第6話
一方の林冲の目には、暗闇に佇む親友の陸謙が写っていた。
「陸謙…だよな?」
道士の術であることは明白。
『斬れるもんなら斬ってみろ』
斬る相手は陸謙だとでも?
林冲の体が震えた。
陸謙はかつて、林冲が殺したいくらい憎んだ相手。
林冲を裏切り、命を狙ってきたと思い込んで。
その時の憎悪を未だに持っていたら、躊躇なく斬ったにちがいない。
しかし陸謙は裏切ってなどいなかった。命を掛けて、林冲を謀殺する輩から逃げ道を作ってくれていた。
梁山泊に辿り着き、年月を経てそれは確信に変わっている。
そして後悔した。
陸謙の行動の真意を知った時、助けてくれたことへの感謝と共に沸き上がったのは後悔の念。
陸謙は林冲が刺そうとした瞬間に、他者の凶刃に倒れた。
目の前だった。後一歩のところで、林冲こそが陸謙を殺すところだったのだ。
何度も考える。あの時、陸謙を助けることは本当に出来なかったのかと。
だからこそ、陸謙は絶対に斬りたくない。
しかし今、梁山泊の危機ではないのか?
助けるべきは誰だ?
すると、ただ困惑している林冲に陸謙が近づいたかと思うと、急に殴りかかって来た。
痛みこそ強くはないが、不意を突かれた林冲はそのまま倒れてしまう。
「陸謙!?」
彼を見れば、林冲の持っていた朴刀を奪い林冲を睨み付けていた。
やはり陸謙ではないのか。
ならば速やかに倒せばよいだけ。
躊躇する必要はない。
なのに。
体が、彼を攻撃することを拒否しているように力がはいらなかった。
「陸謙···」
絞り出すように名を呼ぶと、陸謙は斬りかかって来る。
剣撃を躱すことは容易だが、それだけでは状況は良くならない。
林冲の命を狙っていた、そのことを思い出させるような、憎悪や殺意に満ちた陸謙の姿に胸をかきむしられる。
斬れば良い。
刀を取り返して、斬ればこれも終わる。
所詮偽物なのだ。
しかし刀を振る彼の癖一つ一つが、生前の親友のままのそれで、林冲はあと一歩を踏み込めない。
やがて互いの息が荒くなると、陸謙が刀を手放した。
どうしたのか、と考えつつ林冲は刀を拾うが、その隙を突かれて今度は陸謙に首を締められてしまう。
林冲は彼の手首を掴んで抵抗を試みた。
そして気づく。
陸謙の腕にこそ力は入っているが、指にはそれほどの力はない。
本気で殺そうという意図が、指には伝わっていないのだ。
あぁ、本物なのか。
なぜ、こんな行動を取ったのか。
考えるのが苦手な林冲とてすぐに分かる。
この術は陸謙を斬ることでしか解けない。
陸謙もそのことを知っているのなら、一番手っ取り早く林冲に斬られようとしている。
林冲の目に涙が浮かんだ。
陸謙を助けることは本当にできなかったのか、そんな後悔を思い浮かべる。同時に頭を掠めるのは、林冲こそが陸謙を手に掛けていたとしてもおかしくはなかった恐怖。
それを思うと、林冲の体に震えが走る。
けれど不思議なことに林冲の心は決まった。
林冲は力いっぱいに陸謙の腕を捻り、腹を蹴とばす。
体は尚も震えながら、林冲は朴刀を構えた。
陸謙を斬ることでしか、仲間を救う術を持てないなら。
斬るしかない。
親友や、仲間を失う後悔、恐怖。味わうのはもう御免だ。
林冲は覚悟を決め、叫ぶ。
「許せ、陸謙!」
同時に振り上げた刀。
人を斬った時の手応えそのものが手に残る。
代わりに、視界は開けた。
闇は去り、見知った風景。
だが林冲の目に写ったのは、天から落下中の楽和の姿。
「・・・・・・!楽和っっ!」
全速力で駆け出すも、その距離は遠い。
みるみる内に楽和と地上の間が狭まった。
諦める訳にはいかない。その一心で、林冲は駆ける。
間に合わない
そう思ったのに。
必死になっている内に、いつの間にか腕には楽和を抱えていた。
「林冲殿っ!」
間に合った、と安堵するのも早い。
道士を倒さねば。
林冲が道士に向かう。
道士は舌打ちをすると、宝剣を掲げ詠唱した。
瞬く間に道士の足元に形成される雲。
上空へ飛ぶつもりだ。
「させるかっ!林冲!!」
叫ぶは武松。
戒刀を放り、中腰で両の手のひらを組む。
林冲は全力で駆けると、武松の組んだ手に足を乗せた。
「ううぉおおらあぁああーー!!」
力一杯に、武松が林冲の体が乗った手を振り上げると、林冲は宙に飛ぶ。
道士も既に空に浮かぶも、勢い良く飛んできた林冲に驚き、防御の術が遅れた。
そのまま林冲は道士に朴刀を叩き付け、道士は気を失ったのだった。
道士が気を失ったことで大虎も消え失せ、封印の術を行っている術者共々縛り上げた訳だが梁山泊を覆う霧は晴れなかった。
「おいおい、晴れねえぞ。」
そう焦る施恩の声を聞きながら、楽和は目を凝らして山の頂きを仰ぐ。
どうやら事態を甘くみていたらしい。
まずい。非常にまずい。
「…許福が代わりに術を続けているのかも。やはり許福を倒さねばいけないようです」
「それって、寨の中に入らなきゃいけないってことか?」
だとしたらもう楽和達の手には負えない。
極力避けたかったことだが、凌宣らを頼らざるを得ないだろう。
楽和がそう結論付けようとした時だった。
急に、体が動かなくなる。
だが、それだけではない。空気が途端に重くなったように、楽和の体はその重みに耐えられず俯せに倒れこんでしまった。
それは林冲、武松、施恩も同じようで、皆地面に膝を着いてしまう。
許福か?
