癒しはコーギーだけ?

有木珠乃

癒しはコーギーだけ?

 卒業式を控えた三月の上旬。突然、一人暮らしをしろ、と言われた。いや、ほぼ命令に近い。


 河野こうのゆきは、相変わらず突拍子もないことを言う母親に、呆れて返す言葉が出なかった。


 母親の可笑しな発言は昔からだ。雪という名前だって、雪が解けて川に流れるという意味で名付けられたのだ。


『我ながら綺麗な名前でしょう』


 綺麗っちゃ綺麗だけど、流れていいのか? そんなことを思い出しながら、とりあえず理由を聞いた。


「大学に通う四年間で彼氏を作りなさい」

「は? なんで」

「将来、養ってもらうためよ」


 少しはオブラートに包もうよ、母。一応、「やだ」と言ってみたが、聞く耳を持ってもらえないことはいつものこと。

 ならば、ここは逆手に取って利用することにした。


 考えようによっては、家賃など光熱費は親持ちの一人暮らしだ。この母親から離れられる絶好の機会じゃないか。


 しかし、母親の思い通りに、彼氏を作るわけにはいかない。正直、大学生に夢を抱いていないのもあって好都合だった。


 幸いにも、雪が通う大学は実家から離れた県外。進捗状況を悟られる心配はない。



 ***



 雪が母親の願い通り一人暮らしを始めてから、一月。密かにピンチに見舞われていた。


 事は、二週間前。

 毎朝通っているバス停の近くに、柵の間からちょこんと鼻を出しているウェルシュ・コーギー・ペンブローク、つまりコーギーと出会ったのが始まりだった。

 この出会いに後悔はない。だってそれが、毎日の朝と夕方の私の癒しだったから。


 朝はバスの時間よりも三十分早く家を出て、そのコーギーに会いに行く。帰りもまた然り。

 それを平日欠かさずやっていれば、さすがに飼い主にバレることは、普通なら分かるはずだった。


 しかし、雪は慣れない一人暮らしと学生生活で、感覚が麻痺していたらしい。


 ある日の事。夕方いつものように、バスから降りた雪はそのままコーギーに会いに行った。


「ただいま。ご飯はもう食べた? そっか。良かったね~」


 鼻に手を伸ばすと、コーギーは雪の手の匂いを嗅ぐ。そしてそのまま鼻の上を撫でた。


「あの~、えっと、おかえりなさい?」


 すると、頭上から声が聞こえた。雪のような高めの声ではなく、明らかに男性と思える低い声だった。

 しかも、聞こえてきたのは、柵の向こう側。


 か、飼い主さん⁉ ヤバい。バレた。


 けれど雪はその場から立ち去らなかった。いや、立ち去れるだけの体力と精神が、同時に疲弊して動けなかっただけだ。


「あっ、すみません。驚かせたみたいで。アラレも喜んでいるので、そのまま」

「いえ、こちらこそすみません。勝手にワンちゃんを触らせてもらっています」


 完全な目隠し用の柵ではなかったため、飼い主さんの姿が薄っすらと見える。恥ずかしくて、挨拶したらすぐにその場から離れたかった。

 しかし、そうしなかったのは、気になることを飼い主さんが口にしたからだ。その思いが勝って、雪は勇気を出して聞いた。


「この子、アラレちゃんと言うんですか?」


 コーギーの名前だ。いつまでも、ワンちゃん呼びのままでいたくない。


「はい。三月三日にウチに来たので、雛祭りのアラレで。アラレって」

「えっと、先月ってわけじゃ……」


 ないですよね。どこからどう見ても、成犬にしか見えない。


 すると飼い主さんは、雪の反応が可笑しかったのか、クスリと笑った後、答えを教えてくれた。


「勿論、違いますよ。十一年前の三月三日です」

「ということは、十一歳? そんな高齢に見えない」


 犬の寿命は十~十三年。十一歳ということは、人間だとおよそ八十代になる。だから、こんなに穏やかな犬だったんだ、と雪は納得しながらアラレを見詰めた。


「人間でもいるじゃないですか、年齢不詳の。アラレもそんな感じだと思いますよ」


 そう言って、飼い主さんはしゃがんでアラレの背中を撫でる。その瞬間、飼い主さんの顔がよく見えた。柵ではっきりとまではいかなかったが。


 パッと見、同じくらいか、少し年上かな。声のトーンから、物腰が柔らかい人だな、と思ったけど、見た目も比例するんだね。


『彼氏を作りなさい』突然、脳裏に母親の言葉が走った。


 いやいや、あり得ん。いくら癒しを求めてアラレちゃんに会いに来て、さらに飼い主さんにまで心動かされるなんて、あり得ない!


「どうかしたんですか?」


 首を横に振っていたらしい。ただでさえ、不審者といっても過言じゃないのに。


「あっ、その、もう行かないといけないので」

「そうですか。また来てくださいね。アラレは貴女が来るのを楽しみにしているので」

「え? でも……」


 普通は来るなって言うところじゃないのかな。


 雪が戸惑っていると、飼い主さんは笑顔を見せる。


「平日の朝と夕方のこの時間、アラレが外に出してくれってせがむんですよ。だから、明日から貴女が来なくなったら、アラレが寂しがります」


 自分の行動パターンが、飼い主さんに知られていた事実を受けて、雪は顔が熱くなるのを感じ、俯いた。


 は、恥ずかしい。早くここから立ち去りたい。


 それでも、無言は失礼だと思った雪は、振り絞るようにして言った。


「……ご、ご迷惑にならない程度、寄らせてもらいます」


 これが限界だった。



 ***



 そして二週間後の現在。


 雪はアラレの飼い主、吉川よしかわ亨平きょうへいと一緒に散歩をしていた。勿論、散歩というのは、アラレのである。


 しかも今日は平日じゃない。日曜日だ。


 アラレは吉川家の家族全員の予定が合わないことを除いて、毎週日曜日は決まって市内にある大きな公園へ散歩に行く。

 と言うことを聞いた後、亨平から誘いを受けた。雪は戸惑いながらも、日曜日もアラレに会えるなら、と承諾した。


 よくよく考えてみると、年頃の男女が犬の散歩って、マズくない?


