第6話 12月26日の鬼ごっこ

 深い闇の中で、包丁についた赤色は炎のように際立って見えた。


「さ、サクちゃん? その包丁、どうしたの?」


 サクちゃんは顔を傾けた。「なんでそんなことを聞くの?」と言っているかのようだ。そしてわたしのほうに包丁を持つ手を伸ばした。


(刺される!)


 反射的にそう思って体に力が入る。でもサクちゃんの差しだした包丁は横向きだった。


「コッコ! あげる!」


 こんな暗くて臭くて寒くて気味の悪い場所なのに、サクちゃんの声は元気だった。わたしは震える手を包丁に伸ばした。


「あ、ありがとう。いらないけど」


 包丁を持つと、余計に手が震えた。


「死体の下に懐中電灯がありますね」


 黑乃くろのさんが倒れている人の下に手を入れて、太いマジックペンのような懐中電灯を引っ張り出す。クッションの下からリモコンを取り出すかのように自然な動作に、なぜか怒りが湧いてきた。


「なんでそんな冷静なの!? それに死体って……!」


「落ち着いてください。生きていたとしても、もう助かりません」


「そんなのわかんないじゃん! わたしたちじゃどうにもできないけど……そうだ! 119番!」


 スマホの画面をつけて緊急通報のボタンをタップする。すると画面の上の方に『圏外です。電波の安定した場所に移動してください』と表示された。


「え? うそ……圏外?」


 子供のときは携帯電話なんて持っていなかったから、枯月の電波状況なんて知らなった。


「こんな山奥ですし、もう人も住んでいないみたいですから仕方ないです。でもさっきの駅では電波が通じていたので、いったん駅に戻りませんか?」


「急ごう!」


 早ければ早いほど助かる確率は上がる。そう思って立ち上がった。


「だっこ」


「え?」


 サクちゃんが立ち上がって、わたしに向かって両手を伸ばしていた。


(あれ? いまわたし、サクちゃんを置いていこうとした?)


 気が動転してサクちゃんまで気が回らなった。きっとそうだ。


 包丁を置いてサクちゃんを抱き上げた。すると黑乃さんがその包丁を拾った。


「え? それ持ってくの?」


「はい。もしかしたらこの二人を殺した犯人がいるかもしれないので――」


 黑乃さんが突然、闇の中に懐中電灯を向けた。クピドの家とは反対側だ。


「なに? どうしたの?」


「いえ、なにか動いたような気がしたのですが」


 黑乃さんは懐中電灯をゆっくり横に動かす。すると懐中電灯でギリギリ見えるくらいのところに小さな山があった。たぶんわたしの身長くらいの高さだろう。


「土が盛ってあるだけじゃない? わたしがいた頃はなかったけど――」


 山が立ち上がった。高さが倍くらいになり、細長いおにぎりのようなシルエットになる。


 あまり見たことはないのに、少し前に話していたからかピンときてしまった。


「クマだ……」


 でももう一つ気づいた。


「今の季節は冬眠してるはずだよね?」


「気候やお腹の空き具合で目が覚めてしまうことがあると聞いたことがあります。そしてそういったクマさんは機嫌が悪く、集落やキャンプ地を襲って全滅させるのは都市伝説のお約束です」


 黑乃さんの声も少し小さくなった。


 光を当てられて、クマは間違いなくわたしたちに気付いている。


「逃げよう」


 そう言ったのが聞こえたかのように、影は姿勢を低くし、地面を蹴る。


 わたしたちは気が付いたら走っていた。細い坂道を駆け下る。崩れかけの石の階段はやたらと滑った。


 道に出たわたしたちは近くの建物へと駆け込んだ。屋根が崩落した家だ。


 玄関だったであろう場所に入り、壁に体を寄せて身を隠す。


「大丈夫かな? 追ってきてないかな?」


「わからないですけど、追いつかれなかったということは黑乃たちを見失ったか、途中の死体に気を取られたかのどちらかだと思います」


 ちょっと走っただけなのに、わたしも黑乃さんも息が切れていた。でも動けないわけじゃない。


「今のうちに駅まで行ったほうがいいかな?」


「そうですね。この近くにいていいことはなさそうですし」


 道に戻ろうと動き始めて、ライトをつけっぱなしだったことに気付いた。もし近くまでクマが来ていたら見つかっていただろう。


「駅まで一本道だし、懐中電灯とかは全部消しておかない? 少しでもクマに気づかれないようにしたい」


「賛成です」


 黑乃さんが懐中電灯を消した。わたしもスマホを消してポケットにしまう。


「くらいー」


 サクちゃんが腕の中で足を振った。


「ごめんね。少しだけ我慢して。あとシーね。できる?」


 サクちゃんの唇に人差し指を当てて静かにするように促すと、サクちゃんは両手で自分の口をふさぐような仕草をした。


「いいこいいこ。サクちゃんは賢いね」


 頭をなでながらサクちゃんの頭が肩に載るように密着させる。


「じゃあ行きましょう」


 気配がないのを確認し、道に出た。何か話して決めたわけでもないのに、わたしも黑乃さんも早足になっている。冷たい空気がうまく吸えなくて苦しかった。それでも足は止めない。


