過去、蜃気楼にて

M.S.

過去、蜃気楼にて

 小学生だった僕は夏休みを利用して、東北にある祖父母の家に訪れていた。

 共働きだった両親は「遊びに行ってこい」と言っていたけれど、要するに僕の面倒を見るのが億劫おっくうで祖父母に僕を押し付けたと言うのが本当の所だと思う。ていの良い厄介払やっかいばらいと言うわけだ。

 大人からしたら、子供の長期休暇と言うのはほとほと、面倒事らしい。

 両親が東京の家でゆっくり羽根を伸ばせているなら僕は別に良いけれど。

 祖父母の家に来てから数日で、遂にやる事が思い付かなくなってしまった僕は、縁側えんがわに座って日向ひなたぼっこをしていた。

 『夏の生活』も最後の長期休暇を振り返るページと書道のページ以外はほぼ終わらせてしまった。

 田舎の落ち着いた風景は好きだけど、虫のたぐいはとても苦手で、家の中にせみやらガガンボやらが侵入して来たあかつきには悲鳴を上げて、虫が平気な祖父を呼ぶような有り様だった。だから山に出て虫を収集するなんてもってのほかだったし、祖父母の家の周囲の地理もあやふやで、あちこち行こうと言う気にもなれなかった。

 必然、東京より低く感じる空に浮かぶ、雲の流れを見ながらぼーっとする他無かった。

 途端、僕の間抜け面を嘲笑あざわらうようにカナブンが僕の耳の横を通り過ぎて驚き、手で払って格闘していると、庭を挟んで、この家の入り口の辺りを僕と同じくらいの女の子が歩いているのを見た。

 僕が見たら向こうもそれに気付いたらしくて、咄嗟とっさに目をらして伏せると、膝に天道虫てんとうむしの色違いみたいなのが止まっていたから大層驚いて。

「うわっ」

 情けない声を上げて膝を手の甲で何回も払った。

 立ち上がって他の部位にも虫が引っ付いていないか確認しようと自分の身体中を見回していると、じゃく、じゃく、と芝生しばふの庭の真ん中を突っ切っている小石が敷き詰められた通路を踏み鳴らす音が近付いて来ていた。

「ねぇ、何してるの?」

 女の子は何の逡巡しゅんじゅんも無く庭に入り込んで、僕に言葉を投げ掛けていた。

「いや、別に......、休んでいただけ」

 僕がそう答えると、女の子はいぶかしげな表情をして、せないと言った感じだった。

「でも、今踊ってたじゃん」

「......踊ってないよ。そっちだって、人の家に勝手に入っちゃいけないよ」

 さっきまでに繰り広げた醜態しゅうたいをしっかり見られていたとわかって恥ずかしくなり、僕は意地になってそう言った。

「良いもん。ここのおじいちゃんとおばあちゃんとは仲良いから」

「......そうなんだ」

 そう言われ、言い返す言葉も思い付かずにばつが悪くなって黙っていると、その子は右隣に腰を下ろした。その流れが実に自然な感じがしたから、きっと普段からここに来て、僕の祖父母の話し相手でもしているんだろうなと思った。

