第2話
いつも通りの朝。
夫の孫立は林冲と同じく騎兵の将、早朝は自隊の部下の調練を行い、それが終わると自宅に戻って楽桂と共に朝食を摂るのが日課としている。
朝食後、今日は内勤になるため執務室に向かう準備をしていた。
異変が起きたのは、さあ自宅を出ようとしていた時。
孫立が急に動かなくなった。何の前触れもなく。
倒れたのでもない。丁度立ち上がった、やや不自然な姿勢。
「あなた?」
楽桂は孫立に声をかけた。目は開いているが視線は動かない。
「あなた、どうしたの?」
楽桂は狼狽えた。
こんな悪ふざけをするような男ではない。
嫌な汗が楽桂の背筋を流れる。
楽桂は孫立の手を握ってみた。温かい。
胸の音を聞く。きちんと音がする。
死んだ、ということではなさそうだ。
では一体どうしてしまったのか。
考える間もなく、凌宣の慌てた声が聞こえた。
「孫立殿!奥様!ご無事でしょうか!」
楽桂が扉を開けると、うっすらとではあるが黒い霧が立ち込めている。
なんという薄気味の悪い光景か。
その禍々しさに楽桂は恐怖を覚えた。
「奥様、なんともありませんか?!」
凌宣の声に楽桂は気を奮い立たせる。
「凌宣、夫が動かないの!どうしましょう!」
凌宣は案内されるまま、孫立の様子を見ると言葉を失った。
そしてすぐに、
「奥様、すぐに山を下りましょう!ここで何かが起きてます!」
そう言って楽桂の腕を取る。
楽桂としてもそれは分かっていた。しかし。
「このまま置いていくの?!」
愛する夫に何が起こったのか分かるまで、離れたくない。
しかし凌宣も必死になって説得する。
「頭領の方が何人も同じように動かなくなっているようです。どこぞの道士の術かもしれません。部下の連中も何人も捕縛されているという情報もあります。」
「そんな・・・・!」
楽桂の身体が恐怖で強張った。正体の分からぬ何かが、こんなにも恐ろしいのだと肌で感じる。
凌宣は優しい声音でかつ毅然と説得を続けた。
「ともかく、安全な場所まで逃げましょう。ここにいても全員捕らわれてしまいます。孫立殿のことは他の者と合流して救出しましょう。」
後ろ髪を引かれる思いで、楽桂は凌宣らとともに山を下り出す。
途中、どこかで争い事のような声があちらこちらで聞こえたが、楽桂は山を下りることに集中した。
自分達も孫立のように動かなくなってしまうのではないか、そんな恐怖や不安を抱えながら、なんとか敵らしき者には出くわさずにすんだのは奇跡だったかもしれない。
「ここに着いてからは凌宣達が情報収集に当たってくれています。まずは無事な味方の確保しなければならぬと。」
梁山泊の周囲は八百里。散り散りに逃げた者達でまずは声を掛け合っている。
また、常時から梁山泊を離れている頭領は幾人かいるはず。
菊花の会が近い今日あたり、帰山する頭領もいるかもしれない。
せめて、梁山泊外の頭領は無事であることに望みを繋いだのだ。
「それで街道に凌宣がいたのか。」
それに林冲を見たときの皆の喜び様、そんなことが起こっていたのならと林冲も得心がいく。
楽桂は頷いて、続けた。
「林冲様に楽和が動けて良かったわ。やっぱり、異変は梁山泊内だけのようね。」
一先ず安堵したのか、楽桂は大きく息を吐く。
しかし安堵ばかりはしてられぬのが楽和。
「でも、僕達が梁山泊に入ったら。」
「動けなくなるかも。」
「そう・・・。」
今度は楽和が息を吐いた。さてどうするか、といった思案の顔に変わる。
林冲はといえば今すぐにでも寨に向かいたい気持ちが強い。
しかし踏み込んだところで戦えなくなるのでは踏み込む意味もない。
歯痒くも、こういう時には頭の切れる者に任せる他なく、林冲は黙って楽和と楽桂の会話を聞いた。
