後悔6 Kurakami Kyoko
私のことなんか、ほんの少しも知らないくせに。
▼
一体誰が本当の自分に気付いてくれるだろうか。
「今朝は本当に冷えますね」
「はい、そうですね……」
「世界がいつもより静かで、とても澄んだ匂いがします。雪でも積もりましたか?」
「……はい」
「どうして分かるのかとお思いでしょう」
「いえ、そのようなことは……」
彼女はとても感受性の強い人だった。全身で世界を見ている人だった。
対して自分は、そこに全てが見えていても何も感じなかった。ただこの"自分"という物にどのようにしたら上手く成り済ませるか、目の前のこの人を騙せるか、そのことだけに神経を傾けすり減らし、毎日を生きた。この嘘がばれた日には命が終わることを理解していたから、騙されているこの人が可哀相だなんて感情は一切なかった。
「今日は月がとてもきれいですね」
「はい、本当に」
「瞼の裏にも射し込むような明かりですから」
「はい。手の届きそうな、大きな月です」
彼女は小さく溜息を吐いた。
もしも彼女が退屈してしまったならば、いつ用無しだといわれるか分からない身だった。だからいつからか、自分にない感情を懸命に作り上げることが日課になった。気の利いた返答はごく稀にしかできなかったけど「はい」以外の言葉を返すようになった自分に、彼女はとても優しく微笑んだ。
彼女ならばここでこう考えるだろう。この例えを用いれば美しく言葉が響くだろう。そう考えれば考えるほど悩んでしまって、口を開くまでとても時間がかかってしまう事もあった。それでも構わないと彼女は言った。
本当は感じてもいない事をさも感動したかのように口にするのは難しかったけれど。朝起きて、彼女の住む部屋へいくまでに見たものについてあれこれと考える。
色はどうか、匂いはどうだったか、昨夜の寒さはどんな風に身に凍みたか。ただ一人に見せるために作り上げた人間の感情を考えるうちに、口にする感情全て、まるで自分が感じたかのような錯覚をすることが多くなった。
「今日は……空がとても高いので、自分がとても小さく思えました」
自然と言葉が溢れてくる。
「自分なんか、いなくても困ることはないのだろうと感じてしまいました」
「そんなことないでしょうに。いなくても良い人間なんて、この世には一人も存在しませんよ」
彼女は穏やかな笑みを浮かべて言う。
嘘だ、と思った。
この世界のこと何一つ、ほんの少しだって知らないくせに。目にしたこともないくせに。
偽物を前に置かれて、騙されている哀れな人間だと気付いてもいない。可哀相な人だと思う。そう思い続けることで、日増しに強くなっていく罪悪感から逃げようとしていた。
「響子はとても美しい髪をしているのですね」
「そう……でしょうか。自分はごく普通だと思いますが……」
「私には見えないけれど、きっと青空よりは夜空に鮮やかに映えるのでしょうね」
彼女の指先が、髪に触れる。こんな些細なことで胸が震えるようになったのはいつからだったか。
毎日を一人部屋で過ごして年月を重ねてゆく彼女の退屈しのぎ。それが自分に与えられた仕事だった。彼女には、自分が必要だった。
でも薄々気付いていた。自分には、彼女が必要だということ。彼女と話している時だけは、自分がとても素晴らしい人間のように思えた。些細なことでも心打たれ、柔らかな言葉で表すことのできる人間らしい人間。
でもどれだけ感情を偽ることが得意になっても、自分から笑うことは出来なかった。だから、彼女が笑うと自分も笑うことにしていた。
いつからだろう。私は自分も合わせて笑うどころか、彼女の笑顔を目にすると息もできない。上手になったはずの演技が、またどんどん下手になっていく。自分の存在がただの暇つぶしに過ぎないことが悲しくなった。彼女が自分という暇つぶしに飽きないことを祈るようになった。いつか来るその日がせめてできるだけ先になるよう、努力は惜しまなかった。
「響子、あなたはずっと、誰かに優しくして欲しかったんでしょう……?」
要らない。要らないよ、そんな言葉。
「どうか放っておいてください」
拒絶しながらも涙を止めることができなかった自分に、我慢しなくてもいいんですよ、と彼女は言った。
「響子はずっと、心から笑ってなかったでしょう」
何一つ、ほんの少しも知らないくせに、なんて。そんなことなかった。
たくさんの感情を覚えると同時に、たくさんの言葉も覚えた。あらゆる言い回しで、この世界を表現する。それは彼女が教えてくれたことだった。その時、自分が発した言葉はあまりに素っ気ないものだった。
「今ならもう、死んでもいい」
自分の吐いた台詞が外へ漏れ、いつ罰せられるか分からない。口にできるのはこれだけだ。その言葉が、”俺”の全てだった。
彼女が教えてくれた。彼女になら、伝わると思った。
「私もです」
彼女は、とても穏やかに微笑んだ。
▼
「響子はさ」
「んー?」
建物の屋上に立ってオレンジの夕日が沈んでいくのをじっと眺めていたら、不意に背後から声がした。別に驚くことなくそれに応えて振り返る。
「僕の気持ちが分かる?」
タンクの上に腰掛けて足をブラブラさせる栞。いつも突然姿を現しては、またしばらくいなくなる。
「……分からないな」
素直にそう答えた。
「だろうね」
「何が言いたい?」
「別に。ただ、僕はどんどんおかしくなってるって自覚はあるからさ」
何でもない、という風な軽やかな口調で栞は続ける。
「でもこんなにおかしいのはまだ、僕だけだ。だから響子と僕は思うことが違うのかなあって」
「……」
「だって僕にも響子の気持ちなんて分からないし」
沈みかけの夕日の光が、これで最後と言わんばかりに栞まで光を伸ばす。その色に包みこまれた栞は笑みを浮かべていた。
「でもね……」
栞が首を傾げ、その黒髪がさらりと揺れる。
「僕も、響子も、苦しいんだ」
「……」
「僕には響子の気持ちは分からないし、それは響子も、他の皆も同じだけど……苦しんでいることだけは一緒だよね」
そう、どうにもならないことの前で。
「僕らはみんな、後悔してる」
夕日が沈みきるのとほぼ同時に、栞が呟いた。
「明日なんてちっとも楽しみじゃないのに、こうしてまた夜が来て、朝が来て、僕らをずっと苦しめるんだ」
そうだな、とだけ答えて俯いた。
無理して笑うのはやめた。やめた、というよりは自分一人では笑うことすらできないのだと知った。
▼
幾度の夜を越えてもまだ繰り返すこの日々に抗えず苦しんだとしても、足掻いていることを選んだからもう戻れないと思う。
それでもよかった。それが、ここに在る証だった。
僕らの後悔は何れ 日比 樹 @hibikitsuki
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます