胡蝶の探偵
だいなしキツネ
胡蝶の探偵
夢の中で夢を見ると、何が起きるか分かるかい。
そのことを探るためには、まず夢とは何かという仮定が必要だ。仮定でいい。確証はいらない。なにせこれは夢の話だからね。
こんな逸話を聞いたことがあるかい。
あなたは夢を見ている。胡蝶になって、花のあいだを飛んでいる。春の風にひらひら揺れて、ふっと眠気に誘われる。すると、あなたは目覚めて人間になる。胡蝶が人間の夢を見ているのか。人間が胡蝶の夢を見ていたのか。どちらが真か。
どちらでもない。正しさは夢の彼方に置き去りにされたから。夢の中で見た夢は、真実を置き去りにしていく。あなたはもう胡蝶ではない。さりとて人間であるとも限らない。たかだか夢の中で夢を見ただけで、人間の輪郭は崩れるのだ。
さて、以上を仮定として、今回の事件を解き明かそうじゃないか。あなた、事件に巻き込まれていたことを覚えているかい。
覚えてない。
まぁ、仕方がないね。なにせ夢の中だから。そう、ここはあなたの夢の世界。しかしあなたは目覚められない。既にここは夢のまた夢。境界が崩れ去った後の世界。
どうやらここで、事件を振り返る必要がありそうだ。
わたしは真夜中に線路を歩いていました。とうの昔に廃線となっているので、犯罪ではありません。夜空には半円の月が煌々と輝いていました。虫の鳴き声だけがりんりんと聴こえていて、静か。遠くには川のせせらぎ。さほど田舎ではないけれど、人気の少ない土地なのです。
わたしがこうして歩いているのは、つまらない失恋が理由です。気持ちを伝えるまでもなく、相手には別のパートナーができたのです。これを残念がっているかといえば、そうとも言えないのが辛いところ。わたしは、わたしの気持ちを諦める理由ができたことに安堵していました。歩いているのは、そういうこと。自分の気持ちを置き去りにしたいから。いえ、気持ちを置き去りにしたい自分自身を置き去りにしたいから。ここから、少しでも離れたいから。それなのに、身体はいつまでもついてくるから。
ふと、月の明かりが翳ったように感じました。顔を上げると目の前に、天まで届くエレベーターが聳え立っていることに気づきました。いわゆる宇宙エレベーターです。
こんなもの、いつできたっけ。考えるまでもなく、あぁ、これは夢なんだと気づきました。あるはずもないものに乗って、どこでもないところに行きたいという、夢。もちろん迷わずに乗りました。操作方法は簡単でした。開く。最上階。閉じる。ドアが、閉まります、上へ、参ります……。
ガタン、と揺れたのは二分ほど立ってからでした。既に富士山よりも高いところまで登っていたエレベーターは、異音を立てて落下していきます。臓腑がひっくり返るような感覚がして、妙にリアルでした。でも夢の中だから、怖いというより畏ろしい。予想通り、エレベーターは地面に墜落してもなお墜ちていきました。底無しの穴でした。上部マントル、遷移層、下部マントル、D"層、外核、内核、地球の中心に到達してもなお墜ちていきます。目は覚めません。当然でしょう。目覚めたくないと思っているのだから。
なのに。わたしは背後に誰かが立っていることに気づきました。トン、と背中を押されました。エレベーターのガラスと思っていたところは空洞で、わたしは落下するエレベーターから更に落下したのでした。
ここまでは思い出したかい。では、あなたを突き落としたのは誰だったのかな。わからない。顔を見ていないから。まあ、そうだろうね。ちなみに、続きは覚えているかな。覚えてない。
それなら一緒に、思い出そう。
おれは、汗だくで飛び起きた。誰かに背中を押された気がした。オフィスには人が戻り始めていた。昼休みだ。昼休みをデスクに突っ伏して寝過ごしたらしい。
隣の女性が、おれの顔を見て笑った。先輩、ヨダレ出てますよ。ほっぺたに線、ついてますよ。
恥ずかしかった。けれど、満更でもない気がした。話すきっかけを掴もうとして、掴めないでいた相手だから。きみは昼ご飯を食べてきたのかい。もちろんですよ、ラーメン食べてきましたよ。一人で行ったのか。もちろん一人ですよ、わたし、一人でラーメン行けますよ。
話し始めればとめどなかった。今まで何で話せなかったのか不思議なほど、和やかに喋ることができた。好きな食べ物、好きなドラマ、好きな俳優、好きな声、話題は尽きず。もしかしたら、彼女も話すきっかけを探してくれていたのかもしれない。
