第11話 俺に勝てたら……

 拳が飛んでくる、と思ったのと、体が動いたのはほぼ同時だった。

 振り向きざまにやった中平肘ちゅうへいちゅうは、ひどく不細工だったけれど、攻撃をいなすのには十分だった。相手の肩の付け根に当たった私の肘は、見事に殴りかかってきた女の子を弾き飛ばした。よろけた彼女は地面に手をついた。


「おいっ」

 鈴東さんが叫んだ。だが彼女がこちらに加勢するのより先に。

 その場にいた半数の女の子が鈴東さんを押さえにかかった。多勢に無勢でなすすべなく組み敷かれる鈴東さんを見て、私は助けに行こうとしたのだが、しかし左前方から殴りかかってきた女の子が進路を阻んだ。拳。顔面。飛んでくる。

 咄嗟に拳をつかんで立肘りっちゅうで関節を取る。そのまま体幹を捻ると女の子は悲鳴を上げて倒れていった。ちょっとかわいそうだったけど、彼女には胴体から地面に着地してもらった。


 一筋縄ではいかない、と判断したのか、他の女の子たちがじりじり距離をとりだした。横目で鈴東さんを見る。彼女なりに暴れてはいるけどやっぱり多数相手じゃ無理だ。自分の身は自分で守らなきゃ。


 私はゆっくり動いて私を囲む女の子たちと一定の距離をとった。こっちも一度に襲い掛かられたらなすすべはない。確実に処理するには……一人一人こっちに来てもらうしかない。


 私の正面に伸びる直線状に、最低でも二人。

 一直線上に並べるようにして動けば前方の味方が邪魔して後方の子が前に出てこれなくなる。常に動いて距離をとった。しばらくそんな、フットワークゲームを続けていると痺れを切らす子が現れてきた。

 怒声と共に殴り掛かってくる。一人ならさばける。そう思った時だった。


 ――頭を空っぽにして。


 先生の声が頭に響いた。えっ、と心で答えそうになった時には、飛んできた拳をさばき切れずに、片手で防御はしたものの殴られてしまった。後退る。すると一気に。


 まとめて三人かかってきた。咄嗟に判断する。左側の子から右手に行くほど間合いが遠い。なら……。


 穿手靠せんしゅこう……! こうには体当たりのニュアンスがある。私は右手を大きく左下に差し込むと、ハサミを開く要領で両手を広げ、その勢いで自分の肩と背中を、左側から襲い掛かってきた子にぶつけた。私の渾身の体当たりを浴びたその子は大きく倒れ込み、真ん中の子、右側の子、と薙ぎ倒してくれた。私は大きく息を吐きながら辺りを見渡した。警戒する。と、まただった。


 ――意念をなくして。


 無理だよ。常に相手の動きを見て判断しないと……! 

 心に響いてくる先生の声に反論する。するとやっぱり気持ちが乱れてしまって、反応が遅れてしまう。


 いつの間にか起き上がっていた子に右手を掴まれた。即座に摟膝式ろうしつしきで引き込んで転倒させる。だがその子の後に続いて殴り掛かってきた子はさばけなかった。顔に拳が当たる。頬を張ったその一撃は本当に痛かった。視界が、脳が揺れて、ふらついてしまう。

 それでも何とか体勢を立て直すと、やってやる、と心に誓って正面を見た。しかしその時にはもう遅かった。


 鈴東さんを押さえるのにそこまで人数はいらないと判断したのだろう。

 応援が二名、追加されていた。そしてその子たちとさっきまで相手にしていた五人の計七人、それも一直線上にではなく扇形に私を包囲していた。

 ああ、駄目だ……心が絶望の淵に落とされる。数名が私に殴り掛かってきた。と、私の視界に叫んでいる鈴東さんが……そしてその向こうで流れている川が見えた。


 頭が透き通ったのはその時だった。苦しんでいる友達を見て、そして流れる水を見て、私の中で何かが変わった。

 水晶みたいに心が澄み渡って、ただ私は呼吸をしていた。腹式呼吸とか、鼻から大きく吸うような呼吸とか、そんなのじゃなくて、本を読んでいる時のように穏やかな、眠りにつく前のように温かな、自然呼吸だった。