「引っ越してきたの?」

「いや......、夏休みの間にここに遊びに来てるだけだよ。家は東京にあるんだ」

「ふぅん。東京、行った事無いや。どんな所?」

「うーん......、ごちゃごちゃしてる。少し、苦手かもしれない」

「ここと、どっちが良い?」

「ここの方が静かだし、好きかも」

 僕がそう言うと、その子は少し笑った。まるで自分の事を褒められたみたいにくすぐったそうにしてころころと笑うその様子は、ちょっと可愛かった。

「もっと好きになる方法が、あるよ」

 その子は、祖父母の家に隣接してある東西に伸びる道を指差してそう言った。

 どうやらその子が言うには西の方に向かって行くと、高台の様相をていした神社があるらしく、そこからの眺めがとても良いそうだ。

「今から、一緒に行かない? 自転車で、行こうよ」

「あ......、僕、補助輪が無いと自転車乗れないから......」

「え〜? もう小学生なのに?」

 言ってから後悔した。祖父母が使っている自転車があったけれど、僕の体のサイズには合わないし、「乗る自転車が無い」と言えば良かった。

「じゃあ、歩いてで良いから行こうよ」

「......道、ちゃんと分かる? 夕方までに帰って来れる?」

「......シンケーシツなんだね。大丈夫、何回も行ってるから」


 その子の先導で僕達はその路傍ろばたを西に向かって歩いて行った。

 振り返ると次第に祖父母の家が小さくなって、ちゃんと帰れるか不安だったり、途中で車とすれ違ったら危ないな、とか考えていたけれど、途中で渡った踏切のそばに立つびた標識とか、僕の地元では見た事無い遊具が設置された公園を見る事は新鮮で、次第にこの先に何があるのか気になる好奇心が勝ってきた。

 結局、高台のふもとにある神社の鳥居に着くまでに、車とは一台もすれ違う事は無かった。

「ここがその神社だよ」

「うわぁ......」

 その鳥居の向こう側にはとても急な石階段があって、その段は百近くありそうだった。これを登らなければいけない現実を前に、僕は好ましくない方の感嘆かんたんを思わず漏らしてしまった。

「すごいでしょ」

 僕の気持ちを知ってか知らずか、その子はなんと一段飛ばしでお転婆てんばうさぎとでも言うようにぴょんぴょんと昇って行った。

 東北の子は皆んな、こんな風に丈夫な子が多いのかな、なんて思ったりした。

「早く来てね!」

 途中の踊り場で息を整えていると、最後の段を昇ったらしい彼女は僕の方を見下ろしてそう声を掛け、木々のさざめきの天蓋てんがいの向こうに行ってしまった。

 その子より二、三分遅れで頂上に辿り着くと、その子は拝殿はいでんの横辺りに設置されていた木製の長椅子に腰掛けていて、脚をばたつかせていた。

「遅いよ」

「ごめん、運動は苦手なんだ」

「あはは。自転車も、コマ無しで乗れないくらいだしね」

「言わないでよ」

「へへ。......ねぇ、見て」

 その子は僕に、眼下に広がる風景を見るよううながした。

「どれ......? わぁ......」

 今度の僕は素直に、その景色に見惚みとれてほうけた声を漏らした。

 そこにあったのは。

 夏の日差ひざしを受け止めつつ跳ね返す、生命力を感じる瑞々みずみずしい田園。

 まばらにだが所々肩を寄せ合って人のいとなみを主張する家屋。

 その間をひかえめに区切るが、ここの人達の確かな生命線である畦道あぜみち。軽トラックがのんびり走っている。

 立ち上る熱気と蜃気楼しんきろうさわやかで、僕の地元の、アスファルトをかいするそれと比べると、とても健全なもののような気がした。

 そんな長閑のどかな風景を俯瞰ふかんして、さながらどこか神様になれたような気分になって、さっぱりとした心地良さを感じた。

「良い所でしょ」

「うん、東京にはこんな所、無いかも」

「自転車に乗れたら、もっとしょっちゅう来れるよ」

「そう、だね」

「明日から、コマ無しで自転車の練習をしたらどう? 手伝ってあげるから」

「はは......、考えておくよ」


 次の日の午前中、惰眠だみんむさぼっていると祖父に起こされた。

「──ちゃんが、来てるべ」

 祖父は特に東北なまりが強くて名前は聞き取れなかったけれど、もしかしたら昨日の子かもしれないと思って、顔を洗ってすぐに顔を出した。

 案の定、昨日の子が玄関口まで来ていた。

「自転車の練習しようよ」

 本当の事を言うと、自転車は補助輪無しだと全然駄目だから、練習はしたくなくて、なぁなぁに誤魔化ごまかして逃れようとしたんだけれど。

「わ、分かったよ」

 こうも朝から押し掛けて来るとも思わなくて、つい、そう返事をした。

 庭に出ると、その子の自転車が用意してあって、それで練習しようとの事だった。その自転車がピンク色だったので恥ずかしいと抗議こうぎしたんだけれど、「どうせ、誰も見てないんだから良いでしょ」と受け入れてもらえなかったので渋々しぶしぶそれにまたがる事にした。

