前編・2 トーテムポール

 キャンプ場に入って直ぐにささやかな広場があり、目の届く範囲にバーベキュー場、東屋、屋外トイレがぽつぽつと建っている。奥には赤い屋根の建物が二棟並んでいるのが見えた。あれが今夜宿泊するロッジだ。すぐ傍には川が流れており、隠れ家然としていて秋を満喫するには最高の場所だ。

 ホームページには定員は十五名と記載されていたが、電話で問い合わせたところ狭さを了承の上でなら宿泊する分には構わないという返事だったので、こちらに決めさせて貰った。

 俺と克己が荷物をロッジに置くと、誰かがバーべキュー場から大きく手を振っている。先輩だ。バーベキュー場にはすでに女子達が集合していた。その中央には、ポロシャツにオーバーオール、手にはスコップというまるで絵に描いた牧場から抜け出して来たような男性が立っている。


「はいはい。私がこのキャンプ場の管理をしております、星本ほしもとです。あなたが団体の責任者さんですかね」


 しかも口髭が豊かで、筋肉とも脂肪ともつかないどっしりとした、森のくまさん然とした風貌。年齢不詳だが五十代後半から六十代前半くらいだだと予想する。

 俺は会釈をし、「西条慧と申します。彼は飯嶋いいじま克己です。こんな大所帯でお邪魔してすみません。今日一日お世話になります」と挨拶をした。


「いいの、いいの。貴方がご予約のお電話いただいた、代表者の西条さんね。どうも、どうも」


 星本さんはつぶらな瞳をぎゅっと小さくして微笑み、手を差し伸べた。笑うと髭がふさふさと揺れる。握手に応じた俺の手をぎゅっと握った手の大きさに、ふと彼に対して理想的な父親像を重ねた。


「さあさあ。皆さんいらっしゃいますから先にバーベキュー場の使い方について説明しましょう。ではまず道具類が――」


 皆さん、と言っても他の男子達はさっそくキャンプ場で遊び始めいて、真面目に集合したのは女子達だけだ。まあ良い。全員で聞かねばならない話でもないし。……と、そう思ってわざわざ彼らを呼びつけることはしなかったのだが、星本さんの説明が男子連中のはしゃぎ声で打ち消される度、女子の幾人が渋い顔をするのがわかった。男同士が集まればああなるのは当然だろうと大目に見たものの、協調性を重んじる女子達はそうもいかないらしい。きっと彼らは後で怒られるのだろう。南無。


「バーベキュー場の説明は以上です。ではでは、キャンプ場をぐるっとご案内いたしましょうかね。ああ、代表のお二人だけ来てくれれば十分ですよ」


 俺と克己は星本さんの後について、キャンプ場を回ることになった。


「はいはい、ここがロッジです。男女で分かれますか?」

「そのつもりです」

「でしたら、奥のロッジを女性用にすると良いです。うん、うん。あちらは室内にトイレがありますから。手前のロッジはトイレがないので、すみませんが屋外のトイレを使用してください」

「ありがとうございます。そうします」

「後は後は……どちらのロッジも定員七、八名の想定なので少し狭いかもしれないけれど、寝具は人数分入っていますから」


 まったく問題ない。どうせシャワーを浴びて歯を磨いて布団に入るような正しい手順で眠りにつく人間など居やしないのだ。酒を片手に気絶するように眠る。朝、室内で目が覚めれば行儀が良い方という基準だ。


「ロッジは禁煙です。くれぐれも、く・れ・ぐ・れ・も・煙草は外の東屋で吸うようにと周知しておいてください」


 俺は克己に目配せをした。俺は煙草を吸わないので、周知の役目は喫煙者の克己に任せたい。


「吸う奴らには俺が言っとくよ」と克己が言った。

 あっという間にキャンプ場を一周し終え、星本さんが東屋のテーブルの上に地図を広げた。この辺りの観光マップのようだ。星本さんの太い指が置かれた現在地周辺には、見事に何の記号も描かれていない。山中だから当然なのだが、スーパーやコンビニは山を降りた先にしかないということだ。


