後悔5 Yutani Kimitoshi
俺はいつだって、大切なものを見失ってばかりだ。
▼
「苦しかっただろう? 怖かっただろう? 辛かったよな、痛かったよな……よく頑張ったな。ごめんな、一人にして。すぐに助けてやれなくて、本当にごめんな……」
冷たくなったその体をそっと抱え上げる。こちらを見つめ返すその瞳はまだ光を宿していた。ほんのりと赤く染まった頬に、ほっと息をはく。
「……」
「……」
「……」
よかった、本当に。
「俺の大事なノノちゃん……」
ガバッその小さな体を抱きしめる。俺とノノちゃんが涙涙の再開を果たしたのとほぼ同時に、はあ、と大きな溜息を吐く奴が一人。俺はそっちを振り向きはせずに言葉を落とす。
「……何か不満でもあるのか、葉月」
「ええ~? なんで俺!?」
「お前くらいしかいないだろう」
人の喜びに水を注す奴は、と言ったら「うわぁーん!」と柄にもなく泣きまねをする葉月。非常に不愉快。
「酷いよっ!
「すごく軽薄ですごく嫌な奴だが。何か間違いでも?」
「全部間違ってるよ! 俺ほど心が綺麗で性格の良い男はいないよ!?」
「フン、笑わせるな」
話しているだけ時間の無駄だ。
「本当に俺じゃないのに……」
そんなことは言われなくても俺は分かっている。
溜息をついたのは葉月ではなく、その後ろに座っている栞で。栞は今、楽しそうに笑っているということ。人の幸せが一番嫌いなのは栞だということ。きっと栞の胸の内にはこの瞬間、妬ましさとか苛立ちとかがごちゃごちゃと湧き上がって、でも同時にそれを抑えたいとも思っていて、結局笑うしかないんだろうな、と。
美しい笑顔のその裏が、どれだけ恐しいかを俺は知っている。でも仮にも俺達は同志なのだから、俺に手を出そうとはしないだろう。いくら栞でも。そう願いたい。だが代わりに矛先はここへ向く。
「
思った通り、栞が声をあげた。
「断る」
「ヤダ、断る」
「俺も断る」
「じゃあ僕はもっと断る」
「俺のほうが更に断る」
栞の顔に苛立ちの色が滲んだ。
「……いいから、早くそいつを渡せよ!」
「断る」
ギリ、と栞が歯を鳴らす。その瞳はもはや人の持つそれではなくなっていた。
「ちょっと、二人とも幼稚な争いはやめなよ」
平行線のやり取りを止めたのは、いつの間にかショックから立ち直ったらしい葉月だった。
「栞、人形なんて要らないくせになんでそんなに欲しがるのさ」
「
「ああ、そう……」
そして葉月の目線は俺の手の中に在る物へと移る。
「
「勿論だ。そしてナナじゃなくてノノだ。間違えるな」
「まあナナでもノノでもいいんだけどさ。俺の知り合いにナナちゃんいるよ? 紹介しよっか? 可愛いよ」
「いらん。俺のノノちゃんは世界で一番可愛いんだ」
「でもそれ……人形だよね?」
「ノノちゃんは人形じゃない。俺の大事な妹だ」
抱きしめる腕に力を込める。
「いや、それどう見ても人形だよ」
「お前の目にはそう見えるだけだ。心が汚れているからな」
「ちょっと~、なんでまたそうやって酷いこと言うのさ!? そんなに俺が嫌い!?」
「好きではないな」
嫌いでもないけれど。葉月と俺とでは空気感も話も合わないことだけは確かだ。葉月には構わず、俺は小さなファイルブックを取り出してページをめくる。
「……俺は別に由谷の趣味に文句言うつもりはないんだけどさぁ。人形抱きしめるのはやめない? ミスマッチすぎて正直気持ち悪いよ」
葉月は心底呆れたような目線を俺に寄こした。
「放っておいてくれ」
誰に理解されようとも思っていない。ただ俺が大切にしているから、手放すなんてことは有り得ないだけだ。
自分かノノちゃんか選べといわれたら俺は迷わずノノちゃんを選ぶ。俺は死んでもいいから、ノノちゃんだけは誰にも触れさせない。
「
「お前には関係のないことだ」
「いや、そりゃ俺もなるべく気にしないようにしたいんだけどさ」
カシャッと軽い音がして、葉月のスマホが光る。
「さすがにねぇ、絵面がヤバいっていうか」
「今撮ったものを即刻削除しろ」
「今の
「……お前ごと、ここから削除してもいいんだぞ」
「うん。まじごめん。消す、消します」
ギロリと葉月を睨みつけて、俺は手元の本へと意識を戻す。
「ていうか、
そう言って寄って来たのは
「なんか……ごめんな
「何に対しての謝罪か理解に苦しむんだが」
「いや、なんつうか……勝手に本覗いたりして」
「なになに!
