第12話 上善は水の如し
「感心するよ」
彼はよくしゃべった。私が逃げずに前に進んだから、だろう。
「ここまでの時点で何人か自由にしてやってもいい気はするなぁ?」
私は黙って進み続けた。そうして彼と触れ合えるくらい近くに来た時。また彼が口を開いた。
「よく見りゃかわいいじゃんよ」
彼のおぞましい言葉にも、私は反応しないようにした。
「楽しみだなぁ」
拳が飛んできたのは直後のことだった。
左側から強烈な、大砲の弾みたいなパンチが飛んできた。私は咄嗟に身を引いてそれをかわし、今度は右側から飛んできたパンチに対応した。真っ直ぐ伸びてきた腕を
彼は私に取られたその腕を扇のように広げて振り払った。私は為すすべなく後ろによろけた。その隙を見逃さなかった。彼は体を捻って私の鳩尾を殴った。
いきなり肺を潰されて、私は呼吸が止まってしまった。げほげほと咳き込む。だが彼はやめてくれなかった。
続けざまに拳が飛んできた。どっちから飛んできたかなんてことを判別する余裕もないくらいの短い間隔で飛んできた。咄嗟に掌で防ごうとしたが、掌ごと殴り抜かれた。私は情けない声を上げて今度こそ地面に倒れ込んだ。そして私を襲ってきたのは蹴りの嵐だった。
何度も蹴られた。お腹を蹴られ、肩を踏まれ、顔を踏まれ、お腹を蹴られ、肩を踏まれ、顔を踏まれ……遠いどこかから悲鳴が聞こえた。それが鈴東さんの声だと気づいたのは少ししてからだった。
蹴りが止まった。頭上から声がした。
「終わりかよ」
心底がっかりしたような声だった。
「これで終わりか? あ?」
おい見ろよ。彼は叫んだ。
「お前ら女なんてのはこの程度なんだよ! 下等生物なんだ。黙って男の言うこと聞いてりゃいいんだ」
視界が霞んでいた。全身が痛い。口の中は錆の味だし血を吐いてもおかしくないくらいお腹が痛い。肩も外れたんじゃないかというくらい痛い。意識を保っているので精いっぱいだ。だが私は歯を食いしばって拳を持ち上げた。まだできる。まだやれる。そんな意思表示のつもりだった。
この程度じゃない。下等生物じゃない。黙って言うことなんか聞かない。
すると私の意思表示を見つけた花山くんが、にやりと笑って「来いよ」とつぶやいた。私は痛む体を何とか奮い立たせると立ち上がった。どこかから、「もういいよ」「やめなよ」という声がした。だがやめるわけにはいかなかった。
彼が仕掛けてきた。私も咄嗟に前に出る。彼が真っ直ぐ拳を放ってくることは分かっていた。何でかは分からないけど、分かっていた。だから動いた。
「へえ」
げほっ、と彼は咳払いした。
「やるじゃん」
彼がまた突進してきた。右の拳を打ち出してくる。私は、
がちん、と歯がぶつかる音がして、彼がよろけた。脳が揺れたのだろうか、一瞬焦点が定まらない目をしたが、しかしすぐににたりと笑った。彼はしゃべった。
「面白いよ」
嬉しそうだった。
「こんな面白い女は初めてだ。ますます俺のものにしたいなぁ」
そして私たちは、じりじりと間合いを取り合った。私はひたすら待った。いつでも動けるように、体の方は軽くしておいて、そして彼がこちらに来るのを、じっと待った。痺れを切らしたのはやはり彼だった。
左手で掴みかかってきた。押さえ込んで一方的に殴りつけてやるつもりだとすぐ判断できた。この手に私を使わせちゃ駄目だ。そう思って、動いた。
「……まぁ、そうだ。そうだよ。その通りだよ」
花山くんがぶつぶつとつぶやいた。
「男が筋肉を鍛えても守れない場所ってあるよな。顎もそうだし、喉、目、鼻、金的、まぁその辺は攻められたら困るだろうさ。俺もそこを狙って攻撃することはある。喧嘩だしな。ルール無用だ」
