒルと一緒に彩希も揺れた。ほとんど同じ大きさなのが少し笑えた。
「一人の風呂は寂しかったな」
自分の声しか反響しない時間ほど、嫌なことはなかった。
「狭いせまい言いながら入ってたから、一人でゆったりできたんじゃない?」
まあでも、と彩希は悲しそうに続ける。
「私とお風呂に入れるのも今日だけになっちゃうけどね」
「えっ? じゃあ明日からどうするの?」
「明日はもうここには。悠宇くんとはもういれないの」
「なんで……」
「私だって悠宇くんといたいんだけど……」
彩希がアヒルと一緒に泳ぎながら言った。
「海に帰らないといけなくて」
それも明日に。と彩希は付け足す。
帰るって。彩希の帰る場所はこの家じゃないのか。
「折角また一緒になれるのにか? ずっとここにいることだってできるはずだろ?」
それに僕は金魚も長生きさせられるんだよという冗談もプラスして、笑いながら言う。
またいなくなるなんて、それほど辛いこともない。今にも泣きそうな顔を見せたくなくて、お湯をすくって顔を流した。
「私だって悠宇くんとずっと、こうやって話していたいんだけどさ……」
何か大事な理由があるのだろうか。でもどうせ。僕なんかでは彼女を止めることはかなわないのだろう。
「じゃあせめて今夜は一緒にいてよ」
風呂から上がって彩希をコップですくい、テーブルの上に置いた。布団の上であぐらをかいて彩希と目を合わせる。
「私のものって、なんか残ってるの?」
「ネイルとか殆どは捨てたんだけど。そうだな、これとか?」
そうして取り出したのは浅縹色の浴衣。彩希が着ているのは一度しか見たことないが、とても印象に残っていた。彩希の服を整理して捨てるときもこれだけはクローゼットの奥にしまっていたのだ。
「残してたの? 捨てるかあげるかすればよかったのに」
「彩希のお母さんにも言われたよ。でも、何というか、もったいなくてさ」
「懐かしいね、納涼祭」
「ね。今年も浴衣姿見たかったな」
彩希はそうだね、と一言呟いて視線を下げた。
「あとは、手紙とかはとってあるよ」
彩希がいなくなって数日のとき、酒を飲みながら読み返しては嗚咽を漏らしていたのが懐かしい。
「それと、そうだな。ヘアゴムとかはお菓子の袋留めるのとかに使ってたよ」
本当はお酒の缶に巻いて彩希と飲んでいる感覚になるために使っていたのだけれど、それはさすがに言えなかった。
「女々しいね」
「そんなもんだよ、男って」
そのまま二人でいつかのような、くだらない会話で夜を明かしてから眠りについた。わからないことばかりで、なんで海に行かなきゃいけないのかも結局聞きそびれてしまったけども。久しぶりに話せて、彩希の笑顔が見れて。それだけで満足だった。
目を覚ましたのは十六時ちょっと前。味噌汁の香りがかすかに残るキッチンに嬉しく思う。たとえ自分で作っておいたものだとしてもだ。味噌汁を温め直し、コンビニ弁当をレンジで温める。ふと目をやると、テーブルの上、コップの中に彩希はいた。どうやら夢ではなかったらしい。ずっと寝顔を見られていたなんて照れくさいなと思いつつ挨拶を交わす。
「おはよう」
「おはよ」
久しぶりに返ってくる挨拶に、自然と頬が緩んだ。
彩希の入ったコップを置いたまま、弁当を頬張る。間違えて飲まないよう、別のコップにお茶を注いだ。
割り箸を捨てた僕に彩希が話しかける。
「もう、行かなくちゃ」
なぜそこまで焦るのか、僕には理解できなかった。
「やっぱり納得いかないよ。昨日も聞いたけどさ、なんで海に行くの」
そこをはっきりさせないと、また自分の中で区切りがつかないままに別れることになる。そんなのは残酷だった。
彩希の言うことは聞いてあげたい。だけど離れたくはない。これは彩希のわがままなのか、それとも僕のわがままなのか。
「一つ、これだけは言っておきたいんだけど。私は悠宇くんに前を向いてほしくてやってきたの」
「うん。ありがとう……」
彩希が帰ってきたおかげで、僕は本当に久しぶりに笑えた。そう考えると前を少しは向けたのかもしれない。となると、もう役目を終えたことにでもなるのだろうか。