 サドルに乗るとふと後ろから、がちゃがちゃと音がしたので振り向いてみると、その子は右側の補助輪を慣れた手つきで外している所だった。

「......何をしているの?」

「まず、片方のコマを外して練習しようと思って」

「そんな事したら、右に傾いた時、転んじゃうよ」

「当たり前じゃない。だから、今日は十回転ぶまで練習しようか」

「え?」


 一週間経って、膝が絆創膏ばんそうこうだらけになる頃、何とか僕は補助輪無しで自転車に乗る事が出来るようになったけれど、東北流の自転車の練習には本当に参った。

 もう同じ思いは二度としたくないと思ったけれど、結果を見れば良かったから、足し引きぜろでどっこいどっこいだと無理矢理自分に言い聞かせた。

 自転車に乗れるようになってからはその子とあちこちに行って遊んだ。

 僕の分の自転車は、その子が姉の自転車を持ってきてくれて、それを使わせてもらった。

 あの高台の神社には勿論もちろん、山にも川にも自転車で行った。

 僕が「川の中をゴキブリが泳いでるよ」と言ったらその子は腹を抱えて笑ったし、その子が送電鉄塔を指差して「東京タワーとどっちが大きい?」といたら今度は僕が大笑いした。

 そんな風にして遊んでいたら、あっという間に八月末が近づいて来た。


「来年の冬休み、夏休みに、また遊びに来る?」

「......まだ分からないけど、多分来ると思う」

 そんな風に、はっきりしない返答をしたけれど、心の中ではまた来ると決めていた。

 この高台から見る風景は、冬になるとどんな景色になるのか知りたくなっていたから。

 きっとここなら冬には雪が積もるだろうから。

 その雪景色の感動を共有する人が欲しいな、と思ったから。

「じゃあ来年までの間、さようなら、だね」


────


『夏休みを振り返って』

 東北にある祖父母の家に遊びに行きました。初めは虫が多くてうんざりしましたが、斜め向かいに住む同い年の人が一緒に遊んでくれたので、退屈はしませんでした。その子のおかげで自転車に乗れるようになって、色々な所に連れて行ってもらえました。高台の神社から見えた景色はとても良くて、次の冬休みにも一緒に見に来ようと、その人と約束しました。


────


 けれど、次の冬休みも、夏休みにも、結局僕は東北を訪れる事が出来なかった。両親から弟と妹の面倒を見るように言われて、時間が取れなかった。

 両親は遅くまで共働きで働いていたから、仕方が無かった。

 そのようにして、上手く都合もつかずに何年も経って、結局僕はあの高台から見る事が出来るはずの雪景色を、今も知らないままでいる。


────


 その子が僕の中学校に転校して来た時は驚いた。

 そんなまさか、と思った。

 けれど先生と教卓の隣で自己紹介をする女の子の雰囲気は、僕の過去の大事なものの一部であると、脳と想い出が訴えていて、きっと、あの時の彼女に違い無いと思った。

 あの時以来で名前も覚えておらず、そもそも名前を訊いていなかったかもしれなくて、でも黒板に書かれた彼女の苗字は東北由来のもので。

 溌剌はつらつとした彼女の顔立ちと、はきはきとした喋り口調。独特のイントネーションに明朗な感じがする微笑。

 それは僕が小さい頃に東北に置いてきた想い出と、余す所無く合致していた。


 彼女の転入後、想像通り彼女はクラスの中心人物の一人になりつつあった。転校生それ自体はしばらくの間、クラスの中心になる事は至極しごく普通の流れなのだが、数日、転校生にされる特有の質問攻めを受けた後も、彼女はそのまま学級の中心に居続けた。