 しかもこの公園は、住宅街にある小さな公園とは違い、運動施設などを兼ね備えた所だった。そのため、ジョギングコースが設けられていて、走っている人たちの姿が見える。


 レジャー施設がある公園じゃないだけ、人目を気にしないで済むのは有難かった。


 こんな気分になるなら、安易に返事をするもんじゃないね。


「どうかしましたか?」


 雪たちが、ジョギングコースからなるべく被らない場所を選びながら歩いていると、亨平が声をかけてきた。


 亨平と初めて会った日から、雪がアラレに会いに行ったのは、三日後のこと。次の日に行くのも気まずく、さらに日曜日が挟んだことも理由だった。


 その時、改めて自己紹介をした。年上だとは思っていたが、十歳も離れているとは思わなかった。

 さらに在宅ワークのため、家にいることが多いらしく、雪がアラレに会いに来ていることを知ったのも、そのせいだったと教えてくれた。


「えっと、ここって、随分広いんですね。越してきてから、一度も来たことがなかったから、ちょっとビックリしちゃって」

「四月からでしたっけ、こっちに来たのは。なら、無理もないですよ」


 十も年が下だと分かっても、亨平は敬語で話す。


「大学はどうですか? 慣れました?」

「え?」

「柵越しだと、なかなかこういう話、出来ないじゃないですか、だから」


 そういえば、と雪はこの二週間の間で交わした、亨平との会話を思い出していた。

 考えてみると、怪しい人じゃないですよアピールをしていたのは、自分だけじゃない。亨平もしていたから、少し踏み込んだ会話は、これが初めてだった。


「そうですね。まだいっぱいいっぱいです。高校と違って、黒板に書いてくれない先生がいたりするので、真面目に聞いていないといけないから」

「ははは。小中高生の時みたいに、生徒に優しい先生ばかりじゃないですからね。先生と言っても教授ですから、教えてはいますけど、持論を語っていることの方が多いです」

「亨平さんは大変じゃなかったですか?」

「慣れですよ、慣れ。後は、レポートを提出する授業の場合は、重要にもなるので、よく聞いておいた方がいいですよ」


 そう言って、アドバイスをくれた。

 先生の話の中から、キーワードを見つけて、レポートにはその単語を必ず書くこと。そして、先生の持論をよく聞いて、好みのレポートを書くと、良い評価を得るという。


「ありがとうございます」

「いえいえ。分野が違うから、教えられるのはこれくらいですから」

「十分ですよ」


 自分からも、何か聞いた方がいいかな。でも、変なことを聞いて、引かれたりしたら怖い。


「アラレちゃんは高齢なのに、結構歩くんですね」


 アラレちゃんネタは、いつもの話題じゃない。バカか私は!


「普段は部屋で寝ているか、庭に出て少し体を動かすか、くらいしかしていないんです、アラレは。だから、こうしてたまに体を一杯動かすみたいですよ」


 ここに来ると何時もこんな感じです、と亨平は笑いかけてくれた。


 優しいな。気の利いたことが言えない私の発言にも、サラッと答えてくれる。これが大人の余裕って奴なのかな。


「僕も籠りがちだから、丁度良い運動になるんですよ」

「常にバタバタしている私とは正反対ですね」

「確かに」


 上手い返事も言えないのに、笑顔のまま返してくれる。


 いつも母から突拍子もないことを言われて、アタフタしながら言い返すのがやっとな日々を送ってきたからか、亨平さんとのやり取りは、アラレちゃんに触れているのと同じくらい癒される。


「ペットは飼い主に似るって言うもんね」

「何か言いました?」


 雪が呟いた言葉が、ほんの少し聞こえたらしい。慌てた雪が誤魔化すように、アラレに向かって駆け出す。

 その瞬間、いやこんな時に、何もないところで躓いた。


「!」


 本能なのか、前を歩いていたアラレも振り向く。


 嫌、そのまま歩いてて!


 転んだ時の着地点と思われる場所で、アラレが立ち止まってしまったのだ。雪はもう片方の足で踏ん張ろうとした瞬間、体の傾きが止まった。


 亨平がアラレのリードを持つ手を放し、雪を支えてくれたのだ。


「大丈夫ですか?」

「あっ、はい。大丈夫です」


 顔を覗かれ、亨平の心配そうな顔が目に映る。途端、羞恥心でどうにかなりそうだった。


 腰に回された亨平の腕が解けると、雪はアラレに抱き着いた。


 母親の思い通りにはならないって決めたのに! これじゃ、思惑通りになっちゃうよ。


「アラレちゃん、助けて!」


 アラレはただ、雪に優しい眼差しを向けるだけだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

癒しはコーギーだけ? 有木珠乃 @Neighboring

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説