「それで、簡単に言うとね。私、海に忘れ物をしちゃったの」
「忘れ物?」
「詳しく話すと長くなるんだけど、行きながら話すんじゃだめかな?」
「駄目って、言ったら?」
意地悪な問いに、彩希はあはと乾いた笑いを返すだけ。つまりはそんなこと言わないでよと言っているのだ。
「ごめんって。じゃあ行くか」
せめて理由を聞いてから。納得してから。そう思っていたが、話してくれるならそれでいいと思ってしまった。いや違うか。彩希と話せて嬉しかっただけなのかもしれない。
気がつけば時計は十七時を過ぎていた。オレンジの空に紫陽花色の雲が浮かんでいる。
僕が車のカギを手にすると、コップの中から不満の声が響いた。
「歩いて行こうよ」
海まで車だと二十分。歩きだと大体一時間はかかる距離だ。
まあいいか。今は手をつなぐこともできないのだから。
「でも、また悠宇くんの前から消えようとする私の言える事じゃなかったね」
彩希はへなっと笑った。そりゃそうだと僕も笑うと、水面にふたりの笑顔が重なった。
「でも歩くならコップじゃ変だな」
コップを持って散歩している人なんて見たことがない。周りから彩希がどう見られるのかは分からないが、避けるのが無難だろう。
そうだ、金魚の入ってた巾着とかどうだろうか。端から見ても、面白いかもしれない。と考えていると彩希がねえ、と呼びかけた。
「あれでいいんじゃない?」
彩希が指さした先にはラベルの剥がしてある300mlのペットボトル。
「キャップは……ないな」
中を軽くゆすいでから、じょうごを使って彩希と水を移す。
玄関を開けた家の前、ちょっとした段差につまずいて、ボトルの中身がピチャッとはじけた。
「大丈夫?」
「うん、なんとか」
「ごめんね。でもその……」
その方が早く海に辿り着けるんじゃない? と言いそうになって、口をつぐんだ。
「まったくもう。悠宇くんはいつもそうなんだから」
その一言に、心の中まで見透かされているような気がした。
「そんなこと言ってると、本当にこぼしちゃうよ?」
「もう。やめてよー」
そんな会話をしているうちに、本当に中身が、ほんの少しだけこぼれてしまった。急いでボトルの中身を確認すると、彩希の右足がなくなっていた。
「ご、ごめん」
「一足早く海に行ったんじゃないかな? 足だけに」
そう言って彩希は笑った。いつもこの笑顔で救われていた、いや。誤魔化されていた。彩希がいいって言うならいいだろう。そんな考えをしている自分を恥じた。
ただ、液体だから痛くはないのかもしれない。僕も液体だったなら彩希と一緒になれて、この心も痛まないのだろうか。
家の前の道路を左に曲がって、まっすぐに海へ向かう。
「悠宇くん、また忘れてるよ」
横断歩道を通過していく車を眺めていると、袖をひかれるように彩希に注意されてしまった。
「いつもは彩希に押してもらってたから、つい」
ボタンを押すとすぐに青信号に変わって、先に進む。押さなかったのは本当は少しでも彩希と一緒にいたかったからなのかもしれない。
横断歩道を渡ってまた歩くと公園が見えた。春は花見に、クリスマスのときにはイルミネーションを見に来たっけ。けんかの後にはブランコをこぐ彩希を探しに来るまでがいつもセットだった。
それからも、お弁当屋や喫茶店を見つける度に彩希との思い出が溢れてきた。
彩希はなぜかいつものり弁しか買わなかったし、喫茶店ではナポリタンをいつも頼んでいた。「だっておいしいんだもん」と言い張る彩希は可愛かった。
海まであと半分を過ぎたあたりで、一つ大事なことを思い出した。なんで海に帰るのかなんてどうでも良くなるほどの、大事なことを。
「あのさ、」
「ん?」
「どうして彩希はあの日、海にいったんだ?」
どうしていなくなったのか。未だに彩希のことは分からないことだらけだけど、別れる前にその理由だけでも知りたかった。
それ聞いちゃうかあ、と困った顔をしながらも、彩希は理由と蛇口から出てくるまでのことを話し始めた。
「あの日ね、私は海に身を投げたんだ」
