第7話
術がかかっていた間の記憶はないらしく、まるで何事もなかったかのように菊花の宴は開かれた。
忠義堂のみならず外の空気までも菊香に満ちてなんとも心地よい。
今日に備えた酒も、菊の香りを纏い格別の美味さ。
酒好きの梁山泊の面々はすぐに花の存在を忘れ、騒ぎ出す。
そんな中で、特に美しい花を見繕って部下に運ばせているのは孫立。楽桂の夫だ。愛妻家の彼のこと、妻の為に選んでいるのだろうと思うと林冲の頬も綻ぶ。
「ああーあ。義兄さんてばあんなに菊持って行っちゃって。」
そう言う楽和もそこかしこで集めた菊を机に並べ、花びらをつまみながら愛でていた。
「別にいいじゃないか。花だってちゃんと愛でてくれる人の元にあったほうが喜ぶ」
林冲は花にさほどの興味はない。というか全くない。酒があればいい。
女性ならば花を好むだろうと思っていた林冲だが、楽和は違うと言う。
「大体にして姉は花より甘味です。奥様方も今日はそっちで酒宴ですから菊もあるでしょうに」
「それでもいいさ。皆無事だったからこその今日の酒だ。公孫勝殿も最後には来て下さったが、楽桂殿の熱弁が許福の心を動かしたのは事実」
「・・・・ま、それもそうですね」
頷きながら菊酒を一口。もともと本気で咎めているわけではない楽和の顔が綻んだところで二人の背後から声がした。
「そうそう。大体、はじめっからみんな菊なんて見てないだろ。」
そう言って楽和の肩を組んで来たのは施恩。
怪我の具合を考えれば酒は控えるべきなのだろうが、手には大きな盃。それを見て楽和が顔をしかめた。
「施恩殿、酒はほどほどにと・・・」
「大丈夫だって。楽和のお陰で怪我はそんなにひどくもねえし。」
楽和のお陰という言葉が引っかかる林冲。治療したのは医師達であるはず。
その疑問を林冲は率直に口にした。
「どういうことだ?」
「あの大虎、僕では消すことは出来なかったのですよ。不甲斐ないことに。」
「それは・・・まぁ、仕方ないだろ。」
「けれど、戦闘中にあっては仕方ないでは済まされないです。なので、虎を消せないならせめて施恩殿の体を強化しようと。」
相手は妖術に長けた道士。術のやり合いでは勝てないだろうことは想定内。
思慮深い楽和のことだ、おそらく戦況に応じた術を準備していた。
だとしても、体を強化するとはあまり聞いたことがない。
「そんなこともできるのか。」
「道教の修行者、道士とはそもそも不老不死である仙人になることを目標としておりますから、肉体に作用する術も多数あるそうです。もちろん限度はありますし、不死身にできるのとは違いますけども。」
そういうこと、と言って施恩は酒の入った瓢箪を差しだし、林冲と楽和の盃を満たす。
「それをやったせいで生成していた雲が消えてしまったんですけどね。」
「そうだったのか?!」
林冲と施恩の声が重なった。
「ええ。残った一枚だけの符では足りなかったのでしょうね。いやあ、さすがにもうダメかと思いました。林冲殿、助けていただき本当にありがとうございます」
淡々と話したかと思うと深々と頭を下げて、もう何度目か分からぬ礼を楽和は述べる。
「もう礼はいいだろ。何日も経ってるし。俺の方こそ、最後まで頭に血が上っていて悪かった」
「それこそもういいですよ」
林冲は武松と共に許福の仲間に喰ってかかっていた。
冷静になってみれば、楽和や楽桂、伝令部隊達、皆が必死に自分の役割を全うしたというのに、すべてを気泡に帰してしまいかねない愚かな振る舞いだった事は分かる。
しかしそれでも、親友を斬らされた恨みはそうそう消えない。
今も思い出すと指の先に力がこもる。
気持ちを切り替えたくて、施恩が注いでくれた酒を口に運んだ。
その直後、施恩の持っていた瓢箪を取り上げて一気に飲み干す大男。
武松だ。
「チっ…水みてえでちっとも酔えねえ」
「おい、何すんだよ。あ、もう空じゃねえか!」
憤慨する施恩ではあるが、その施恩以上に武松の機嫌が悪い。
理由は分かる。道士にかけられた妖術だ。
林冲と同じ術を武松もかけられていた。荒れるのも無理はないだろう。
しかし今は酒宴だ。
ここの四人と公孫勝を除けば、あの騒動を知る頭領はいない。水を差す必要はないと林冲は考える。
もとより、武松はケンカっぱやい一面もあることと、彼以上にすでに暴れて騒いでいる輩もいることを思えば通常通りではあるのだが。
その通常が、もしかしたらなかったのかもしれない。
林冲や武松のような者だけでは成り立たないのだと痛感した一件でもある。
皆、無事でよかった。
それでいい。
自分にも言い聞かせるように、水を配っている部下から一杯を受け取って武松に渡した。