「夜間はお静かに……。でもでも、実際は多少なら騒いで貰っても大丈夫ですよ。迷惑がるのは動物と虫くらいのものです」


 星本さんは悪戯っぽく目配せした。


「それはありがたいです」


 俺は素直にお礼を言った。外で飲むとなれば後輩達はより一層解放的な気分になって騒ぐだろうことは間違いない。いつかの秋キャンでは他のキャンプ客からお小言をいただいた苦い経験もある。そういうときに矢面に立つのは代表だ。今なら、俺である。キャンプ客に謝罪して回るなんて事態はぜひご勘弁願いたい。


「説明はこれくらいです。ではでは、何かご質問はありますか?」


 俺は首を振った。


「あの――」と克己が口を開いた。


「――入口の人形はなんスか?」


 話の流れを無視してでも自分が興味のあることを主張できるのが、飯嶋克己という男である。俺にはできない芸当だ。


「人形ですか?」と星本さんも意表を突かれた様子だ。


「ああ……ああ、あれね。お恥ずかしながら私の作品なのですよ」

「星本さんの? へえ、すごいっスね」

「いやいやただの趣味です」


 少し照れくさそうに、彼は笑った。


「トーテムポールと呼ばれる彫刻柱は、北米大陸の北西沿岸部に住まう先住民が生み出した文化なのです。ええ、ええ。私は彼らの文化に大変惹かれまして、独学で模して作ったのですよ。そのう、もしかして、怖かったですか?」


 否定できずに俺はただ苦笑した。

 目玉が動いてこちらを見たような気がしましたとはとても言えない。


「たまにお客様から怖いって言われます。泣き出してしまうお子さんもいらっしゃったりして。いっそのこと撤去しようかと何度も、何度も思ったのですが……なかなか踏み切れなくてねェ……」

「この山の守り神だったりするんですか?」

「守り神? あっはっは。まさかまさか。おじさんが道楽で拵えた人形ですよ。元よりトーテムポールというものは、崇拝の対象でなく、実用や芸術の側面が大きいのです」

「失礼しました。随分と、こう……オーラがあったものですから」


 俺がそう言うと、星本さんはぱっと破顔した。


「いやァ……いや、本当に勿体ないお言葉です。毎度不気味がられてばかりなので嬉しいな。腐っても自分の作品ですからね」と星本さんは喜びを隠さずに満面の笑みを浮かべた。


「因みに入り口に建っているのは〈家屋柱〉と呼ばれる種類のトーテムポールで、表札の役目を果たす物です。下から上に向かって説明しますと、一番下が熊――狩りの達人の象徴です。そうそう秩父も熊が生息していますから山歩きの際にはご注意ください。次が山女魚を持った男――現地では鮭が一般的ですが、秩父では川魚がよく獲れますからね。次にダイダラボッチ――昔秩父に現れたと伝わる巨人です。架空の妖怪がトーテムポールに彫られるのは珍しいことではないのですよ。あちらの文化も精霊信仰が根強く、それは日本人が八百万の神々を信じるのと少し似ている気がします。私は二つの文化を融合させてみたいと常々――」


 言葉の途中で、星本さんははっと口を噤み、気まずそうに髭を摘まんだ。


「――語り過ぎてしまいました。失敬、失敬。これが私の悪い癖でして……」


 まったくだとでも言いたげな克己の顔を見られぬよう、俺は慌てて「興味深い話でした」と返事をする。


「天辺には羽根を広げた鳥のような物が彫られていた気がしますが、あれは鷹か何かでしょうか」


 まだ続けるのかと克己が俺を小突いたが、無視をする。興味を惹かれているのは嘘ではないし、俺はこの風変わりな男性を好ましく思い始めていた。いかにもマイペースで裏表や隠し事が苦手そうなのがいい。


「……一番上にあるのはサンダーバード、力強さを象徴する守護神です。特定の部族がとくに好んでモチーフに用いる、伝説の怪鳥ですよ。そうだ、そうだ。一応、私の携帯電話を緊急連絡先としてお伝えしておきます。万が一トラブルがあれば遠慮なく連絡してください」


