前編・4 サウァ

 夕飯を終え、次いで行うキャンプファイヤーの準備は星本さんを中心に行った。薪を放射状に積む〈インディアン型〉というやり方らしく手慣れた様子で薪を置いてゆく。

 炎が焚かれると沈んだ気分もやや高揚した。星本さんがアコースティックギターを持ち、ゆるやかな音楽を奏でる。そのセンチメンタルな旋律に誘導されるように、昔の記憶が蘇った。


 両親が離婚したのは俺が高校にあがって直ぐのことだった。

 俺の高校受験が終わってから離婚しようとタイミングを見計らっていたらしい。なるほど。だから全寮制の男子校を勧めたと。離婚よりも、両親が俺のために我慢し続けていたという事実が俺を打ちのめした。父に同行し引越しを繰り返す程度にべったりと仲がいいと思い込んでいた家族が、急に虚構に変わってしまったようで――虚しかった。

 離婚後も父と俺は定期的に会っていたが、あるとき約束の当日に「もう会えない」と電話を寄越され、以来父親と会うことはなくなった。まあ、何となく察してはいた。父には新しい家族ができたのだ。

 俺は許そうとしたが、母が「再婚するのは勝手だが息子との約束を破るなんてありえない」と激高し、何も言えなくなった。あのとき俺がもう一歩踏み込んでいれば、と思わないでもないが、俺はそうしなかった。父に歩み寄ることは母に対する裏切り行為である気がしたし、俺自身の意地もあった。

 親子関係の終わりが、たったの電話一本。

 なんてあっけない。

 なんて脆い。

 そういう理由で、俺は誰かと深く関わることについてすっかり逃げ腰になってしまった。どうせいつか疎遠になる相手だと思うと、自分を曝け出すことが無駄にも思える。友人同士が喧嘩したり、恋愛や失恋に一喜一憂したり、卒業を悲しんだり、そういうことが自分には関係ない遠い出来事のように感じられた。麻酔を打たれたまま生きている気分で、緩慢な高校生活は過ぎ去った。

 こんな俺に対し、「慧ってクールだよね!」などとのたまう女の目を節穴だと思わずして何と思えば良いのか? 事情を知らないとはいえ。能天気で、こんな不躾な女と、仲良くなれるはずがない。

 その女とは――先輩である。


「そこのクールな君。うちのサークルに顔を出すのは初めてだよね?」

「どうしてうちの大学を選んだの?」

「休みの日は何してるの?」

「誰かと付き合った経験は?」

「肉じゃがは牛肉派? 豚肉派?」

「好きなビールのメーカーは?」


 ……的外れな印象をぶつけてきたあげくに、無遠慮な質問を矢継ぎ早に繰り出してくる先輩に、心の底からむっとしたことを覚えている。


「ねえ克己、ちょっと来て。この子ね、あれ、名前何だっけ。そうそう、西条慧君。同じ一年生だからよろしくしてあげて」

「俺、飯嶋克己。イエ~、慧ゥ~、飲んでる~?」


 絵に描いたような調子に乗った大学生……正直、引いた。


「ええと、克己は見ての通り。慧はこのお調子者から気楽な生き方を学ぶべきだと思うな。うん。そうしなさい。友達になりなさい」

「は?」

「ついでに、あたしとも友達になりなさい」

「友情イエ~!」

「いや、俺は……」

「友情の証に飲もうよ。これ誰のグラスだろ? まあ、いっか。かんぱ~い!」


 半強制的に乾杯させられ、兎にも角にも、先輩の第一印象は最悪だった。図々しいし、押しつけがましいし、だらしないし、他人のことを勝手に決めつけて。なんだこの女。

 その日までの大学生活は気楽だった。飲み会で騒いでいれば自分の心の内を打ち明ける必要もなく、つかず離れずの人間関係を楽しもうと目論んでいた矢先だったのに。

 克己が軽いノリの割に誠実な奴なのはすぐにわかった。素直で、人懐っこくて、打算がない。そんな彼の明るさに惹かれる人間は多かった。この頃の俺には悩み事があり、克己と親しくなれたことは俺の悩みを紛らわせた。飲み会があれば絶対に参加し、朝まで飲む流れにはかならず乗って、なるべく家に居つかないようにしていた。

 家に帰るのは憂鬱だった。

 夕方、授業から帰れば母がリビングで電気も点けずに泣いている。そういうことが何度もあった。母が暗いと家全体が暗く感じたが、息子としてどう接したら正解なのか……わからなかった。

 初めは軽い風邪のような症状だったと思う。微熱が続き、体が重いらしく、家事もままならなくなり。死んだように眠り続けていたと思ったら、夜通し眠れずにリビングの電気が点いていることもあった。

 何かがおかしい?

