第5話

楽桂は沈んで行く日に焦りを感じていた。


あれから何刻経ったか。特に変化は起こらない。

楽和達は動いているのか、無事なのか。

寨のあちこちに機密伝令がいることは聞いた。だがその気配を感じることも出来ない。


許福は石碑を正面にして胡座をかき、じっとその文字を眺めている。


このまま何もせぬのか。いや、何か別の情報を探れはしないか。

そう思って、楽桂は口を開いた。


「あの、許福様。」

「なんだ?」


石碑から目を離さずに許福は応える。

楽桂も石碑に視線を移して、事の発端であろう出来事について尋ねた。


「魔星と呼ばれる方々は何故封印されるに至ったのでしょうか。」

「聞いてどうする?」

「申し訳ありません。暇なもので。」


今まで大して気にも留めていなかった。

しかし、再び封印しに来た、と言っていたならば、そこにこの窮地を脱する綻びがあるかもしれない。そう考えたのだ。


許福は大きく息を吐きはしたが、少しの間の後話してくれた。


「唐の時代、とは云われているが真実は分からない。国の外れ、ある村にその魔星達は住んでいたという。」


いつの世も天災は訪れる。地鳴りに干ばつ、豪雨・・・ある年、その村を襲ったのは一つだけではない。立て続けに大きな地鳴りが起こり、地面が割れた。建物も倒壊し、復旧ままならぬそこへ連日の嵐による豪雨。

多くの人間が死に、悲しんだ村人は神に人身御供を捧げこれ以上の災害を防ごうとした。

ところが、人身御供を反対した一派がいる。


それが、後に魔星の烙印を押され封印されることになる百八人の男女だった。


元々血気盛んで野蛮、暴れ者が多い彼らは村人と折り合いが良くなかった。

そこへ生贄の話で決定的に敵対してしまう。


神の怒りを鎮めようとする村人に対し、後の魔星たちは神にさえ暴言を吐いた。


人間を食らわねばならぬなら神は獣だ、浅ましい虎のごとき畜生だと。


その暴言に神は怒り、雷雨を伴う大嵐という形で罰を下した。

雷に撃たれて多くの人が命を落とすも、魔星ではない村人ばかり。


その時神はその百八人に言ったという。


己の言動で他人が死ぬのはどんな気分か?



許福はここで一息吐く。

楽桂の胸はばくばくと音を立て続けていた。


「その、魔星となる方々はなんと答えたのですか?」


勇気を出してそう尋ねる。


「『そんな奴らいくら死んでも構わん。』」


確かに、血の気の多く、気性の荒い彼ららしい言葉だ。真実、そう言ったのかもしれない。

しかし…しかしなのだ。楽桂は弟や夫に思いを馳せる。


楽桂の様子には頓着しないのか、許福は続けた。


神は一層激昂し、恐れた村人は竜虎山に助けを求めて来た。

神をも怖れぬ傲慢な連中を、生まれ変わりも出来ぬように封じてほしい。

そのように依頼を受け、遂行したのだと。


「その封印とて万能ではない。永久の効力はなく、封印は解かれ奴らは放たれてしまった。」


許福は立ち上がり、石碑に触れる。


「我々は千里眼を用いて国全体を監視していた。必ず奴らは一堂に会す。その時には再び封印の術を用いようと長い間準備を怠らなかった。」


それが自分の使命なのだと、許福の目には強い光が宿っている。

失敗するわけにはいかぬと、拳を握る許福に楽桂はある確信を持った。


許福は真面目で優しい気質なのだと。

殺生も、楽桂を捕縛しないことも、やろうと思えばできるはず。きっとその方が確実で早い。それをやらないのは、きっとそういうことなのだ。


「・・・・・・あの」


だから、楽桂は話し合いを試みる。

きっと分かってくれる。そんな気がしたのだ。


「何か?」

「いえ、私には腑に落ちないことがございます」

「なんでしょう」

「人身御供とはつまり生け贄・・・・もし自分の家族からそれを差し出せと言われたら、憤って当然だと思いまして。彼らが特別ひどいということがありましょうか」

「当時の状況は切迫していた。みな心に余裕が持てていなかった。その心の平穏を取り戻すためにも、人身御供は必要だったのだ。それが社会であり協調というもの。実際、生け贄として亡くなった者が何名かいたと記録されている。」

