竜虎は水滸の菊花に酔う

山桐未乃梨

第1話

竜虎山ーーー道教の宗派の一つ、正一教の本拠地であるここには古くから道士が集まり修行に励む。

唐の時代に世を乱した『魔星』なる者達を封印したのも、ここの道士であった。


その竜虎山に洪信なる男が訪れ、魔星が放たれたのが嘉祐三年のこと。


当時、この国では各地で疫病が流行していた。時の皇帝・仁宗はそれを収めるべく、洪信を竜虎山へ派遣する。そこの道士に疫病退散の祈祷をしてもらう手筈を整えたまでは良かったが、洪信はこともあろうに、厳重に封印されている祠、伏魔殿を見つけてしまった。


洪信はその祠が気になって仕方ない。竜虎山の道士達がこぞって止めに入るのも、彼の好奇心を刺激してしまったのだろう。


治安や警護を担当している長官、殿前太尉という高い地位の職に就いている男。自分の思い通りにことが運ばなくては面白くない。まして、高官でありながら開封府から遠く離れた竜虎山に遣わされたことがそもそも気に食わなかった。

何か腹いせでもしてやろうか、そんな気持ちさえ芽生える。


そんな洪信は強引に封印の札を剥がしてしまった。

祠の中には大きな石碑。そこに刻まれた文字に洪信は驚愕する。


偶洪而開 (洪ニ遇イテ開ク)


自分の名前が刻まれた石碑に洪信は高揚した。

すると、石碑の下で何かがうごめいているのに気づく。


ここまで来たらすべてを見届けなければ気が済まない洪信。


彼はついに石碑までをどかしてしまった。


すると、地中から無数の光の玉が飛び出す。その数、百八。


飛び出した光の玉は散り散りに、やがて見えなくなった。



それから流れた月日は六十二年。



その話は竜虎山の道士に語り継がれて来た。


じっと目を閉じて座している竜虎山の総帥・左真人。

その後ろには何十という数の弟子が同じく座している。


ゆっくりと目を開き、左真人はポツリと呟く。


「石碑が、降った・・・」


それだけの言葉に弟子達はにわかにざわついた。

左真人ともなれば千里眼を使うのは容易い。六十二年もの間、竜虎山の総帥は千里眼を用いて再び百八の星が集まるのを監視していたのだ。


そして今日、宣和二年ついにその日が訪れたということになる。


ざわつき、落ち着きのない弟子達の中にひときわ大きな体の男がいた。名を許福きょふくという。


許福は足音の立てぬように左真人に歩み寄り拱手すると、


「場所はどこでございますか。」


と尋ねた。


左真人は短く答える。


「山東梁山泊。」

「梁山泊といえば近頃勢力を増大しているという山賊の根城でございますね。」


梁山泊の名に、弟子達のざわめきが一層大きくなる。


「静まらんか。」


左真人は落ち着いた声を発して弟子たちに向き合った。


そして許福に顔を向け、


「許福よ。弟子を連れ、彼らを再び封じてこれるか?」


と尋ねる。


「御意。」


そう短く答える許福の目には強い決意が宿っていた。







ガタガタン、と時折大きく揺れながら数台の荷馬車が秋晴れの空の下を進む。

その横で雌の白馬に乗り、心地よい歌声に耳を傾けるのは林冲りんちゅうという長身の男。宋国山東地方、梁山泊を根城とする山賊の一人である。

歌声の主で、先頭の荷馬車を引く馬の手綱を握るのは若く小柄な商人。機嫌の良い様子で歌を口ずさむ声はとても清らかで澄んでいる。しかしその正体もまた梁山泊一党の一人だ。名を楽和がくわという。