「姉さん、殺された人はいないって聞いたけど?」
「今のところは。それもいつまでかわからないわ。」
「せめて、敵が誰で、何が目的なのか、それが分かれば。」
「だからね、私が潜入してこようかと思うの。」
楽桂の一言に楽和の顔が引きつる。
「なんでそうなるの?!」
穏やかな楽和にしては大声を上げた。
楽桂は意にも介さず、むしろにこやかに話を続ける。
「だって適任でしょ?女の方が警戒されないわよ。」
「そうかもしれないけどさ。」
「旅しながら歌い女してるってことで。どう?」
楽和が考え込む。
女性だから、姉だから、色々思いはあるのだろうが、実際林冲も楽和も寨に踏み入れられないとなればありがたい申し入れなのだろう。
林冲はといえば、女性だからといってか弱い存在とは限らないことは承知している。梁山泊にも女性の頭領はいるし、彼女らの度胸や胆力は男にも引けを取らない。
楽桂は頭領でこそないものの、頭領の妻であり姉だ。
胆が据わっているとは楽和からも孫立からもよくきく話。こんな有事に、ただ待つだけなのは性に合わないのだろう。
情報を得てくれるというのは、林冲としても純粋にありがたい。
楽和はどうだろうか、と林冲はちらりと楽和の顔を見た。
「・・・そんな手ぶらで旅する歌い女なんていないよ。」
丁度そこへ、楽和が引いていた荷馬車も到着した。
「ちょっと来て。」
楽和が楽桂を連れて荷馬車の元へと向かう。林冲は何をするつもりかも分からぬが、一応付いていった。
「舞台衣装とか、装飾品とか。舞台映えするような化粧品も。歌い女を名乗るならそのくらい持ってないとバレるからね。」
つまり、行って来いということらしい。
二人して荷の中から売れ残りや購入した品を物色する。
「こんなもんだね。ちょっと地味だけど、しょうがないか。」
葛籠にそれらを入れながら、楽和は姉に言い聞かせた。
「いい?姉さん。敵がどこから来たのか、なぜ梁山泊を狙ったのか、術は一体なんなのか。その辺をうまく探って来てね。」
「分かってるわよ。」
そうは言うが、楽桂の顔には緊張が見て取れる。一方で楽和も心配の色は隠せない。
林冲は、
「楽桂殿、くれぐれも気を付けて。」
そう言って送り出す他はなかった。
凌宣とは別の孫立の部下が舟を漕ぐ。楽桂は招かれた歌い女を装い、しきりに周囲を見渡した。
敵の動向を探る為ではあるが、黒霧が立ち込める中にあっては却って自然でもある。
舟を岸に付けようとした時、何者かが現れた。
道服を来た男で武器は見当たらない。
楽桂は堂々と、その男に声を掛けた。
「すみませーん。宋江様は山頂でしょうか?」
男は訝しげに眉を寄せたが、問答無用に何かを仕掛けて来るようなことはない様子。
「どちら様?」
そう問われた楽桂は、小舟を降りて道服の男に頭を下げた。
「はい。重陽の節句、菊花の会で歌を披露してほしいと依頼を受けました。旅芸人の歌い女、
そこまで話すと、楽桂はここまで小舟を漕いでくれた男に銀子を渡して戻ってもらい、一人旅の女芸人を装う。
「・・・・・・この霧が不気味ではないのですか?」
男はなおも疑り深い目を向けて来たが、怯むわけにはいかない。
「もちろん、ここに来るのに勇気が要りました。が、当方貧乏芸人でございます。虎穴に入らずんば虎子を得ず。仕事がなければ餓死してしまいますので。」
男の目を見て、楽桂は困ったような笑顔を見せる。
「・・・・・・・・山頂まで案内しましょう。」
「ありがとうございます。」
男の真意は分からぬが、とりあえず首謀者のところまでは行けそうだ。
楽桂は息を吐いてゆっくりと肩の力を抜く。自分で思っていた以上に、体に力が入っていたのだと気づく。
