第13話 意図のない動き

「何だそれ」彼が笑った。

「諺か?」

 私は応えなかった。来い。暗にそう言っているつもりだった。


 彼が突進してきた。同時に右手の拳も打ち出していることが分かった。だが視認できたのはそこまでだった。認識する必要もなかった。


 強いて言うなら外黏肘がいねんちゅうの要領だろうか。

 彼の腕に私の腕を巻き付けて、引き込むことでバランスを崩させた。彼は前のめりになると転ぶ寸前のところで踏ん張ってこちらを振り返った。私は静かに彼を見た。


 彼が蹴りを放ってきた。私はそれを足の裏で受け止めた。必然、体ごと弾き飛ばされたのだが、踏ん張ることなくそのまま後ろによろけた。この機を逃すまい、と彼がまた突進してきた。ただ、機があるのは彼だけじゃなかった。


 肘底看捶ちゅうていかんすい。慢架の動きだ。いや、厳密には肘底看捶かどうかさえ分からなかったが、慢架の中で近い形を探すとしたらそれだった。

 右手を底辺、左手を斜辺にして角を作るように。左手の拳は顔の前、右手と左手の他にもう一辺あれば二等辺三角形ができるだろうな、という位置に。重心は後ろ。

 私は右手で花山くんの拳を掴むと、よろけた勢いそのままに重心を後ろに持っていった。そして左手の拳を花山くんの顎の前で構えた。拳が顎にぶつかって、硬い、歯の鳴る音がした。花山くんが数歩下がった。


 彼の目に怒りが宿ったのを感じた。唸り声を上げて腕を振り回してくるのが見えた。私はまた後ろに一歩下がった。右手で彼の拳を押さえながら、左手で彼の顔を覆った。彼はこちらに突き進んでいたから顔を覆うだけで鼻を潰すのには十分だった。この技は何だっけ……と考えて、ようやく思い至った。倒撵猴とうでんこうだ。


 でも、まぁ。

 どうでもいいんだ。形なんて。


 ハッキリ言って、どこもかしこもボロボロの私には、彼の動きを察知してそれに当てはまる技を出すなんていう余裕はなかった。頭はガンガンするし口中出血している私に状況の判断なんていうのは土台無理な話なのだ。でも、見ていることはできた。私は彼の動きをしっかり見ていた。彼がどのように拳を打ち出すか、どんな蹴りをするか、どんな行動を、どんな表情をするか、私はずっと見ていた。そしてそれに合わせて私は変化した。


 拳をかわして彼の耳を打った。

 蹴りを避けて脇腹に肘打ちを当てた。

 突進を受け流して足をかけた。


 そうして何回目かの攻撃を回避した後、たまたま彼の側面に立てた私は、彼の背中にそっと、優しく後押しするように手を添えて、前へやった。勢いがついていた彼はそのまま前につんのめって倒れ込んでしまった。地に伏した彼は信じられない、というような顔をしてこちらを振り返った。それから手に着いた砂利を払って起き上がると、彼は訊いてきた。


「何をした」

 私は答えた。

「何もしてない」

「何かしただろ」

「何もしてない」


 ふざけんなよ。

 そうつぶやいて、彼がこちらの様子を窺い始めた。間合いを取って様子を見ている。そこで私の頭にまた、先生の声が響いた。それはとても鮮明な言葉だった。


 ――殺気を失くして。

 殺気? 私は訊き返した。そんな物騒な。しかし頭の中の先生が笑った。あれ、このやりとり、どこかで……。


 ――意図をなくして。

 そうだ、そうだ。

 こうしてやろうとか、こんな技をかけてやろうとか、そんな気持ちをなくして……。


 体が自然と動いていた。それはそう、例えば小さい頃、家族と並んで歩く時のような、そして例えば、誰か友達と一緒に歩く時のような、そんな動きだった。柔らかく、そして軽い。


 気づけば彼の顔に触れられる位置まで近づいていた。彼の目がぎょっとして私の手を見た。だがその頃にはもう遅かった。私は彼の顔に触れた。彼が仰け反って、そのまま後ろに大きくよろけた。特に何かをしたわけではなかったのだが、彼の中では何かが起きたみたいだった。

 彼はよろけた拍子に自分の足に躓いてそのまま尻餅をついた。それがひどく滑稽で、私はちょっと笑ってしまった。


 彼は慌てて立ち上がった。それからこちらのことを、信じられないくらい険しい形相で見ながらつぶやいた。


「何だよお前」

「何でもないよ」

「何者だ、お前」

「何者でもない」

「そんなわけないだろ。何なんだよお前」

「強いて言うなら、私はあなた」

 これまでのやりとりの中から……言葉のやりとりはもちろん、戦いのやりとりの中からも気づけたことを、私は話す。


「心も体も不安定で、一人でいるのが精いっぱいで。私とあなたは似通っている」

 私は続けた。

「不安定だと落ち着かないよね。一人っきりだとイライラするよね。がっかりするよね。悲しいよね。でも大丈夫。踏ん張らないで、あるがままでいて」


 彼は悔しそうな顔をしていた。が、まるで花びらがはらはら散っていくかのように表情の色が落ちていくと、何だかほっとしたように笑った。

 それから彼はしばらく呆然と私のことを見ていたが、やがて何か思いついたかのようにポケットに手を突っ込むと、いきなりスマホを取り出した。彼はそれを一瞥して、今度は何だか悲しそうに笑うと、そのまま水きりの要領で、鋭くそれを川に放った。薄い金属の板は間抜けな音を立てて、水の中に飛び込んでいった。


「お前ら」

 花山くんが、遠巻きにいた女の子たちに告げた。

「約束通りだ」

 彼は両手をポケットに手を入れた。私が触れた彼の頬は、ほんのり染まって腫れていた。そして彼も、私のように口を切っていた。彼も痛かったんだ、と私は思った。

「今まで悪かったな」


 そう告げて彼が帰っていった。悲しそうな、寂しそうな背中を見せて、そのまま河川敷の階段を上っていなくなってしまった。どこに行くのか、行く先に誰かいるのか、気になることは色々あったが黙っていた。背中はすぐに見えなくなった。

 彼がいなくなってからしばらくして、私の元に女の子たちが駆け寄ってきた。ごめん、大丈夫、平気? 遠慮がちに、あるいは心配そうに、色々なことが言われる。しかしその中に。


「ごめん。私、見てることしかできなかった」

 唇を噛みしめる鈴東さんがいた。私はそっと彼女に近寄った。それから何とか言葉を紡いだ。

「大丈夫。怖かったでしょ」

 すると彼女は俯いた。どうやら泣いているようだった。それには触れない方がよさそうだと私は思った。静かに目を伏せた。

「ごめん……ごめん……」

 彼女に同意するかのように、周りにいた女の子たちも静かに泣き始めた。私は彼女たちを慰める意味も込めて、真っ直ぐ立った。どこもかしこも傷だらけで、二足で立つのもやっとだったが、立っていることが誠意だと思った。

 気づけば日が暮れそうだった。

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