お前いいセンスしてるよ。花山くんがふらりと揺れた。そして次の瞬間、私の顎が大きく鳴った。
殴られたのだという自覚はかなり遅れてから来た。私は仰け反って倒れて、後頭部からコンクリートの地面に着地した。視界が明滅して耳鳴りがした。それからしばらく私は地面でのたくっていた。遠いどこかから、彼の声がしている気がした。
「いいか。弱点を攻撃する時は容赦なくするんだ」
今みたいにな。
彼が近づいてくるのが分かった。しかし私はもう、起き上がれなかった。
視界が揺れている。アイスピックで貫かれたみたいな痛みが頭を突きぬいている。吐き気がして、私は何とかそれを飲み込んだ。立ち上がろうとした私の手を彼の足が踏みにじった。
「ほら」
蹴りの一撃。
「ほら」
もう一撃。
「ほら」
さらに一撃。
「みっともねぇ」
またも地面に倒れ込んだ私に、吐き捨てるかのような言葉だった。
「裸に剝いて土下座でもさせるか」
「もうやめてよ!」
足音がして、何かが花山くんに抱き縋った。鈴東さんだと声で分かった。
「もうやめてあげて! 死んじゃうよ!」
「ああ、それは困るなぁ……」
彼の声が残酷に響いた。
「こんな面白い女、殺すのは勿体ねぇ。でもなぁ、俺もここまでされて黙ってはいらんねーから」
ばちん、と水面を叩くような音がした。鈴東さんがよろけて倒れた。
「お前、殴らせろ」
「……やめろ」
ようやく私はそれだけのことを吐いた。血反吐の代わりに言葉を吐いた。
「やめろ。殴りたかったら私を殴れ」
私は地面に手をついて体を起こした。全身が痛くて、頭ががんがん鳴って、背中を丸めながら、でも震える足を、何とか地面に立てた。ゆっくり起き上がる。体を伸ばす。
彼の目が、私を見下ろすのが分かった。それから鈴東さんを「土下座の準備してろ」と押し飛ばした。
どうしよう。どうしたらいいんだろう。
私は思った。
立ち上がりはしたけれど、もう打つ手がないや。太極拳の技はいくつか効いたけど決定打にはならなかった。多分これ以上続けても同じだ。圧倒的な彼の力の前に、私の技術は無力だろう。でも続けなきゃ。……どうやって? 色々なことを考えた。だがどの考えも無駄だと分かった。そう思った時、また頭の中が透明になった気がした。そして耳に、聞こえてきた。
――全身の骨格を自由に。
先生の声だった。
慢架のことを思い出した。腰を落とす時、前に足を出す時、しゃがみ込む時、いやもっと言えば、手の動き、体の捻り、脚の曲げ伸ばし、それぞれの動きの中にヒントがあった。ヒントがあることに今気づいた。私は一歩前に出た。
股関節の辺りで、ぎっと歯車が軋むような感覚があって、私の考えは間違っていなかったんだとどこかで悟った。もう一歩、今度は慢架の時みたいによたよたと前に出してみた。また歯車のような感覚があったが、今度はさっきより小さい気がした。もう一歩。今度は軋む感覚がなかった。そして何だか、よく滑る油を指したような感覚になった。
痛みが引いている気がした。目を瞑っても見えている気がした。呼吸をした。ただの呼吸だった。
形は、どうでもいいんだ。
私はもう一歩前に出ると、両手をすっと前に出して、構えた。
歪んでいた視界がハッキリしてきた気がした。目線の先に、彼がいた。にやりと笑う彼が。
何かを言わなきゃと思った。それは義務感ではなかったが、運命のような気がした。口が動いた。頭にあったのは先生の言葉だった。
――上善如水――
「……上善は水の如し」
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