そして男に導かれるまま馬に乗せられた。
ゆっくりと進むその間に、寨の景色を見て分かったことは敵の数は実は多くなさそうだということ。
この男の他には誰にも会わなかったからだ。
徐々に濃くなっていく黒霧の中、目を凝らして見れば孫立と同じように動かなくなっている頭領の姿。
ここぞとばかりに楽桂は男に探りを入れた。
「あの方はどうされたのですか?それにこの霧はなんなのでしょう?」
「山頂にいる方にお尋ねください。」
「・・・はい。」
男は素っ気ない。
山頂が近づくにつれて、楽桂の緊張が高まる。
山頂に着くと、大きな二階建ての建物とその前に並ぶ色とりどりの幟が姿を現した。
建物は忠義堂という、梁山泊の頭領百八人が軍議を開いたり宴を催す所である。
中に首謀者がいるのかと思いきや、男は忠義堂を迂回して建物の裏にまわった。
そこにあるのは、天から降り立った石碑。百八人の名前と、『替天行道』『忠義双全』の文字が刻まれている。
その石碑を前にして立ち、熱心に見つめる身体の大きな男。
首謀者だ。
楽桂はそう直感した。
「許福様、宋江に招かれたという歌い女をお連れしました。」
「そうか、戻って良いぞ。」
案内して来た男は一礼して、もと来た道を引き返して行った。
許福と呼ばれた男は、立派な髭のある大男だった。
威厳のある風貌、なのに振り返って楽桂を見た眼差しは意外にも穏やかである。
とはいえ、実際にこの男が何かしらを仕掛けて来たのは事実。
バクバクと胸がうるさく鳴り始めるも、楽桂は膝を折って拱手し、許福に挨拶を述べた。
「歌い女の迦陵と申します。宋江様ではいらっしゃらないようですが?」
「彼は今動けぬよ。宋江に招かれたというのは?」
じっと、許福は楽桂を射竦める。
正体がばれぬよう、なおかつ情報を引き出そうと試みる楽桂。
「九月九日、重陽の節句の晩に行われる菊花の会に歌を披露してほしいと依頼されておりました。宋江様が動けないというのは何故でしょうか?この霧はなんなのでしょう。打ち合わせもできないのでは困ります。」
「その前に。」
許福は手を翳して楽桂を制止し、
「貴女が歌い女であるという証を見せてもらえまいか。」
そう要求してきた。
楽桂は背負ってきた葛籠を開け、中を許福に見せる。
「お恥ずかしながら貧乏芸人ですので、高価で華美な衣装装飾は持ち合わせておりませんが。」
黙って中を検める許福。沈黙が重い。
長い時間に感じた楽桂だったが、やがて許福は葛籠を閉じた。
「では歌はどうだ。何か歌ってみなさい。」
その要請に、楽桂の緊張が一層高まる。
「菊花の会に備え用意した、秋や菊の花の歌で良ければ。」
胸に手を当て、深呼吸を一つ。
大丈夫
自分に言い聞かせる。
弟の渾名は『鉄叫子』
あらゆる歌を知り、美しい歌声の持ち主
その弟に歌を教えたのは私なのだから
楽桂は一息、空気を吸い込んだ。
目を閉じて、歌い始める。
よく通る伸びやかな歌声が、梁山泊に響いた。
時に力強さ、時に儚さを自在に表現する声の出し方は弟と競うように磨いてきたもの。
空気の震えを相手に届けるように、楽桂は声に魂を乗せる。
梁山泊の危機だから、歌い女を装っているから、そんな理由ではなく、いつでも楽桂は歌とそう向き合ってきた。
最後の歌の余韻まで、声が耳に残る。
その声が消えて一曲を終える。楽桂は許福に一礼した。
許福は
「見事。」
といって、楽桂に拍手を送る。
「ありがとうございます。」
楽桂はもう一度頭を下げた。
「歌い女であることはわかった。しかし、残念ながら菊花の会は開かれない。」
「?何故ですか?仕事がないのは困ります。宋江様とお話させていただけませんか。」
信じてもらえたことに安堵しつつも、まだ有益な情報はない。