 そう思っている内に、転がり落ちるように、母は母でなくなっていった。

 うつ、という単語が頭をよぎった。よく聞くが、俺の身近ではない。病院に連れていくべきなのだろうか。心療内科? 精神科? 俺だけでは判断がつかない。父親に連絡してみようか。しかし新生活に水を差すのは申し訳ない気がする。

 違う。迷惑がられるのが怖いのだ。

 だんだん母と俺の生活リズムはすれ違い、同じ家にいても顔を合わせない日々が続いた。


「あれ。慧だけ?」


 一人、サークル棟のデスクでぼーっとしていたところに先輩がひょこっと顔を出した。


「はい。今日は誰もいないです」

「水曜は講義少ないからなあ。この後、暇なら飲みに行かない?」


 先輩と二人で飲んだことはない。あまり気乗りしなかったが、家に直帰することと天秤にかけ、承諾のほうに傾いた。

 安居酒屋で、俺と先輩は取りとめのない話をした。最近テレビに出ている芸人について。好きな犬の種類はどれか。嫌いだった中学の先生の話。子供の頃に流行った懐かしいアニメ。話題はぽんぽん変わり、思いの外、先輩と過ごす時間は心地良かった。

 酔っ払った俺は、知らず知らずのうちに身の上話をはじめていた。


「人間同士って、簡単に疎遠になるじゃないですか。だからあんま親しくしすぎるのも莫迦莫迦しいって感じがするんですよね」

「へえ。慧って案外寂しがり屋なんだね」


 その口調があんまり優しいので腹も立たなかった。そうなのかもしれない。


「じゃあ約束しよっか。あたしとは疎遠にならないって」

「え……。いや、それはどうですかね」


 俺は空笑いをした。


 ――その約束は、怖い。


 破られたとき、大いに傷つく未来の自分の姿が視えるから。


「例え遠く離れてもあたし達は疎遠になんかならない。就職なんかで住む場所が離れ離れになったり、忙しくなって連絡が途切れたりすることだってあるかもしれない。でも数ヶ月、いや数年会わなくたってあたしは慧のことを覚えてるし、会えない間も、どうしてるかな、一緒に飲みたいな、会いたいな、って思い続けてる。それって疎遠になったとは言わないんじゃない?」


 それにさ、と先輩が続ける。


「久々に会ったって、きっと毎日会ってたみたいに喋れるよ、あたし達。だって初めてふたりだけで飲むのに、こんなに楽しいんだもん」

「……なんか、重いですね」

「もう、真面目な話なのに」


 先輩はぷんすか怒りながら、たしか、ハイボールをぐいと一気飲みしたと思う。気恥ずかしくて茶化してしまったが、内心、滅茶苦茶に嬉しかった。

 たぶんそのときから、俺は先輩を好きになり始めていた。



 星本さんの奏でる楽器は、気が付くとギターから打楽器に変わっていた。異国の音楽はキャンファイヤーの雰囲気を盛り上げ、克己達も珍しくしっとりと飲んでいる。


「素敵な音楽ですね」

「西条さん、ありがとうございます。これもカナダの先住民の音楽でして。彼らにとって音楽は大切な文化であり儀式でもある……ええ、ええ……私は一時期彼らの居住地の近くに住んでいましてね。本当にSpirit――精霊が存在してもおかしくない神聖さを感じる土地でした」

「最後の曲が、一番好きでした」

「おやおや、そうですか。今のは先住民の言葉で〈サウァ 〉という弔いの歌です。現地では午後から深夜にかけては弾いても聴いてもいけない決まりになっています」

「なぜです?」

「悪さをする何者かを呼んでしまうのだとか」

「え……」と俺は閉口する。


「じゃあ、今この時間に弾いたのは不味いのでは」


 彼は髭を揺らして笑った。


「大丈夫、大丈夫。何も起こらないことは立証済みです。幾度となく弾いていますから。それに……本当に呼べるのなら、会ってみたくはないですか?」


 星本さんの発言に、戸惑う。


「怖いですよ」

「知った相手なら怖くないでしょう」


 星本さんのつぶらな瞳に、俺は自分の心の内を見透かされている気分になった。

 ――そうだ、今日のように晴れた日だった。母が亡くなったのは。


「ズゥヌゥクワァ」

「へっ?」


 急に妙な言葉を喋り出した星本さんを凝視する。


「カナダ先住民に伝わる精霊――というより妖怪に近い者の名です。トーテムポールに彫られるモチーフでもあります」


 つい昼間の男のように、変な挙動をされたらどうしようかと身構えてしまった。俺は安堵し、「そうなんですね」と溜息混じりに相槌を打つ。


「それは多くの場合に裸で、毛むくじゃらの女の姿で現れると伝えられています。そして、そして……恐ろしいことに子供を攫ってしまう。小児誘拐が専門の妖怪というのは世界のどこにも現れますよねえ」