「まあ、武松、落ち着けよ。こうして酒が飲めることを、まずは良しとしようじゃないか」
「けどなあ、どう思い返しても一発殴るくらいのことはしてやってもよかっただろ!!」
「そりゃ、一発どころか叩き斬ってやりたかったって今でも思うよ」
そう、頭では分かっている。
しかし感情の面では林冲は非常に武松に近しい。
武松に落ち着けと言っておきながら、彼の怒りに容易に同調してしまう。
「やめて下さいよ、物騒な」
そんな楽和の声で冷静さを取り戻したが、
「んなこといって結局、妖術で煙に巻かれたら余計苛々すんだろ。よかったじゃねえか、あれで終わって」
冷水をぶっかけるように言葉を吐くのは施恩だ。
そう言われればそんな気がしてくる。
許福に対しては何もできなかったことを思い出し、武松はぐうの音もでず林冲は盛大に溜息を吐いた。
場の空気を読んだ楽和がすぐさま新しい酒を持ってくると林冲、施恩の酒器を満たし、残りを武松に手渡す。
二人の怒りの原因となった術については林冲から既に楽和達にも話してあった。
そして思い出したように楽和が話し出す。
「公孫勝先生に聞いたんですけどね。あの術、近くにいる死者の霊魂を利用するんですって」
「そう···なのか」
本物の陸謙である、という確信が林冲にはあった。
だとしたら、斬ったことでその霊魂を消してしまったのではないか。
そんなことを考えて胸をかきむしられるような不安に支配される。
それを察したのか、楽和の声が一層優しくなる。
「霊魂を本当に抹消するには霊力の込められた攻撃だけですから、林冲殿や武松殿の通常の攻撃ではその心配はないですよ。本気で相手を斬る、その意思が解術に必要だっただけです」
「そうだったのか」
思い出したくもないことであるが、漸く林冲は心から安堵できた。
「僕には想像もつかないことですけど、死者が視える人間ていうのは昔から一定数いるようですよ。道士だからというのではなく、たまたまあの道士が視える人間であの術を使えた、ということだとおっしゃってました。」
「ということは···公孫勝殿は使えるのか?どうなんだ?」
「さあ、はぐらかされてしまいました。どうなんでしょう?」
楽和は空の二つの盃を持ってくると、そこに酒を注ぐ。そこへ菊の花びらを散らせば芳しい香りの菊酒。
「お二人とも、今も近くにいらっしゃるでしょうから。」
そこへ、総統の宋江から楽和へお呼びがかかる。酒宴ともなれば楽和の歌は欠かせない。
「では僕はちょっと歌ってきます。」
楽和は小走りに壇上に向かう。すでに琴の燕青と笛の馬麟が準備していた。
なんとなくそれを見届けると、林冲は忠義堂の室内を見る。
目を凝らしても陸謙の姿は見えない。いるのかどうか、知る術はない。けれど公孫勝や楽和のいう通りなら確かにそこにいるのだろう。
林冲は盃で、楽和が陸謙と武大に注いだ菊酒の器を鳴らした。
死者と生者は住まう世界が違う。
公孫勝が件の術を使えるか否かは本当に分からないのだが、「使えぬ」ということで良いのだと楽和は考える。
すでに死した相手に会いたいと思えば思うほど、「会える」となれば判断は鈍る。悪しき術であろうと、金儲け目当ての悪徳術者であろうと、カモにされてしまってからでは遅いのだ。
公孫勝に限って言えばどちらも異なるだろうが、仮に死者に会えたとして未練が募るばかりではなかろうか。
いずれにしても、普通のことではないのだ。
生者の世界は生者でもって動いている。
だから悲しみを分かち合うのも生者同士である。
かって生きた世で、百八人は純粋であるが故に悲しみを乗り越えられぬ、と楽桂は解釈していた。
事実は確認のしようもないが、あながち間違いでもないのだろうと林冲や武松を見て思う。
だからつい求めてしまう。会えぬ相手に会うことを。
それが悪いことではない。
悪いことではないが。
そんな時こそ同じ時を生きる仲間に、目を向けてほしい。
代わりになれるなんてことは思っていない。ただほんの少しでいいのだ。
ねえ、陸謙殿ーーー
楽和の視線が、片膝を立てて座り込む若者を捉える。
助けてくれて、ありがとうございますーーー
雲が霧散し、落下中に楽和は腕を引かれる感覚を覚えた。
その腕を引いてくれた主にも、楽和は歌を届ける。
この直後、宋江の要請により楽和が歌った歌で菊花の会は大いに荒れることになるのだが、それはまた別のお話・・・
竜虎は水滸の菊花に酔う 山桐未乃梨 @minori0
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