 目が慣れてくると、ライトが無くても道の輪郭くらいならわかるようになってきた。顔を上げると、生垣が見える。その奥には家の形の闇がこちらを見下ろしていた。


「この先の森を抜ければ――」


 突然口をふさがれた。手に力が入り、サクちゃんがそれに反応して体を震わせたけれど、約束を守って声を出さなかった。


「……後ろに気配があります」


 黑乃さんのささやきが耳をくすぐる。わたしが頷くと口から黑乃さんの手が離れた。


 後ろを見ても暗闇が広がっているだけで、何かの姿は見えない。耳を澄ましても何か聞こえたりはしなかった。


(何も感じないけど、黑乃さんも怖さでいないものを感じたりしたのかな?)


 そう思って前を向くと、それを待っていたかのように遠くでスマホが震えたような音が連続して聞こえた。位置はよくわからなかったけれど、後ろの方と言われれば確かにそうかもしれない。


(何の音? もしかして足音?)


 その音が消え、呼吸の音が聞こえた気がした。振り向いても姿は見えない。


 黑乃さんがわたしの手を引いた。その目は「急ぎましょう」と言っている。


 歩き出したわたしたちの足はさっきよりも速かった。


(クマが追ってきてる? クマってこんな暗闇の中でも追っかけてこれるくらい目がいいの?)


 そういえば子供の頃、集落では生ごみを一か所に集めて毎日焼いていた。放置しておくと鼻のいいクマが食べにきてしまうのだとか。まだ幼かったわたしはクマ見たさにリンゴを食べずに外に持ち出して、ひどく怒られたりもした。


(臭いで追ってきてる?)


 それなら暗闇の中でも追ってこれているのも納得がいく。すぐに襲い掛かってこないのも、わたしたちの正確な位置はわかっていないからなのかもしれない。


(でも、いずれ追いつかれる)


 足の速さは間違いなくクマの方が上だ。臭いを辿りながらとはいえ、道なりに追うだけなら絶対に追いついてくる。


(シャワーとかがあれば臭いを落とせるんだろうけど、そんなの無理だし)


 そもそもどこでわたしたちの臭いを覚えたのだろう。ずっとあの場にいたサクちゃんの匂いだろうか。


(あれ? もしかして)


 サクちゃんの顔が見えるように、少しだけ体から離した。おねむになった穏やかな寝顔には、血がべっとりとついている。暗くてよく見えないけれど、もしかしたらサクちゃんのコートにもたっぷり血がしみ込んでいるのかもしれない。


(血の臭いを追ってきてる? じゃあサクちゃんを囮にすれば――)


 悪魔の考えが頭をよぎった。


 わたしは頭を振って、覚悟を決める。


「先に行ってて」


 わたしは黑乃さんの手を振りほどいた。黑乃さんは一瞬だけ足を止めたものの、すぐに頷いて背中を見せる。


 わたしは生垣の開いているところから中に入り、家の中を目指す。


 裏口のような戸口があったので中に入ると、土間になっていて流し台があった。台所か何かだろうか。蛇口をひねってみたけれど、水は出ない。


 奥に行くと廊下があった。床が板だからかまだしっかりと残っている。土足で上がる罪悪感を感じながら、ゆっくりと左へと進んだ。床を踏み抜いてしまわないように。余計な音を立ててしまわないように。本当にゆっくりと。


 家の間取りを覚えていたわけではないけれど、なんとなくで向かった先に縁側のある広間を見つけた。


(ここでいいかな)


 近くの板間にサクちゃんを寝かせる。サクちゃんは起きなかった。


(ごめんね。サクちゃん)


 サクちゃんの来ているコートのジッパーを開き、脱がせる。起きて騒がれたらどうしようかと思ったけれど、目覚める気配はない。


 どこかで床が軋んだ。わたしは大急ぎで自分のコートも脱ぎ、サクちゃんのコートと一緒に広間の奥に向かって投げた。シャツにセーターという格好は真冬の夜中には堪えるけれど、Tシャツ一枚のサクちゃんに比べたら全然マシだ。


 サクちゃんを抱き上げたら温かかった。そのまま廊下を進んで壁の裏へと隠れる。そこからは玄関が見えていた。


 侵入者の足音は聞こえなかったけれど、床の軋みからは体重を感じた。一歩一歩が家全体を通して伝わってくる。


 息を殺しているわたしとは相反して、大きな呼吸が聞こえた。ほうきで床を掃く音に似ている。人間の呼吸で出るような音じゃない。


 その強い存在感が近寄ってくるのを感じた。壁のすぐ向こうにいるのではないか。そう思えるくらいに。


 動物園の臭いがした。これが獣臭さなのだと思った瞬間。背後で雷が落ちたような大きな音がした。


(やった……!)