「・・・・誰かが一層の悲しみに打ちひしがれることになっても?」

「もちろん、すすんでそんなことをしたい訳ではない。しかしそれでも、皆がそれを乗り越える。犠牲者に感謝しながら。社会を維持し、協調性を保つとはそういうことなのだ」

「・・・・・」


確かにそうかもしれない。だが、乗り越えられなかったら?


戦や病気で死ぬのとは違う。


皆の為に死んでくれ。


そんなので納得できようか。

そして楽桂の中で何かが閃いた。


「もしかして、あなた方に依頼した村人達は・・・」


それを説明しようとするが、楽桂の話の途中で許福はそれを制した。


「悪いが、行かねばならなくなった。」

「許福様?!待ってください!」


楽桂が引き留めようにも、許福はあっという間に雲を作り飛んで行ってしまったのだ。






雲を生成し浮遊するのに一枚、敵から気配を絶つのに一枚。


大虎の術を解くのにも一枚。


残りの呪符は二枚。できればこれ以上の消費は避けたい。


しかし眼下の戦闘は劣勢に一変した。


消えたはずの大虎がまた出現したのみならず、武松と林冲の動きが何故か完全に止まったのだ。


もう一度、せめて虎を消そうかとも思ったが、おそらくまた術は再生するだろう。


林冲と武松も何かの術にかかったことには違いない。しかしどういった術なのかが分からず、それが分からなければ術を解くこともできなかった。


一人で撤退するか、それにはまださすがに早すぎるが全てが手遅れになってもまずい。


判断は慎重に、じっと目を凝らして状況を分析するも、


「・・・っまずい!」


ということだけが分かった。


施恩を倒せぬ苛立ちから、大虎は武松に標的を変えた。

すでに施恩は疲弊している。気力で武松を守りつつ戦うも、いつ限界が来てもおかしくはない。


迷う前に楽和は呪符を翳す。


もう一度虎は消えるも、再び形を成した。


「やっぱり駄目だ・・・っ」


術の熟練度が違いすぎる。


ならば一か八か。


呪符を翳す楽和だが、呪符は淡く光ったかと思うとすぐに消えてしまった。


林冲達が動く気配はない。そのうえ、楽和の体を支えていた雲までが消えてしまったのだ。


「・・・・っ!!」


しまった、と思ってももう遅い。

楽和の体は急激に落下して行った。







武松の目の前には兄の武大。兄もまた、信じられぬといった様子で武松を見つめている。


危うく、戒刀が武大を襲うところだったと武松は冷や汗を流した。


「・・・・・兄貴、何で?」


幻覚…幻覚…そうに違いない。

絞り出した自身の声が、ひどく震えていた。

幻覚ならば会話などできないか。その予想に反して、武大の口から発せられた、紛れもない兄の声。


「さあ。・・・・俺にも分からない。」


しかし武大はとうに死んでいる。

武松の居ぬ間に殺されたのだ。


穏やかだった兄の声に懐かしさを感じ武松は思わず涙した。


事の起こり…とは武松の場合どこのことを指すのか。

兄は武松より三つばかり年上。武松の幼いころの悪戯で、熱した油を武大の顔にかけてしまって以来、彼の左面に広がる痛々しい火傷痕は武松にとっても癒えない瑕になっている。大人には滅法叱られたが、当の武大からそのことについて責められもしないからなおさらだ。


成長して大きな体になった武松に対して武大は身の丈低いまま。 穏やかで、優しい気質の兄には味方もいたが、その容姿をあげつらうごろつきもまた多かった。そんな連中を拳で黙らせてきた武松だが、ある日役人を殴り殺して出奔。一年以上に渡って兄とは離れていたわけであるが、再会した時にはすでに武大は潘金蓮という美しい妻を娶っていた。


