第14話 大丈夫だよ、お母さん
それから風の噂で、あの花山くんが警察に話を聞かれたことが分かった。あれだけ教室を破壊して、人に怪我までさせたのだから器物損壊に傷害だ。当たり前というか、そうなるだろうなという結末だった。自分から警察に行ったのか、それとも大人たちが実力を見せつけたのかは、分からなかったけれど。
志村大軍先生は私の大怪我を見るとひどくびっくりしていたが、しかし私の目を見るや「変わったね」と優しく微笑んでくれた。私はそれが嬉しくて、ついハッキリと「はい!」と返事をしてしまった。大きな声を出すと体が軋むのに。
「上善は水の如し!」
私は先生に告げた。
「何となく、分かった気がします!」
しかし先生は意地悪く笑った。
「本当に? いつか死ぬその日まで練習をしないと分からない真理だよ?」
ならば、と私は答えた。
「死ぬまでひたすら、練習します」
先生は今度は眩しく笑った。
「痛むところは無理に動かさなくていいから、八門五歩からやってみようか」
練習を始めた。私は先生の後ろについて体を動かした。
*
話は戻って。
体中大怪我をした私は鈴東さんたちに連れられ学校の保健室に行き手当てを受けた。それでも傷は隠しようがなくて、家に帰ると母親からあれこれ質問攻めにあった。前以て保健室の先生がうちに電話してくれてはいたみたいだけれど、実際の怪我を前にするとお母さんも慌てふためくというか、びっくりしたらしい。
「許しません」
お母さんが険しい顔をした。
「その相手の子も、学校の不良も、あなたに太極拳を教えたとかいう人も……」
「やめて、お母さん」
「やめません! 舞にこんなひどいことをされたのに黙ってなんか……」
「でもお母さん。私が選んだことだから」
私ははっきりとお母さんの目を見た。こんなに真っ直ぐ母を見つめたのは、いったいいつぶりだろうと思いながら。
「大丈夫だよ、お母さん。私は大丈夫。今まで心配かけてごめん。でも私、変われた気がするんだ。太極拳のおかげだよ。そしてそれは鈴東さんたちのおかげで理解できたことでもある。今日の喧嘩で、私色々なことに気づけたんだよ。今夜お母さんと、その話をしたい」
話をしたい、なんて私が言ったのが初めてだったからだろう。
お母さんはちょっとびっくりしたような顔になった。が、やがて何かを飲み込むような顔になると「学校には苦情を入れます」とつぶやいて私のことを抱きしめた。私も何だか嬉しくて、お母さんのことを抱きしめた。
しばらくそのままでいると、不意に、お母さんが震えているな、と思った。そっと目をやると、私の耳元で、お母さんが泣いていた。私はびっくりして、でも何だか嬉しくて、お母さんの背中を撫でた。
「大丈夫、大丈夫だよ、お母さん」
お父さんへの説明はお母さんがしてくれた。お父さんもやっぱり困った顔をして「大丈夫か。骨や神経が痛んだりしていないか。冷やせよ。傷を引っかくなよ」とあれこれ口を出してきた。私はお父さんにも「大丈夫だよ」と言って、それからお母さんにしたのと同じように「話をしたい」と告げた。お父さんもやっぱりびっくりしたような顔をしていたが、でも、「舞のタイミングで、好きな時に話しにおいで」と言ってくれた。
その日の夜遅く、私はまとまり切らない話をした。太極拳で得た気づき、変化、成長、色々話した。例えば体の使い方。例えばものの考え方。例えば人との接し方。例えば危機への対応の仕方。
意外にもお母さんがあれこれ質問してきた。こんなに知識欲のある人だなんて初めて知った。私はその質問のひとつひとつに丁寧に答えた。
お父さんは静かに話を聞いてくれた。そして時折嬉しそうな顔をした。包容力のある人だなと思った。もしかしたら、お母さんはそこが好きになったのかも、とも思った。
「太極拳、続けるのかい」
話の終わり、お父さんに訊かれた。私は答えた。
「うん。一生かけて、学んでみたい」
「一生か」父は笑った。
「まぁ、ある技術を習得しようと思ったら、本来それくらい時間がかかるものなのかもな」
父は部屋まで送ってくれた。
「舞、変わったな」
部屋と廊下の境目で、父が笑った。
「いい目をしてる」
「ありがとう」
「大軍先生によろしくな」
「うん」
その日はいつになくぐっすり眠れた。
翌朝目を覚ますと、体のあちこちが痛くて、ちょっとげんなりしてしまったが、でも学校があった。私は空元気でも元気よく、学校に行くことにした。
*
さすがに大怪我をして学校に行くとあれこれ訊かれた。人の口に戸は建てられぬというか、やっぱり学校中が私とあの事件のことを知っていて、廊下を通るたびに色々なところからひそひそ話が聞こえてきた。けれど私は取り合わないことにした。中には直接訊いてくる子もいたが、私は笑顔で「大変だったよ」とだけ答えた。しかしあまりに野次馬がうるさいと鈴東さんたちが追い払ってくれた。その好意は嬉しかったけれど、私には大きな心配事があった。あんずが学校に来ていなかった。
それはブラックホールみたいに真っ暗な気持ちだった。あんずに何かあったらどうしよう。あんずが大変な目に遭っていたらどうしよう。連絡はずっと送っていたが、しかし返事がなかった。あんまりたくさんメッセージを送りつけても、と思い、二通程度心配している旨伝えたが、後は待つことにした。
果たして昼休み。
あんずから連絡が来た。「これから学校に向かう」と。
「ごめん」
教室で、私の近くに来たあんずは開口一番謝った。
「検査とか色々あって。返信、遅れちゃったね」
怪我、大丈夫? とあんずは自分のことは放っておいて私の心配をしてきた。馬鹿。私なんて大丈夫。あんずの方が命に関わる問題なんだから、と返すとあんずも「舞だって死にそうだよ」と笑った。そんな風に話していると鈴東さんがやってきて舞に詫びた。この間はごめん、と。
偶然にもその日はちょうどテスト期間に入る日だったので、学校も早めに終わって真っ直ぐ帰るよう促された。でも私はちょっとワルな気分になって、鈴東さんに小さく「どっか行きたい。どこがいいかな」と訊ねた。鈴東さんはニヤッと笑った。
「あんずも連れていくかい?」
「できれば」
「バイクじゃあれだね。誰かから自転車借りるか」
顔が広い鈴東さんは、すぐにテスト期間を学校の図書室で過ごす人から自転車を借りてくると、鈴東さんの秘密の場所に行こうと誘ってくれた。
私があんずを連れて校門のところに行くと、鈴東さんが自転車に乗ってきた。
「後ろに乗りなよ」
あんずを荷台に乗せて、自転車が走り出した。
私は鈴東さんがゆっくりと走らせる自転車の横を行った。校門から続く下り坂を、リズムよく足を動かして、ただひたすらに下りていった。
気づけば私は、走っていた。
風が優しく頬を撫でた。
了
上善は水の如し! ~女子高生、太極拳始めました~ 飯田太朗 @taroIda
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