 当然と言えば当然だった。

 不純物の介在かいざいしない、人懐っこい性格と笑顔を振りいていれば、自然そうなる事は自明の理だった。

 僕は、その様子を教室のすみからぼーっと眺めていた。

 あの日、祖父母の家の縁側でやっていたように。

 どうやら、僕は彼女に気付いているけど、向こうはそうでは無いらしい。

 ────また、あの日のように「何してるの?」と、声を掛けてくれたら、嬉しいけどな。

 よく考えれば、こちらから「もしかして、あの時の?」と声を掛ければ良いだけなのかもしれない。けれど大きなヒエラルキーの層の下でくすぶっている、ぱっとしない僕は教室にける中心に近づける訳も無く、胸を張って異性に声を掛けられる筈も無くて、安全圏から彼女を眺めて僕と想い出に傷が付かない一番の方法を取っている。

 友達と大切なものが少ない僕は、過去に置いてきたものにすがくせが強い。

 けれど彼女はきっと違う。

 あれだけ周囲に人が寄ってくる彼女なら、僕のような過去達を新しい人間関係の下敷きにして忘却してしまうだろう。

 そんな彼女が、その昔、田園風景の中で冴えない男の子の自転車の練習を手伝った事なんて、覚えているのだろうか?

 恐らく、覚えていないだろうな。

 僕と同じ場所、教室という枠の縁に二人腰掛けて、「川に棲むゴキブリの名前はゲンゴロウだったよ」とか「並の鉄塔じゃ東京タワーに及ぶべくも無いよ」とか、そういう話をしたかった。

 でも、もうきっとそういう考えが彼女にとって失礼で、過去ばかりを見ている僕に、今を生きている彼女は相応しくなくて。

 なのに同じ空間に実存している事が名状し難い気持ちを助長する。


 彼女を遠巻きにして窺い、その声音に耳をそばだてる日々が幾らか続いた。

 暫くした時期、昼食の時間になると彼女が教室を出て何処かへ行くのを見るようになった。行き先はすぐに分かった。

 僕の席は教室の窓際で、中庭に面しているからその中庭の様子がよく分かる。庭の中心には大きな銀杏いちょうの木が植えられていて、それを囲むようにベンチが幾つか並んでいる。

 ベンチの一つに、彼女は座って昼食をっていた。

 そしてその隣には、僕等のクラスの学級委員長の男子生徒。

 女子生徒の間でささやかれている噂話からしても、僕が校舎三階の窓から見下ろして目にする彼女達の様子から見ても、それはもう仲睦なかむつまじかった。

 談笑する間に彼女がこぼす笑みは、僕が六歳の頃に見た彼女の、向日葵ひまわりのような笑顔を順当に成長させたようなもので、そして人の顔色をうかがって生きてきた僕にはわかってしまった。

 ────その笑顔が、教室でするそれとは少し種類が違っている、という事に。

 確かにそこには東北で見た向日葵がったけれど、その頬には今、しゅ薔薇ばらが差していた。

 それか、彼岸花ひがんばな

 要するに、僕の中で何年も秘められ温められた恋慕れんぼは、秘められたままに僕の中で終わったと言う事になる。


────


 けれど、不思議とふさぎ込むような気分にはならなくて、中庭で見せる彼女の横顔を盗み見ていると、それを呼び水に心象風景には彼女と過ごしたのあの一ヶ月の景色が広がる。

 その笑顔は僕に向けられてはいないけれど、そんな事は瑣末さまつな事で、むしろ彼女に笑顔をもたらしてくれる、彼女に相応ふさわしい学級委員長に感謝を述べたいような気分だった。その笑顔を見られるお陰で僕は、嘘か幻想、勘違いか妄想のたぐいだったんじゃないかと思わせられるような一ヶ月を、確かにそこに見る事が出来るから。

 中庭で肩を寄せる二人を見て悔しさやねたみを感じない僕は少しずれているかもしれないが、けれどそれは優しさの証左しょうさとも言えないだろうか。

 彼女等を包む大きな銀杏の木のようにはなれないけれど、彼女等がしっかりと立って根差すための土壌くらいにはなれないだろうか、なんて思ったりするから。

 諦観ていかんでは無く、そう思う。

 だから、そんな事を考える僕はきっと、優しい人間のはず

 土壌どじょうの上で咲くのが彼女のような人なら、それはそれで悪く無いから。


 暫くはそんな風に、強がってみようと思う。

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