歌声が空気に溶けて消え、余韻がゆっくりと凪いでいくと歌は終わる。名残惜しさを感じると同時に、林冲は楽和に声をかけられた。


「林冲殿、もうすぐ梁山泊が見えるころですよ。」

「そうか。帰りは早いものだな。」

「荷がだいぶ減りますからね。」


二人は梁山泊から南に位置する徐州へ行っていた帰路の最中である。

荷は減ったとはいうものの、重陽の節句の晩に行われる菊花の会に向けて菊の花を買い付けて来た。おかげで風が吹けば菊の柔らかな香りを楽しめる。


山賊。ではあるものの、梁山泊は総統である宋江の指示で良民の殺害や略奪の類は一切禁じられていた。襲っていいのは良民を苦しめる悪党のみ。


梁山泊には刀鍛冶や仕立て屋、書家など、職人であった者も多い。彼らの造り出す刀剣や衣類はいずれも素晴らしい出来で、近隣の大きな町で高値で売れた。

今回楽和が梁山泊を離れていたのもそのためだ。林冲は護衛として付いて来ていた。


ちなみに林冲はといえば、八十万を擁する禁軍で兵に武術の指南をする教頭職に就いていた。

身の丈八尺に近い長身、髭こそ備えていないが涼しい目元をした面立ちは威風堂々たるもの。


したがって商いのことはまるで畑違い、荷馬車いっぱいの品が飛ぶように売れたことにただただ感心していた。


「あれだけあった荷がよく売れたもんだな。」

「梁山泊産の品はどれも一級品ですからね。」

「それもあるのだろうが、楽和の弁もなかなかだったぞ。元が牢役人とは思えない。」


小柄で柔和な笑顔の楽和は人に警戒心を与えにくい。声は爽やかで口上も滑らか、さらには人の感情に共感しやすい質らしく、客の求める物を察知しやすいのだとか。


なぜ牢役人をやっていたのかは疑問だが、当の本人は職の拘りはさほどないのかもしれない。


「職人の皆様が魂込めて仕上げた品ですから、こちらも熱意を込めないと。それに、収入もなければ入り用のものも買えませんから。」

「頻繁に寨を下りているのはこのためか。」


楽和は梁山泊で機密伝令担当という役を担っており、何か変わった出来事や事件はないかの情報を探りに行く為でもある。林冲は寨で自分の部下達の鍛練に勤しんでいることが多いが、今回はまあたまには町に出るのも良いかと楽和の護衛を買って出たのだった。なにぶん、多くの荷を運ぶ商人は盗賊山賊の格好の獲物だ。


ちなみに、楽和は何でも飲み込みが早い為、職人達の手伝いにもよく駆り出されているのを林冲は知っている。

やるべきことは一つしかない林冲から見たら、随分と忙しない。

林冲がそう思ったままを口に出すと、


「機密伝令担当と書いて雑用と読みます。」


などと返ってきた。


「自虐が過ぎるぞ・・・」


それ以外に言葉が見つからず、林冲が視線を泳がせると楽和が可笑しそうに笑い声を立てる。争い事を好まない彼は裏方で寨を支えるのが性に会っているのだろう。

ただ、本当の彼の才能は歌にこそある。


再び鼻歌を歌い出した楽和。

その横顔を一瞬だけ見ると、あとは前方に視線を戻してまた心地よく馬に揺られる。


それからほどなくして、彼らの住み処である梁山泊が姿を見せた。

今日の様な秋晴れの日は、青々とした陰影が浮かび雄壮で荘厳な様が遠くでも見てとれる。

はずだった。


だが、今林冲達が見ているのは、梁山泊だけが黒い霧に覆われている異様な光景。


その不気味さに、林冲と楽和は手綱を引いて立ち止まる。


「あれはなんだ・・・?」


しばしの沈黙の後、林冲はそう声を絞り出した。


「さぁ・・・何かあったのでしょうか?」


楽和も茫然と応える。

言い終えるかどうかという瞬間、林冲は馬の腹を蹴って駆け出した。


「林冲殿?!待って下さい!」


楽和の声を置き去りにして、林冲は駆けた。

馬は白綾と名付けた名馬。気難しい気性ではあるが、林冲の意のまま動き、また速度もかなりのもの。みるみる内に楽和を引き離してしまうのは分かっていたが、止まるつもりはなかった。