 血の臭いの付いたコートを追って縁側に近寄ったクマが、腐食の進んだ木材を踏んで落ちた――のだと思う。


 思い通りになったかはわからないし、確認する勇気もない。大事なのはこの隙にここを出て、距離を離すことだ。離れてしまえば、臭いの付いたコートを脱ぎ捨てたわたしたちをクマは追ってこれないかもしれない。


 見えている玄関に向かって足を進めた。姿勢を低くして、音をたてないように気を付ける。


(よし、大丈夫そ――)


 あと一歩で外に出れるというところで、床に穴が開き、左足が落ちた。


(ここも雨風が吹き込むから……!)


 幸い簡単に足は抜けたし、ケガもない。でもそれなりに大きな音を立ててしまった。


 壁の向こうで何かが動く気配がする。


 わたしは全力で走った。道に戻り、森へと向かっていく。息が切れているかはわからない。頭の中は空っぽで、暗闇が白く見えてきた。夢の中にいるみたいだ。


「コッコ!」


 サクちゃんの声がわたしを現実に引き戻す。わたしは森の中で、丸太の間を走っていた。


「コッコ! うしろ!」


 後ろを振り向く余裕はない。背中側から吹いてきた風は獣臭かった。


虹子こうこさん!」


 黑乃さんの声が聞こえたとき、わたしは坂を上っていた。


「マップによると、駅の向こうの森の先に道路があります! そこを目指しましょう!」


 黑乃さんが画面を付けたスマホを振ってわたしを待っていた。坂を上るわたしの足は、もう歩くのと変わらない速さになっている。


「ハァ、ハァ…………急ごう。まだ追ってきてるかも」


 上りきってすぐに、無理やり声を絞り出す。黑乃さんが見せてくれた画面には、何もない現在地の右上に道を示す曲線があるマップが映っていた。


 ホームから降りて線路を越え、森へと入る。そこには枯月への道と同じように、丸太二本で示された道があった。その道は森の中を左へと曲がっている。


「道路があるのはあっち側だよね?」


 わたしは右の方を指さし、丸太の外に出ようとした。すると黑乃さんに服を後ろからつまれた。


「待ってください。ここに来たときに虹子さんに聞かせていただいた民話。覚えてます?」


「『丸太の外は怖いぞ』ってやつ? いまそんなこと言ってる場合じゃないでしょ」


「でも言ってたじゃないですか。丸太の外に出たら『クマに食べられる』って。黑乃はそのお話。信じます」


 暗い中でもわかるくらい、青い目はまっすぐわたしの目を見ていた。きっとわたしが何を言っても、その目は揺らがない。


「ああ、もう。わかったって。丸太の道通りでいいから急ごう。時間がもったいない」


 こんな作り話に従うなんてどうかしている。わたし一人だったら間違いなく最短のルートを選んでいた。


 でもそんな作り話を信じる黑乃さんを見て思ったのだ。この話はわたしたち――子供を守りたくて作られたのだと。もしそんな思いを込めて作られたお話なら、本当にわたしたちを守ってくれるのではないかと。


 丸太の道の先に光が見えた。懐中電灯の小さな光なんかではなく、もっと明るい昼間のような明かりだ。


「あとちょっとです!」


 黑乃さんの声に引っ張られ、足が軽くなる。


 一気に近くなった光の中へと飛び込んだ。


「本当に……道路だ」


 わたしの足の下には舗装された路面があった。山の中特有の、曲がりくねっているくせにさほど広くもない道路だ。街灯だってここからは一つしか見えない。


 それがわたしたちを照らしている街灯だ。


 普段なら暗いとさえ思ってしまう街灯が、太陽のようにさえ見える。


 わたしたちは自然と森から離れて、街灯の足元に近寄った。


「道に出たのはいいけど、これからどうするの?」


「電波は通じるので、警察に通報します。もし信じてもらえなかったら、タクシーでも――」


 黑乃さんの視線が固まる。その先で森の中から大きなクマが這い出てきて、立ち上がった。わたしの身長の二倍はある。左腕の根本に、わたしの腕くらいの太さの木材が突き刺さっていた。


「そんな……ここまで逃げて来たのに……」


 わたしは一歩も動けなかった。黑乃さんも同じようで、わたしに身を寄せるだけだ。


 クマが四つん這いになって駆け寄ってくる。前足は右しか使っていないのに、車のような早さだった。一瞬にしてわたしたちの目の前まできて――


 ガラスが100枚一気に割れたような音が響く。クマの巨体は白い影に突き飛ばされ、視界の右へと消えていった。


 巻き戻しのようにわたしたちの目の前に戻ってきた白い影の正体は軽トラックだった。フロントガラスが割れて真っ白になっている。きっと正面からみたら、無事な部分の方が少ないだろう。


「まったく。なんでこんなことになってんのさ」


 運転席にピンク色の髪が見えて、こらえていた涙が一気に噴き出した。


「し、詩歌しかぁ……怖かったよぉ」


「おぉよしよし。とりあえず乗んなよ。ここから離れないとね」


 詩歌に促され、軽トラックに駆け寄る。いつ目が覚めたのか、サクちゃんがわたしの頭を撫でてくれた。それで少し落ち着いたのか、当然の疑問がやっと浮かんでくる。


「え? 詩歌? なんでここに?」


 詩歌は苦笑いを浮かべるだけだった。

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村無子と、神残しと、一月一日に殺されるわたし もさく ごろう @namisen

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