兄の結婚を喜び、祝福したのも束の間…。

兄嫁は西門慶なる成金と姦通し、共謀して兄を毒殺、その間武松は当時都頭として開封府に出張しており、死を知ったのはすでに埋葬された後のこと。

残酷な死の真相が武松を仇討ちに向かわせたことなどは語るまでもない。


思えば、兄を守らねばと決めたのは彼の顔に火傷を負わせてからのことだ。

それでも守り切れず、死なせてしまった自責の念。

あの時開封府に行かなければと、幾度後悔しては涙を流してきた。


武松にとって、兄とはそういう存在なのだ。


だからといって、つい先ほどまでの記憶がないわけではない。


道士との戦いの最中だったはず。


『斬れるもんなら斬ってみろ』


その言葉はつまり、武大を斬れば術は解けるということ。


なんとも悪趣味な術に、武松は悔しくて腕を震わせた。


斬れる斬れないの問題は元より、もう会えぬはずの人間が目の前にいれば大抵の者は離れがたいと思うだろう。


それにつけこんだ下衆な術法だ。


「武松。」


どうすればよいか分からぬ武松の名を兄が呼ぶ。


悲しそうに、それでも優しく微笑んで武大は両腕を広げた。


「・・・・・兄貴?」

「早く戻らないと。今大変なんでしょ?」


ただ兄の姿を模しただけの傀儡ではない。それであればどんなによかったか。

武大のいう通り、早く戻らねばならない。

武松とて頭では分かっている。

しかし武大を斬ることなど、武松にはどうしても出来なかった。

守りたかった、守れなかった。もっと話したいことがある。

そんな武松に、武大を攻撃などできるはずもない。


「武松!」


穏やかな兄が、叱責する時の声。


武大が武松の戒刀を取り、自身の首に当てる。


「武松、早く戻りなさい。」

「俺が兄貴を斬れるわけねえだろ!」

「それでもやらなきゃ!」


大男の眼からあふれる大粒の涙。

武大の眼にも涙が浮かんだ。


「俺はいつまでも、お前の近くにいるから。ほんの少しの間だけど、話ができて嬉しかったよ。」


無理に作ったような優しい笑顔は生前のまま。

大きな火傷の跡は尚も武松の心を苛む。


仲間を思えば、斬らなくてはいけない。


ぶるぶると震える手で、涙に濡れた目をぎゅっと閉じて、武松は大きく戒刀を振った。


目を開けて見えたのは施恩の背中。

その体は立ってはいるものの、血にまみれている。


「施恩!」


思わず武松は叫んだ。


「遅えよ、起きんの!」


戻った武松に安心したのか、遂に施恩は膝を着く。武松とて施恩の思いのほかしっかりとした声に安堵しつつ、疲弊仕切った施恩の体を支えた。

施恩の荒い息遣いを聞きながら武松は大虎を睨む。

かつて武松も人食い虎を倒した豪傑。

体がそれ以上に大きいとはいえ、今の武松はひどく立腹している。

負ける気がしない。

武松は施恩を後ろに庇うようにして戒刀を構えた。

しかし、施恩が落ち着けと声を掛けて肘を掴む。


「あれ、解けねえみてえよ。」


そう言って施恩も息を整えながら立ち上がった。


「そうなのか?」

「一回は消えた。けどまた出てくる。タチ悪い」


虎は武松にも怯まず牙を剥く。

そこへ戒刀を一振りする武松だが、虎は斬撃を喰らってもなおすぐさま向かってくる。


「施恩、離れてろ!!」


やはり術を掛けた奴をなんとかせねばならない。

施恩をこれ以上戦わせたくはないが、本人は戦う気でいるようで術者に向かって駆けだそうとした。

しかしその時、施恩は何かに気づいたようで足を止めた。


「おい、武松!あれ!」


そう叫ぶ施恩。


指差した方を武松が見れば、急速に落下してくる人物。

楽和だ。


このままでは地面に叩き付けられる。


武松は駆けるが、間に合う距離ではない。


「林冲!!」


武松よりは近くにいる林冲の名を呼んだ。






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る