前編・3 円居し記憶

 カイイカラ・ビレッジから徒歩二十分程度歩いたところに別のキャンプ場の入口があった。駐車場には沢山の車が並び、家族連れや学生グループで賑わっている。大小のロッジが点々建っている他に持ち込んだテントを張るエリアも設けられており、色とりどりのテントが所狭しと並んでいる様が圧巻だった。中央の広場にはちょっとした遊具も置いてあり子供の笑い声が響き渡る。この奥に、散策路が解放されているらしい。

 本当は、あのまま先輩と話していたかった。しかし、隣を見れば舞が嬉しそうにぴょこぴょこ軽やかに歩いているので、暗い顔ばかりもしていられない。自分の欲求は後回しにして後輩の相手をするのも先輩の役目だろうと諦める。


「克己達、見当たらないな……」

「先に行っちゃったみたいですね」と舞も困ったように言った。


 ぱっと見える範囲にはサークル連中の姿はない。いつものことだ。放っとくとてんでばらばらに行動してしまう子供のような後輩達をまとめるのは、代表というより羊飼いの気分である。それにしても、克己まで……という徒労感に襲われた。

 ここまで来て引き返すのも癪なので、俺と舞の二人だけで散策路に向かうことにした。道の入口に順路を絵に描いた看板が立っている。なだらかな山道を歩く3km程度のコースで、ちょうど俺達が宿泊しているカイイカラ・ビレッジ側に出る道もあるようだ。


「こうして慧さんと二人きりになる機会ってなかなかないですよね」

「そうか? 俺、一人でサークル棟にいること多いけどな」

「でも……。大体、先輩とご一緒じゃないですか?」

「そうでもないさ」


 本当にそうでもない。昨年から、先輩は就職活動に卒論に、と色々忙しくしているし、周囲がどう思っているか知らないが、大学で会うより居酒屋で待ち合わせる頻度の方がよっぽど高い。

 道の両脇に曼珠沙華が生え、真っ直ぐに伸びる姿は雄大だった。せっかくなのでスマートフォンのカメラに収めようと立ち止まる。


「――きです」

「ん?」

「私、慧さんのことが好きです」


 写真を撮ろうとした手を降ろして振り返ると、じっと俺を見つめる舞の姿があった。

 舞が、俺を?

 舞の両の拳が微かに震えている。驚きながらも、どこか納得している自分もいた。わざわざ俺を散策に誘ったのはこういうことだったのか。先輩が頑なに同行しなかったのも……。

 どうしたものか――正しく言えば――どう断ったものか。

 俺は舞に確認したいことがあった。なるべく傷つけずに断る言葉を組み立てるのは、確認を取った後でも遅くない。舞の返事次第では断るまでに至らないだろうから。


「……本当に、俺のことが好きなの?」

「えっ」


 彼女は丸い瞳を見開いて、そして視線を逸らした。小さな疑念が、確実なものになっていく。


「正直言うと舞が好きなのは克己だと思ってたんだ。舞は俺より、克己と気が合うように見えていたから」


 自分なりに努めて優しく言ったつもりだ。万が一、違っていたら最低な返事である――

 ――が、案の定、舞は黙って俯いた。


「違っていたら、ごめんな?」


 彼女はますます俯いてしまう。

 その沈黙は、肯定に等しい。


「この告白は聞かなかったことにしようか」

「慧さん……」


 克己は冗談抜きでモテる。人当たりが良いし、相手と距離を縮めるのもうまい。それに先天的に垢抜けた容姿。大学デビューの俺とは雲泥の差だ。

 サークルの代表だって本当は克己にという声が多かったのだ。それが、前代表の「女に人気がありすぎる奴は、団体の代表には向かない」という理性的な判断によって俺に白羽の矢が立っただけのこと。

 俺がやけに冷静なのは、克己に近づこうとして失敗した女子達が回り道で俺に言い寄って来るのは舞が初めてではないからだ。


「嘘で俺と付き合ったって辛いだけだ。ちゃんと好きな相手と付き合いなさい。舞は可愛いんだから」


 舞の頭をぽんと叩くと、その拍子にぽろぽろっと舞の目から涙が零れた。


「ごめんなさい……。私、私……! 慧さん、本当にごめんなさい……!」

「うん」


 いいよ、と流せるほど大きな器があるわけでもなく、事情を深掘りしたいわけでもなく、俺は曖昧に返事をした。

 ああ、人生って何て疲れるのだろう。まだ自分が二十歳そこそこで、長生きすればこれまでの人生を四回以上繰り返す羽目になるかもしれないなんて。人生百年時代など、心から勘弁願いたい。俺はとっくの昔に、もうくたくたなのだ。