楽桂は食い下がる。
すると、許福の次の言葉で彼らの正体を知ることになる。
「宋江はもう話が出来ない。仕事が欲しいならこのあと竜虎山に行かれるがよい。貴女の歌ならば歓迎しよう。」
竜虎山
ようやく出てきた手がかりだ。
楽桂はさらに尋ねる。
「竜虎山?貴方がたは竜虎山から来られたのですか?」
「そうだ。地表に転生した百八の魔星を封印するためだ。」
「魔星?封印・・・?宋江様と関係があるのですか?」
楽桂の問に、許福は石碑を背にして座り込んだ。
許福に促されて楽桂も腰を下ろすと許福が語りだす。
「かつて世を乱し人心を乱した疫病神がいた。それが宋江を始めとする彼等の正体。我ら竜虎山の道士がかつて封印したものが、六十二年前に解き放たれてしまった。疫病神が再び悪事を成し世を乱す前に、我々は再び封印しなければならない。」
「封印、というのはこの黒い霧がそうなのですか?」
「そうだ。この霧に包まれた魔星は徐々に石化し、朝までには完了する。すると体から魂が抜け出るのでそれを竜虎山に持ち帰り、元の伏魔殿に封印するのだ。」
疫病神、封印に石化、恐ろしい言葉に楽桂は恐怖する。死んだ状態とは違う夫の様子を思い出し、確実に助ける方法を模索した。
それには術の解き方を探らねばならない。
「許福様が術をかけているのかしら?」
「いいや、山を囲う位置に三人の術者を置き、彼らが術を掛けている。それぞれの術者につき一人ずつ護衛の道士がついて外部からの攻撃に備えている。私は統括、といえば聞こえはいいが、要は誰か術者が倒れた時の代理だ。百八人全員がここにまとまっているわけではないのだろう。」
「百八人の頭領方がいるとは聞いたことがあります。梁山泊のそとにいた頭領が帰山して黒い霧の中に入ったら」
「石化が始まる。」
「現状で何人の頭領の石化が始まっているのですか?」
「報告では百一人。」
術者は三人。各術者には道士が付いている。黒い霧が立ち込める場所から考えて、おそらく湖の外側だろう。
動けない頭領は百一人、動けるのは林冲と楽和を除いてあと五人。
楽桂は心の中で復唱する。
存外寨にいた頭領が多いのは菊花の会が近いからだろう。時期がずれていたらもっと戦いやすかったかもしれない。一方で菊花の会を狙われなかっただけましかもしれないともいえる。
しかしそんなことを考えるのは無駄。今動ける面子で、彼らの行う封印を止めなくてはならないのだ。
なのでこれ以外にも、できるだけ情報は欲しい。
「先ほどここに連れてきて下さったのは?」
「魔星以外の人民を捕縛してもらった者の一人だ。」
「そういえば人の気配がしません。まさか皆、捕まえたのですか?たったの数人で?」
「さすがに数人ではない。全部で十五人。とはいえやはり全員捕縛とまではいかぬよ。逃げて行った者も多いが、朝までに何か準備できるものではなかろう。」
逃げた者は追わずといったところ。お陰で楽桂がこうして偵察に来れる。
しかしそれほど多くない人数で、何千といる梁山泊の手下勢を捕縛したことは脅威には違いない。
「さて、迦陵殿。貴女が下山し、梁山泊外から戻ってくる魔星に出くわさないとも限らない。今話した内容を漏らされるのは困る。」
再び立ち上がると許福は話を締めてしまう。そして、
「女性に縄をかけたくはない。術が終わるまでここに留まっていてもらう。」
そう指示を出されてしまった。
戻れないのは困る。
しかし彼を刺激するのは避けた方が良い。無理に駆けても逃げ切れるはずもない。
ならば、
「はい。」
というしかないのだ。
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