楽和がそう思った矢先に頭上から低い声が降って来た。
「敵陣に乗り込んで、そううっかり解術の法を明かすとでも思ったか」
雲に乗って浮かんでいるのは立派な髭の大男。楽桂から伝わって来た首謀者の風貌の通りだ。
楽和はこの男が許福だと確信した。
「お前達も魔星だな。道士でないお前たちが、よく全員倒せたものだ」
抑揚なく、感情の読み取れない許福の台詞。何か言おうにも、体が押しつぶされて楽和は声が出せない。
立ち上がろうとすると、ビリビリと全身が痛んだ。
それでも立ち上がろうとする者はいる。
林冲と武松だ。
汗が垂れるのも構わずに二人は中腰まで体を起こす。そして許福を睨み付けた。
怒りの情を含んだ尋常ではない彼らの気迫に楽和は息を飲む。
「立ち上がれるか。大したものだ」
しかし許福が手を翳せば、二人の全身に大きな岩が降ってきたような圧が掛かる。
「うぅっ…!」
呻き声と共に二人はまたしても倒れてしまった。
「安心しろ。抵抗しなければ何も痛みはない。このまま、術の中へ運んでやろう」
そんな許福の言葉の後に、意外な乱入者が現れる。
「許福様!!」
楽桂だ。
相当に急いで駆けて来たのだろう、髪は乱れ、裙子はところどころ破れが見られる。
「許福様、どうか私の話を聞いて下さい!」
荒い息を整える間もなく、楽桂は膝を付いて平伏する。
「申し訳ないが、今それどころではない。」
許福は彼女を一瞥もせず冷淡に一蹴するが、楽桂も引かない。
「いいえ!許福様、先程の、魔星が封印された経緯に私は疑問を持ちました。封印を続けるかどうか、私の解釈を聞いてからお決め下さい!」
必死の楽桂の懇願に、ようやく許福は楽桂を見た。
姉が何を話すつもりなのか、楽和にはさっぱり見当もつかない。
しかし、林冲や武松さえ為す術がない今、楽桂に賭けるほかなかった。
許福が楽桂の解釈とやらに興味を示してくれたのも幸いだ。
楽桂は地に両手をついた状態で語り始めた。
「親しい者が生贄にされ命を落とせば悲しいのです。許福様は皆がそれを乗り越えたと仰いますが、乗り越えられぬことがいけないことなのでしょうか?」
話す内に楽桂の手が拳を握る。
力のこもった姉の眼差しに楽和は身震いした。
楽桂は一切目を逸らさずに続ける。
「後に魔星となる彼らは、ただ純粋だっただけなのだと思います。純粋が故に、悲しみは乗り越え難い。嘆き悲しみ続ける彼らを見て、村人は自分達が冷たい人間だと思うようになってしまったのです。日に日に、罪悪感も増していったことでしょう。そんな感情から自分達の気持ちを守るために村人達は魔星を異端とみなし、排除しようとした…その方法が竜虎山の道士に封印してもらうことだったのです。」
「しかし、神は怒った。」
「本当に神は魔星に怒ったのでしょうか。いいえ、純粋な彼らを排除しようとした村人にこそ、神は怒り、罰を与えたのです。」
「面白い解釈ですな。しかし、それは事実ではない。彼らを放っておけば、この宋国を乱す大きなうねりとなる。」
再び許福が動く。
おしゃべりは終いだというように、楽和達の体に一層の圧がかけられた。
万事休す。
いよいよ観念せねばなるまい。
しかし楽桂はまだ、声を張り上げる。
「許福様は、今の宋国が乱れていないとお思いですか?!」
「何?」
これまでと許福の反応が異なった。
興味を引かれたのではない。しかし確かに許福の表情には動揺の色が見える。
図星を指された。それに近い。
楽桂もその手応えがあるのだろう、。
「この宋はすでに乱れているのです。財力は中央に集中し地方との貧富の差は開く一方。なのにその救済もしなければ軍事さえ疎かにして他国の侵略の危機さえ放置する始末。」
「・・・・・」
饒舌に語る楽桂に無言の許福。
「許福様、こうは考えられないでしょうか。この国の大きな乱れは他の大きなうねりをもってしか正せない。その大きなうねりこそが、この梁山泊に再び集まった魔星達ではないかと。」
楽和は驚いた。
梁山泊の魔星が宋を救う。まさかそんなことまで考えているとでもいうのか。
ありえない。梁山泊の総統、宋江なら考えそうなことであるが、国の為になど他の荒くれ頭領がうごくとは思えなかった。