「うっせ葉月。お前が絡んでくるとややこしくなんだよ黙ってろよ」
「
「葉月……お前はもう十分狂ってるから安心しろ」
「だから酷いって! それより
「ちょっと待った! やめろ葉月!
「……」
「……
「……あ」
呆れて言葉も出なかった。俺は無言のまま本を閉じて立ち上がる。バツの悪そうな顔をした英の傍を素通りして、その場を後にした。
▼
誰もいない公園のブランコにそっと腰掛ける。
少し窮屈なのは仕方がないことだと思う。ノノちゃんが喜んでくれるなら、俺はそれでいい。背負っていたノノちゃんを膝の上に抱いて、地面を軽く蹴った。
俺が玄関を開ければいつも「お兄ちゃん!」と飛びついてくるから、その体を抱き上げる。「今日はバイト先のコンビニでプリンを買ってきたんだ」と言えば「お兄ちゃん大好き!」と満面の笑みを咲かせてぎゅっとしがみついてきたものだ。どれだけ疲れていたって、その笑顔さえあれば俺は何だって耐えることができた。
今膝の上に在るのは記憶の中よりも多少軽いその重み。確かにここに存在するのに、冷え切った冬の空気に比例しているように温かみのない手をぎゅっと握った。
「……楽しい?
ギィッと鎖が軋む音と共に、聞きなれた声に問いかけられる。いつのまにか隣には、立ったままブランコに揺られる響子がいた。
「立ちこぎは邪道だ」
「立ちこぎこそブランコの醍醐味だよ」
「子供が真似すると危ないとは思わないのか」
俺ならば絶対にノノちゃんに危険なことはさせない。こういう奴がいるから、子供が危険なことを覚えるんだ。
「可哀相、
響子にだけは言われたくないと思って、俺は鼻で笑った。
『お兄ちゃん、今日は何時に帰ってくるの?』
なるべく早く帰るよ。そう言って頭を撫でる。
『お兄ちゃん、遅いから迎えにいってあげるね!』
バイト終わりに、一件の留守電を聞いた。
「自業自得なんだろうな……」
あの時その体を抱き上げた。いつもとは違うと一目瞭然だったのに離せなかった。今でも。
「
「……」
「
そんなこと、知らない。ただ俺は決めただけだ。
「何があっても、もう二度と、片時も離れはしない」
ふぅんと呟いて響子はその身を宙に投げ出した。数メートル先の仕切りの棒の向こう側へ着地して、俺を見据えて笑った。
「子守って大変なんだね」
「ああ……」
響子には一生分からない感情だろうけれど。
▼
過ぎた日々を、今でも想う。時折痛いほどに流れ込んでくる感情も記憶に全て焼き付けることが戒めで。その痛みと引き換えに、絶えず愛しい姿を思い出す。
「プリンでも買って帰るか」
ああ、でもそういえば。この前買ったプリンもその前のプリンもまだ食べてないままだった。
「でもまあ、いくらあっても多すぎることはないか」
ノノちゃんが大好きなプリンだから、いずれ喜んで食べてくれる。その笑顔を見て、俺もまた笑えるんだろう。
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