「うん。ニュースでも見たよ」
「その理由は今になっては本当にどうでもいいことだったかもしれない。親との不和、親友との喧嘩。そんなことが積み重なったことを悠宇くんに話せなかった後悔とか」
「そう、なんだ」
「飛び込む時には何も考えないようにしてたんだけど。でも、直前に悠宇くんとの思い出をふりかえったの。遊園地に行ったなとか、プレゼント嬉しかったなとか。あとは悠宇くん、ピースの指が全然開いてなかったなぁとか」
つまりはさ、と彩希は淡々と続ける。
「反芻したんだよ。飲み下したものを一つ一つ思い出して」
彩希の走馬灯が僕で埋まってくれたと知って、ちょっと嬉しい自分が後ろめたかった。
「でも、すべてを戻せるわけではなくて。その中に私は『死』をおいて来てしまったの」
「出かける前に言ったでしょ? 悠宇くんに前向きになってほしくて来たって」
「うん」
「反芻してる間に、泣いてる悠宇くんが見えてさ。覚えてる? 私がインフルのときさ。慌ててる悠宇君を見て、私の方がどうしたらいいのか分かんなくなっちゃって」
スカートをひらひらさせながら彩希が笑った。すぐに声のトーンを戻して続ける。
「だからさ。取り戻しに行かないといけなくて」
今日じゃなくてもよかったんじゃないかという疑問は、彩希のスカートを下から覗いて消えた。
「そっか。その置いてきちゃった死を最後に拾わないといけないんだ」
「そういうこと」
海につく前の最後の曲がり角。二人でたまに来た和菓子屋に目をやるとシャッターが下りていた。この前も閉まっていたけれど、潰れてしまったのだろうか。
「あそこの饅頭、美味しかったよね」
「彩希、いつもおまけしてもらってたもんな」
「また食べたいなあ」
彩希と二人歩きながら、ヘンゼルとグレーテルが置いていったパンくずを拾うように、想い出を一つ一つ集めていく。最後の一つを拾うために。
目の前に海が見えてきた。一歩進むたびに、別れが近づいていると思うと、自然と歩きが遅くなる。
「もうそろだね。ほら見てみて、夕焼けがきれいだよ!」
ペットボトルも照らされて、彩希も一層輝いている気がした。のんきで楽しそうな彩希に僕は
「そうだね」
としか返すことが出来なかった。
「そういえばさ」
彩希が眩しそうに手をやりながら僕の方を向いた。
「最後まで理由聞かなかったね」
一つだけ、聞かなかった理由がある。それは、なんで彩希が今になって僕の前に現れたかの理由。なぜ一か月経った今なのだろうか。彩希は前を向かせる前に帰ってきたって言っていたけれど、もしかしたらその間に僕が後を追ってしまってるかもしれないのに。
「だって、彩希だって答えられないだろうし、会えたから。それで僕は満足だよ」
「私も悠宇くんにまた会えてうれしかったよ」
そんな会話をしていると、あっという間に着いてしまった。規制テープを乗り越えて、サクサクと一歩一歩ゆっくりと進んでいく。
「じゃあお願いね」
「うん……」
やっぱり別れは悲しくて。歩く音が止まった。
「どうしたの?」
僕を見上げる彩希に耐えられなくなって、涙が一粒。ぽちゃんと小さな音を立てた。
「ご、ごめん……」
謝っても、涙はとまってくれない。それどころか勢いを増していく。前に同じように泣いた時、胸を貸してくれた彩希はもういない。
「海よりしょっぱいね」
なんて、彩希は笑った。
波打ち際まで来たとき、気づけば涙は止まっていた。彩希と目が合って頷きあうと、これで最期だというように彼女は目をつむった。僕はその場に膝をつく。足が濡れることなんて構わない。
「僕も一緒に沈んでいくよ。やっぱり君を失うのは、とても辛すぎることなんだから」
そう言って僕はペットボトルの中身にキスをするように、彼女ごと飲み込んだ。塩辛い風味だけが口に残る。彼女の声なんか聞こえない。声なんて聞こえない。
夕日に照らされた水平線が、赤い糸になって僕らを結んでいる気がした。
反芻 浅雪 ささめ @knife
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