実際、武松が何か言いたげに口を開きかける。
幸い、施恩が制してくれて事なきを得た。
この先の梁山泊がどういう道を辿るか、楽和とて分からない。
しかしその憂いはまず許福に術を解いてもらわねば存在しえぬもの。
「天に替わって道を行う、忠と義双び全し・・・、この石碑を見ておられたではありませんか。許福様も、少しでも···ほんの少しでも、同じようにお考えになっていたのではありませんか」
その言葉に賭ける楽桂の眼差しは強い。
我が姉ながら気丈なものだと、楽和も祈りの心持ちで許福の次の言葉を待つ。
「分かりました」
許福がそう呟くと、楽和達の体が軽くなった。
「今封印するのはやめておきましょう」
許福は懐から懐紙を取り出した。
それを破くと、梁山泊を覆っていた黒い霧がさっと晴れる。
「ありがとうございます!」
楽桂は涙を浮かべて深く、深く頭を下げた。
「やはり貴女はここの縁故の者でしたか」
「………」
「あれだけの声の持ち主が貧乏旅芸人など、少々無理がありましたね」
「申し訳ありません…そうでもしないと…」
言いかけた楽桂の言葉は許福によって遮られる。
「今回は撤退します。が、彼らが平民の生活を脅かす存在になり得ると判断した場合は、また封印の術を掛けに参ります。その際はどうか一切の抵抗などしないで頂きたい」
許福が掌を叩くと、仲間の道士が目を覚ました。
このまま立ち去ってくれればそれでいい、と楽和と楽桂は思っていたのだが、生憎とそれでは収まらぬ者もいる。
「待てこらぁーー!!」
武松だ。怒り心頭の表情で先程戦っていた道士を睨む。
「おい許福とやら。てめえには用がねえ。そこの外道をおいていけ!」
収まらぬ腹の虫、それは林冲も同様であったようで、武松と共に道士の前に立ちはだかる。
「なんなら死体でも構わない。」
そう言いながら武器を構える林冲に楽和は血の気が引いた。
「林冲殿、武松殿!落ち着いて下さい!!もう終わりました!みんな救えたんですよ!?」
必死に二人を制止する楽和だが、林冲と武松はまだ許福を睨み、一触即発の空気は変わらない。
許福は大きく溜息を吐く。
これ以上戦闘になったら今度こそ終わり。
と、思っていたら頭上から雷のような音が聞こえ雲が覆い始める。
天候の急変か、いや違う。
明らかに不自然なその現象は妖術の類のもの。
詠唱も何もしていなかったから許福ではない。
降ってきた声の主は…
「まだやり合うつもりかい?血の気が多いやねえ」
梁山泊の頭領、入雲竜公孫勝だ。
黒い雷雲に胡坐をかいた公孫勝の後ろでは、雲の切れ目から蛇のような眼が時折覗いていた。
「公孫勝殿!」
その出で立ちに肌が粟立ちながら、楽和は叫ぶ。
この場を収めてくれと、
公孫勝が一瞥して蛇と目を合わせた。すると途端に、巨大な大蛇のような竜が大口を開けたかと思うと、林冲と武松の怒りの矛先である道士を丸のみしてしまう。
一瞬の出来事に楽和が言葉を出せないでいると、公孫勝はからからと嗤った。
「どうだい、お二人さん。これで溜飲を下げちゃくれねえかい?」
呆気にとられているのは楽和だけではない。
林冲も武松も、声を発せずに頷いた。
「で、そっちの道士さんも、とっとと仲間連れてお引き取りくださるな?」
公孫勝が目を向けた先は許福。
公孫勝と許福、どちらが強い道士なのか楽和には分からない。
が、戦闘は避けてほしい。
幸いに許福は、
「そのつもりです。」
と言って仲間ともども、早々に姿を消した。
そこに微かに残る花の香り。
梁山泊に帰還すればそこかしこで香る菊の花。
もしかしたら。
本当にもしかしたら。
この香りも、わずかに許福の心を開いてくれていたのかもしれない。
後から公孫勝に耳打ちされたことには、竜に喰われた道士は実際には喰われたのではなく、あのまま竜虎山に運んでやったのだそうだ。
そうでなければさらなる軋轢が生まれただろうことは明白。
竜虎山の憂いはひとまず落着ということで、楽和は来る菊花の宴の準備に駆り出されるのであった。
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