 散策路の途中で、克己が女子達に囲まれていた。派手な髪色も相まってファンをはべらすアイドルのようである。俺の舞に気が付くと、克己はあからさまに眉を歪めた。


「おいおい。慧、来ちゃったのかよ」


 克己が小声で俺を責める。わかっている。彼は気を回して、俺と先輩のことはキャンプ場に残して出発するつもりだったのだろう。


「大賑わいだな」と克己が言った。


「この道をずっと上った先に、展望台があるみたいだぞ」


 克己に思うところはあれど、ひとまず気まずき空気から解放されたのは助かった。俺達はぞろぞろとゆるやかな上り坂を登る。


「おーい!」


 道を下ってきたハイキング帰りらしい男性が、すれ違いざまに声を掛けた。


「こんにちは」

「大学生かい。賑やかだねえ!」

「ええ」


 会釈をしてそのまま通りすぎようとしたのだが、男性はは足を止めてしまった。


「うん、いいねえ。大勢でキャンプってのは!」


 腰に両手を当てニコニコと笑いながら俺を見ている。困ったことに、どうやら立ち話をしたい様子である。


「ここのコースは気持ちいいんだよ。俺は、毎日ここを歩いてんだから! おかげで健康そのものだよ!」と聞いてもないのに自分の話をはじめられてしまった。

 面倒なタイプのおじさんに捕まってしまったな……。

 仕方ない。俺は克己に目配せをして後輩を率いて先に歩いているように促した。克己は察してくれたようで、こっそりと両手を合わせて謝罪のポーズをした。歩きはじめた後輩達の中で舞だけが心配そうに俺を振り返った。


「こうして一人で山に来てるとねえ、日頃の人間関係から解き放たれて、体の内側から浄化されていく感じがするんだなあ」

「はぁ……」


 まぁ、それはわからないでもないが。

 おじさんは目尻をさげてうっとりと身振り手振りを交えて話す。長くなっては敵わない。適当な相槌を打って、彼が満足したところで切り上げたい。


「山には神様がいらっしゃるからねえ。空気が綺麗だろ? それは神様のおかげなんだよ。山の神だな。わかるかあ?」

「う、うーん……?」

「若者には、まだわからんかあ」

「うーん。どうでしょう」

「山道を歩いていると感じるんだよ。前から後ろから右から左からたあっぷりと神様の気配をねえ」

「そういうものですか」と俺はちらりと後ろを見た。克己達の姿は随分遠ざかって見えた。

 おじさんはなおも喋りつづけた。切り上げようにも会話の途切れ目がない。こうしている間に、克己達は展望台に到着してしまったのではないか。あまり距離を離されてしまうと追いつくのに一苦労である。

 長々と続くおじさんの言葉のほんのわずかな沈黙を掴んで、俺は「へえ!」と大きめの相槌を打った。俺の声に、おじさんは一瞬ペースを乱されたようだった。チャンスだ。


「僕も散策に行ってきますので。それじゃあ……」


 会話を終えて歩き出そうとしたが、ぐっと引き留められた。おじさんが俺の腕を掴んでいる。


「ちょ、ちょっと」


 驚いて彼の顔を見ると、変わらずニコニコと笑っていた。

 冷たく湿った手のひらの感覚が、じっとりと伝わってくる。


「君もわかるぞお。神様は君の気持ちがわかるからなあ。都会は人間が多すぎてちょっと人間が多すぎるからなぁ。前も後ろも人間人間、神様が入る隙がなくなっちまった。右から左から左から右から」


 おじさんの黒目が、ぐいっと両側に離れた。離れ目だ。なんだ一発芸か? と思ったのも束の間、左右の目がてんでばらばらに動きはじめる。その動きははじめは緩慢に、だんだん速くなり……高速に動く黒目に、俺は鳥肌が立った。


 ――おかしいぞ、こいつ。


 振りほどこうとしても、おじさんの力が強く、振り切ることができない。


「右から左から上から下から前から後ろから右から左から上から下から下から下から下から下から下から下から下からずーっと下からねえ、来るんだよねえ!」

「離してください!」


 大声を出して腕を振り上げると、あっけなく手は離れた。俺はその隙をついて一目散に走りだした。


「山の暮らしは良いぞお! はっはっはああああ!」


 おじさんの笑い声が聞こえなくなるまで、俺は上り坂を走り続けた。


 ――なんだったんだ。気持ち悪い……。


 さっきのおじさんのせいでますます気分を削がれてしまったことが悔やしい。一体、何者だったのだろうか。気味の悪い目。あれも見間違いだったのだろうか。トーテムポールといい、あのおじさんといい……。先輩に言われた通り、疲れているのかもしれないな。運転による眼精疲労。告白だのなんだのと焦っているのも精神的に良くないのかもしれない。

 俺は散策路には戻らず、一足先にロッジに戻って休んだ。克己には後から「どうして先に戻っちゃうんだよ」と愚痴を言われたが、それについても「うん」と濁した。心から疲れていたし、舞の件についても一言申したい気持ちはあったが、他人の恋愛感情をぺらぺら喋るほど低俗な人間にはなりたくない。


「慧、具合でも悪いのか?」

「大丈夫。すぐ起きるよ……」


 山で浄化されるどころか、どろりとした感情が胸に澱む。

 夕方にカレーの準備が始まった。星本さんが様子を見に来てくれ、火おこしに手間取っている俺達を手助けしてくれる。


「キャンプのカレーってどうしてこんなに美味しいんだろうな!」


 まだ食べてもいないのに克己は心の底から嬉しそうに笑い、よりによって、その同意を舞に求めた。舞は気まずそうに一瞬俺を盗み見てから、「どうしてでしょうね」と困り顔で返事をした。

 お前、その笑顔だよ。人たらしめ。

 つい口から溜息が出る。まったくの無意識だった。今日はどうも溜息が多いな……。


「どうしたの、暗い顔をして。まさか告白でも――」と先輩がわざとらしく口元に手を当てる。


「――された? した?」


 俺は辺りに人がいないことを確認してから「されて、断りました」と答えた。それ以上は語る気分になれず、ひたすらに野菜の皮を剝く作業に没頭した。

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