 終わってみれば二人の子が倒れ込んでいた。理解は後から追いついた。私、倒提壺とうていこをした。相手の右肘打ちをとって横にいなして、そのままもう一人の子に肘打ちの子をぶつけたんだ。


 それからは自動だった。考えるまでもなかった。私は特に何もしなかった。でも、それは、そう、例えばオセロである場所を埋めたら自然に別の場所を埋めざるを得なくなるような感じで。

 私は空いているところにただ入り込めばよかった。どこに入ればいいかは本能的に分かった。それは襲い掛かってくる子たちの隙間だったり、あるいは飛んでくる拳や手の間だったり、様々だったが、私はどこにでも入っていくことができた。


 そうして気づいてみると四人の子が地面に倒れて荒い息をしていて、立っている他の子たちも困った顔でこちらの様子を窺っていた。みんな腰が引けている。ああ、もう大丈夫だ、と直感的に悟った。この子たちはもう私を襲えない。無駄だって分かってる。暖簾に腕押し、糠に釘だと、多分もう分かってる。


 私も無傷ではなかった。口の中を切っていたし、殴られた頬はじんじんしていた。掴まれた手首も痛かったし、膝をすりむいていた。

 でも気持ちは穏やかだった。今、私はここにいる子たちを圧倒している。コントロールしている。そんな実感があった。大丈夫。また襲われてもどこに入ればいいかは分かる。そんな自信があった。


「……使えねぇなぁお前ら」

 私の背後。橋脚の段上。

 男の子の低い声がした。その声でようやく私は現実に引き戻されて、彼の方を振り返った。私の視線の先で、彼が段上から飛び降りて、こっちに近づいてきた。


「まぁ、使えない奴らは後で罰ゲームだな」

 私はその一言にかっとなってしまう。

「どうしてそんなひどいことが……」

 しかし彼はにこりと笑った。

「だって俺のことが好きみたいだし。しょうがないじゃん?」

 私は唇を噛んだ。切った場所から滲んでいるのだろう。ちょっとだけ血の味がした。だがその味が、私を元の場所に引き戻してくれた。頭が透き通って、彼にどんな風に接すればいいか、本能的に分かった気がした。


「……弱味を握らないと女の子と向き合えないんだ」

 気づけばそんな言葉が出ていた。それは自分でもびっくりするくらい挑発的な言葉で、普段の私なら絶対に言えないような言葉だったが、しかし目の前の花山くんを刺激するにはちょうどいい言葉のようだった。……彼は表情を変えたのだ。


「へぇ」

 私は心から浮かんでくる言葉をそのまま彼にぶつけてみた。

「友達もいないんでしょ。だからこんなことをしてる。ほとんど人形遊びだよね。小っちゃい子みたい」

 彼は沈黙した。しかし目に怒気が宿っているのは明らかだった。

「なるほど分かった」

 だが彼はすぐに平静を取り戻したような顔になると、ポケットからスマホをひょいと取り出した。それからそれをトランプのカードみたいに振って、こんなことを告げてきた。


「こいつらの弱味は全部ここにある。バックアップなんてものは取っちゃいねぇ。本体に保存しているからこのスマホさえ壊しちまえばこいつらの弱味は綺麗に消えて、自由だ」

 取ってみろよ。彼はそう続けた。

「俺からこれを奪えたらお前の勝ちだ。ここにいるこいつらはもちろんそこの鈴東も、他の奴らもみーんな自由になる。ほら、やってみろ。取りに来いよ。ほら」

 挑発してくる。だが私は安直にそれには乗らない。代わりにゆっくり歩きだした。飛び掛かったり、躍起になったりしたら駄目だ。静かに、透明になった心が澄んだままに。ただ呼吸をして私は彼に近づいた。すると彼は喜んだ。


「今まで何だか流って言う武道をやってた男が来たことはあったよ!」

 私は歩く。

「何ちゃらとかいう格闘技をやってる奴が来たこともあったなぁ! そういう奴らで遊ぶのは楽しかったなぁ!」

 私は静かに呼吸をする。

「でも女で! それも太極拳なんかで俺に向かってきたのはお前が初めてだ! ワクワクするなぁ……お前はどんな風に痛めつけたらいいんだろうなぁ?」


 俺に勝てたらお前の勝ちだよ……。

 そんな、誰が見ても分かる当たり前のことを彼は言った。

 私は彼に向かって歩いていった。

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