先輩。別の声がおれを呼んだ。先輩、オンライン会議のID届いてますか。気づけば昼休みも終わり。昼ご飯を食べる間もなく、おれは仕事に引き戻された。会議のID届いてないな。おれが直接聞いてくるよ。おまえは資料をまとめておきな、せっかくの晴れ舞台なんだからさ。後輩がそこそこのプロジェクトを任されるかどうかの瀬戸際だった。先輩としてできることはしてやりたい。席を立ったおれに声をかけたのは、どちらの後輩だったか。先輩、ちょっとお話があるので、一緒についていっていいですか。
道中聞かされた話題は、存外どうでもいいものだった。いわゆる色恋沙汰だ。そりゃ大事なものかもしれないけれど、仕事中にするものかね。問題は、その色恋沙汰の中心に、おれがいたということなんだが。
そんな話を聞かされて、おれにどうしろっていうんだ。質問したところ、後輩はそっと聞いてきた。先輩は、どうしたいですか。
おれはどう答えたんだったか。いずれにせよ覚えているのは、あの背中の感触。確かにおれは押されたんだ。そっと。それは優しい感触だった。ふわりと宙に浮いた気がした。気づくと隣の女性とぶつかりそうになっていた。謝ると、相手も頬を赤らめていた。何だか夢のような気分だった。いや、これはもしかして夢なんじゃないか。そのとき、トン、とさらに背中を押されて……。
さて。思い出したかな。そう、あなたは今のところ誰でもない。誰なのか分からない状況だ。この事件の被害者はあなた。しかし、あなたが誰だか分からない、つまり被害者が誰だか分からない。と同時に、犯人もまた分からない。あなたは何度も背中を押されているが、誰に押されているのかは一向に掴めない。それを一緒に解き明かしていこう。
なに。これは夢の話だ。ぼくには全てお見通しだよ。
あなたはまず、線路を歩いていた。あなたは次にオフィスでうたた寝をしていた。両者の共通点は、会社で働いていること、そして恋愛をしていること。
でも、両者には大きな違いがある。片や失恋し、片やおそらくは成就しているということだ。この二人は同一人物なのかな。どうもそうは思えないね。にもかかわらず、確かにあなたはどちらでもあったんだ。
ここで一つ知っておいてもらおう。夢とは、記憶の整理整頓だということを。夢というのはね、なんにもないところから荒唐無稽に生まれるものではない。いつもなにかしらの記憶を拠り所として成立するものなんだ。ただ、本人の感情に応じてそれは歪められがちだけれども。
線路を歩いていたあなたは、最後はエレベーターからも転落して、底無しの穴を味わっている真っ最中だ。一方で、会社の先輩であったあなたは、恋愛が成就する間際で夢の終わりを迎えている。夢の探偵であるぼくが断言しよう。あなたはその夢の続きを知らないんだよ。
つまり、先輩はあなたではない。にもかかわらず、あなたは先輩を夢見た。もう説明の必要はないね。あなたの恋愛対象は、先輩だったんだ。
さて。ここでもう一度おさらいしよう。夢は記憶に関連している。全く記憶に根拠を持たない夢は存在しない。あなたが先輩でないのであれば、あなたは先輩以外の登場人物として、その夢に登場しているはずだ。ところで、隣の女性と先輩は恋仲に発展したようだね。つまり恋愛が成就している隣の女性はあなたではない。消去法。あなたはもう一人の後輩だ。そして、先輩の背中を押したのはあなた自身だ。
先輩の背中を押すことによって、あなたは自分を奈落に突き落とした。わかるね。エレベーターからあなたを突き落とした犯人とは、あなたのことだ。被害者はあなた。犯人もあなた。
事件の動機は、説明しない方がいいだろうね。なぜあなたが先輩に恋心を告白できなかったのか。それはこの夢ひとつで解決できる問題ではないから。あなたが目覚めた先で向き合わなければならない問題だ。
そう。ぼくはあなたを起こすよ。そのためにここまでやってきた。ぼくは胡蝶の探偵。夢と夢のあわいに落ちてしまったひとを、次の夢へと誘う存在。目覚めた先が夢ではないと約束することはもちろんできない。そんなことは誰にもできない。今まさにあなたが夢を見ているかしれないということを、否定できるひとは誰もいない。
けれどね。
夢の中であろうと前に進むのが、生きるってことなのさ。ぼくはあなたに生きて欲しいから、いまここに舞い降りた。
あなたは優しいひとだ。優しいひとは、優しさに包まれて欲しい。たとえそれが夢物語であっても。……最初の話を覚えているかな。もうあなたは夢の中。寝ても覚めても夢の中。この優しさからは、逃れることはできない。
ふふふ。真犯人が誰なのか、分かっちゃったかな。決して逃がさないよ。さぁ、目覚めなさい。
胡蝶の探偵 だいなしキツネ @DAINASHI_KITUNE
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