運命の赤い意図

西野ゆう

第1話

 奇跡や運命なんて、自分には関係がないと信じていたが、これってもしかして「運命の赤い糸」というやつなのではないだろうか。

 初めて彼に会ったのは、一年前。仕事の打ち合わせで訪れたシアトル系カフェ。その時会う予定だった相手は、顧客とはいえ高校の後輩で、十年来の付き合いだった。お互いに気を使うような相手ではない。時間にルーズなのも常で、その日も既に三十分待たされていた。

 自分が作ったプランシートを読み返す作業にも飽きてきて、二杯目のコーヒーを飲むべくカウンターへ向かおうと席を立った。

 もしこれが、車での事故だったら私の過失は何割だろうか?

 急に目の前に現れて、自分のトレイを跳ね上げられた彼の慌てる顔と、トレイの上をスローモーションで滑るドリンクを眺めながらそんなことを考えていた。

 それでも私は冷静で(自分では冷静で素早い対応だと思っていた)トレイから滑り落ちそうになるドリンクを、両手でしっかり捕まえた。が、不幸なことに掴み過ぎてしまったようで、貧弱なプラスティックのカップは潰れ、中のドリンクは氷と共に勢いよく飛び出し、ぶつかった相手へと飛び散った。

「マジかよ……」

 彼は天を仰いで呟くと、私に向かって右手を差出し、何かを要求するように上下に数回動かした。

「ごめんなさい!」

 やはりクリーニング代ということだろう。私はバッグから財布を取り出した。

「ハンカチ。俺持ってねぇんだわ。貸してくんない?」

「あ、はい。……えっと、あ、ハンカチか」

 店のスタッフが、オロオロする私を見かねたわけでもないだろうが、私がバッグからハンカチを出すより早く、たった今ぶちまけたのと同じドリンクとおしぼりを男に渡した。私以上に丁寧に謝罪しながら。

 私は結局何回、或いは何十回か頭を下げただけでその店を出た。ため息を吐き、後輩に場所変更の電話をかけ、今起きた最悪の出来事の反省と後悔を一人延々として。

 それからひと月後。あれだけ反省したにもかかわらず、出張先から帰ってくる新幹線の中で、全く同じことをやらかした。仕事に疲れ、降りるべき駅に着くまで眠ってしまっていた私は、運よく駅に到着する瞬間に目が覚め、座席を立った。……が、またしても衝突。

「またかよ……」

 飲みかけの缶コーヒーを白いシャツにかけられた彼は、やはり天を仰いで呟いていた。コーヒーショップの時は、何しろうろたえていたので、相手の顔など全く憶えていなかったし、正視することさえできなかった。が、この声と、天を仰ぐ仕草には見覚えがある。と、くると……。

「ハンカチ。貸してよ」

 やはりそうか。穴があったら入りたい。扉が開けば飛び出したい。そんな気分だったが、無情にも開いた扉は、私が降りることを許さずに閉じてしまった。

 新幹線で一駅乗り過ごすとダメージが大きい。終電だと特に。翌日も仕事があったので、仕方なくタクシーで百キロ超の道程を帰ろうとしたが、彼がレンタカーを借りて帰るから一緒に乗ればいいと提案してきた。そのありがたい申し出を、私が料金を払うことを条件に受けた。

 その車内では何を話したか、その内容までは思い出すことはできない。が、それは一時間ちょっとのドライブがあっという間に感じてしまうほど、楽しいものだった。


 私は今、その時の懐かしい写真を、初めて来た彼の部屋で眺めている。私のマンションの前でレンタカーを降りたあと、運転席のドア越しに二人並んで撮った写真。彼の左手はハンドルを握り、右手はコーヒーのシミが付いたシャツを指さしている。

 彼はハンカチを持ち歩かないくせに、写真の整理に関しては几帳面なようだ。あれから幾度となく二人で撮った写真には、場所の他にもその時にあった些細なことを一言添えてあったりして、見ていてすごく楽しい。彼がシャワーから出てきたら、思いっきり抱きしめよう。そんな気分になっていた。

 そのアルバムの最後には、先週行った水族館でイルカに水をかけられ、髪を濡らした私の写真が貼られていた。われながら、幸せそうな笑顔をしている。

 私はもう一度最初の一枚を見ようと、一ページ目に戻った。

 その時、不可解な書き込みが目に入った。

 最初に見た時は気が付かなかったが、背表紙の隅に、小さく『妙子:No.8』と書かれている。

 初めて二人で撮った写真が最初に貼ってあるアルバムが八冊目とはどういうことなのか。

 バスルームからは、まだシャワーの音が聞こえている。

 私は彼がまだ出てこないのを確認しながら、彼がこのアルバムを持ってきた部屋のドアをそっと開けた。電灯のスイッチを押した私は息を呑んだ。

 その部屋の壁と天井には、びっしりと私の写真が貼られていた。どれも目線はカメラを見ていない。高校の制服を着ているものもある。

 私は全てを理解した。やっぱりだ。運命なんてあるわけない。

 その部屋を出た時、私の目の前には表情をもシャワーで流してきたかのような彼が、床を濡らしながら立っていた。

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運命の赤い意図 西野ゆう @ukizm

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