嫌な予感がする。


皆は無事なのか。黒霧は何か。敵がいるのか、いるとしたら何者なのか。


早く知らなければと、ただただ気が急いてしまう。


全速力で白綾を駆らせていると、見知った顔の男が両手を振っているのが見えた。


「林冲殿!」


男は梁山泊の仲間で、百八人の頭領の一人、孫立そんりつの部下だ。

孫立は楽和の義兄でもあり、林冲とも懇意の間柄。この男のことも、林冲は知っていた。


「お前は確か、凌宣りょうせん。」


林冲が馬を止まらせると、凌宣が頭を下げる。


「ご無事でようございました。取り急ぎ、ご報告しなければならないことがございます。」

「あの黒い霧か?何かあったんだな?!」

「はい。」

「皆は無事なのか?どこにいる?」

「無事かどうか詳細はわかりませんが、現状で命を取られた者はおそらくいないかと。とりあえず、この先の旅籠に向かってください。寨から逃げてきた者が集まっております。」


一先ず死者はいないだろうということに安堵しつつ、林冲は凌宣と別れて言われた通りの旅籠へと向かった。


旅籠は随分と騒がしく、孫立の部下達を中心に梁山泊の連中が何人も外で待機している。

ただ不思議なことに、孫立はじめ頭領の姿は一人もなかった。


「林冲殿!」

「林冲殿だ!」


林冲に気付くと、そこにいた皆が歓声を上げる。

抱き合って喜んでいる者さえいた。


外の騒ぎを聞いたのか、二階の窓から今度は女性の声。


「林冲様!」


見上げると、そこにいたのは楽和の姉で孫立の妻、楽桂がくけいだった。


まずい、楽和を置いてきた・・・


今頃憤慨しているだろうかという林冲の気まずさは誰知らず、旅籠の主人が出て来るとあっという間に楽桂のいる部屋に通され茶まで出されてしまう。

ちなみにここの旅籠は、以前強盗から救ってもらった縁で梁山泊と親しくしていた。


林冲に向かって、楽桂が挨拶を述べる。


「林冲様、よくお戻りになりました。」

「ああ・・・・・・すまん。楽和を引き離して来てしまった。」


若干申し訳なさを感じると喉が渇き、林冲は出された茶を啜って一息ついた。

楽桂を見ると特に外傷は見られず、安堵といったところ。


楽桂は目を伏せ、沈んだ声を発する。


「あの黒い霧をご覧になったのですね。無理もありません。」

「一体何があったんだ?」

「私達にも実はよく分かっていないのです。」


日頃の楽桂は朗らかな女性だ。声は弾み、笑顔にも愛嬌がある。

ところが今はどちらも影を潜め、声は不安が籠るように微かに震えていた。


そこへ、駆け足で近づく足音。


「置いていくなんてひどくないですか?!」


旅籠の主人に案内されて入室してきたのは楽和だ。


「すまん。悪いとは思ったが、一刻を争う事態かもしれんだろう。」

「だったらなおさら一人で突っ走らないで欲しかったですね。」

「お前は荷馬車引いてたし。そういえば早かったな。荷馬車はどうした?」

「他の者に代わってもらいました。単騎で駆けて来たんですよ。情報不足の事態こそ、単独行動は御法度です。」


茶ではなく水をもらったらしく、恨み言を言いながら楽和はそれを飲み干した。


弟の元気な様子に楽桂はようやく笑顔を見せる。


「楽和、無事で良かったわ。」

「それは姉さんでしょ。一体あの霧は何?」


楽和の問に楽桂は首を横に振った。


「よく分からないけど、結界・・・のようなものだと思う。」

「結界?」

「多分だけど、貴方達百八人の頭領方にだけ作用するもの。」


楽桂は梁山泊で起きたことを語り出した。

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