「子供があちこち行かないよう、知らない人間について行かないよう、教訓的な物語が必要だからでしょうか」

「現実的に考えればそうですね。でも……でも、ですよ」と星本さんは強調する。


「そうではない可能性もある。子供を連れ去るというのは、あちら側にとっては広く一般的な行動なのかもしれない」


 何だかぞっとする発想だ。


「あちら側……ですか」

「誘拐は我々の道義に照らせば、当然、悪行ですが、彼らにとっては悪意を伴わないただの営みに過ぎぬものかもしれません。そうです、そうですとも。私はね、時々考えるのですよ。この世界の科学の法則や倫理的ルールは、あくまで我々が安心して生きるための術であって、人間社会の外側に属する者にとっては何も考慮する必要のない事柄だろうな、と……。ズゥヌゥクワァの民話は、確かに教訓的な意味合いを含みますが、語り手が人間である以上その枠からはみ出せないだけのことでしょう。我々は無知で、無力であることから逃れられません」


 俺は感想を述べられなかった。そういった知識について詳しくはないし、深く考えた経験もない。


「その……ええと、サウァを深夜に歌うことでそのズゥヌゥクワァ? を呼ぶ可能性もあるのでしょうか」

「さあ、その繋がりはわかりませんね。いやいや、面白い発想ですよ。自宅に沢山資料があるから確かめてみようかな。でも怖がらなくても大丈夫です。民話の一つに、ズゥヌゥクワァを火に放り込んで、姿かたちが無くなるまで焼いて殺したという話がありますから、もし現れたらキャンプファイヤーに投げてやれば問題ありません」


 笑って良い冗談なのか、難しい。

 とりあえず愛想笑いを浮かべたとき、モーター音が耳に飛び込んだ。ヴ――ンと鳴ったが、それは「おーい」と誰かを呼ぶ音程に近く、つい振り向いてしまう。


「何か?」

「あ、いや。変な音が」

「もしかして機械音と人の声の間のような?」

「そうです」

「はいはい。それなら大丈夫ですよ。この辺ではよく聞こえるものですから。でも少し見てきますね」


 星本さんはスコップを手に立ち上がり、キャンプ場の森へ入って行った。

 さて、俺も克己達の輪に加わるか、と周囲を見回したとき、先輩とばっちり目が合った。


「さっきの話だけど、告白されてどうしてそんな暗い顔になるの?」

「別に……」


 あんな惨めな理由、言えるか。


「本当は克己狙いだった?」


 俺は驚いて先輩を見た。


「どうしてわかったんですか?」

「あのね。世の中、女の子にしか伝わってこない話って多いのよ」

「昼間はおばさんだなんて言ってくせに、今度は女の子って」

「揚げ足を取らないで」


 ぷうと膨らんだ先輩の頬を指でつつく。


「慧。あっちで話そうか」


 先輩が渓流の方を指差した。昼間、ふたりで座っていた辺りだ。他のメンバーの賑やかな声を背中に、俺達は川辺へ降りていった。やはり、変なモーター音があちらこちらから聞こえる。しかし先輩には聞こえていないらしく、俺は何も言わないことにした。

 ぬるいビールに口をつけると、いつもより酔いが回るのが早いように思える。


「舞、脈がないのに優しくされて可哀そうだと思うよ」

「巻き込まれた俺はたまったもんじゃないですよ」

「あはは。そりゃそうだ。克己の人たらしは悪気がないのが厄介というか。一緒にいる人間は苦労するね」


 まったくだ。

 克己の彼女が心配性なのは生来のものではなく、克己と付き合ったから心配性になってしまったのかもしれない。


「ショックだったでしょ」

「別に……」


 正直、舞に利用されたことはどうでも良い。傷つくまでもない。どうせ、大学を卒業したら疎遠になるような人間関係だ。どうでも良い……。そう、思えれば。


「……いや、正直ちょっと堪えましたね」


 苦笑交じりで、俺は本音をこぼした。

 繰り返される出会いと別れ。人間関係など希薄なものだと達観していたつもりだったが、今の自分はどうだろうか。克己と仲良くなって。サークルに入り浸って。代表なんかやって。先輩の卒業を惜しんだりして。全然、達観できてやしない。

 先輩と出会ってから、俺は変わったと思う。

 いや。

 最初から達観なんてできていなかったのかもしれない。そう思わないと、寂しくてどうにかなりそうで――諦めていると、割り切れていると思いたかっただけなのかも。

 川向うの木々が、夜風に吹かれてさわさわと揺れている。

 話すなら、今だ。


「あの、先輩。俺――」

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