 何となく話を逸らされたかに思えた。克己がすかさずメモを受け取り、「助かります」とお礼を述べる。


「私の家はここから車で少し行った先にあります。ええ、ええ。山の暮らしはいいですよ」


 へえ。この、コンビニすらない辺鄙な場所にね。

 たしかに空気も綺麗で気持ちがいいが、生活するとなると想像もできない。

 こんな山奥に住みながらキャンプ場を経営し、あのような人形も彫るなんて。浮世離れしているというか。悠々自適というか。どこか羨ましくも感じられる。

 そりゃ立派な口髭も生えるだろうな……。

 地元と呼べる土地がない俺にとって、ここだと決めた場所に定住するのは憧れるような理解できないような不思議な感覚を抱くのだった。

 俺は転校の多い子供だった。幼少期から父の転勤のたびに各地を転々としたせいで昔馴染みとは全員縁が切れている。転校する際には「手紙を書くよ」と言ってくれた子も、手紙に知らない名前や知らない話題が増えるにつれて返事の間隔が空き、やがて交流が途絶える。

 こういうことが三度も四度も続くと、子供だって莫迦ではないので「人間関係はその場限りの希薄なもの」と学んでしまう。

 繰り返される出会いと別れ。

 繋がったと思ったらすぐに切れる。脆い糸。

 登下校中にこっそり寄り道したり、遅刻して一緒に廊下に立たされたり、休み時間の度に校庭でドッジボールをしたり、新作のゲームの発売日には一旦家にランドセルを投げ置いた後に再集合して遊んだり……思い出して余りあるほどの思い出がある。なのに、ただ学校が離れた、たったそれだけ、その瞬間からみるみる他人になってしまうなんて。そんなこと、あるかよ。

 ――ある!

 昔の俺に言ってやりたい。人生にゃ、そんなこと往々にしてあるのだ。しょっちゅうある。それしかないと言っても過言ではない。

 昔を懐かしむ度に決まって思い出すのは、七度目の転校だ。

 高校受験を控えていた俺に考慮されて父の単身赴任が決まった。志望した全寮制の男子校に入るには少しだけ偏差値が心許なく、転校している余裕はないという両親の判断だった。もう学校を変えなくて済むのだ……という安心感の裏で、一人引っ越していく父の姿が疎遠になった友人達の姿と重なり、形容しがたい不安に襲われたのを覚えている。



 一通りの説明を終えて星本さんが帰ってしまうと、克己は「わりぃ。ちょっと電話してくるわ」と言って場を離れた。

 克己は出先からしょっちゅう心配性の彼女に電話をする。今日は本当にサークル行事なんですよ、疚しいことはありませんよ、いつだって君のことを忘れていませんよ……という証明のためらしい。別に浮気の前科があるわけでもないのに、相手の安心のために電話を入れるなんて聞いているだけで面倒極まりない。俺なら絶対に無理だ。しかしそれをやり遂げる根気強さが魅力なのもわかる。モテるわけである。


「慧さーん!」と俺を呼ぶ声がした。

 川向こうから後輩の男子達がこぞって手を振っている。どうやら釣り好きの後輩グループは、わざわざ釣り道具を持って来たらしい。


「慧さんもやりませんか?」

「いいよ。俺は見ているだけで十分」

「じゃあビールどうぞ。少しぬるいんですけど」

「ありがとう」


 後輩が竿を振る。ひゅんっという音のあとに、ぽちゃん、とルアーが水の中に落ちる。後輩がじっと浮の動きを見守っている中、俺は缶ビールを開けた。

 静かだ。

 ビールはたしかに冷えが甘かった。まあ、ぬるい酒というのも、これはこれでキャンプの醍醐味である。

 向かいの山側からは、斜面に生えた樹々達が渓流を覆うように枝葉を伸ばしている。風が吹けば樹々はさわさわと音を立て、水面に鰯雲のようなさざ波が立つ。水面に葉が散る様は、本当に――


「綺麗だね」


 ――小さく呟く声がした。

 いつの間にか、隣に先輩が座っていた。


「秋の深まりって感じ」


 先輩が耳に髪を掛けながら、俺に同意を求めた。


「管理人さんの説明、終わったんだね」

「はい。そうだ、先輩の荷物はロッジに入れておきましたよ」

「見たよ。ありがとう」


 先輩が細い人差し指をぴんと立て、俺の缶ビールを指した。


「あ。ビール飲んでる。ズルい~」

「先輩の分も貰って来ましょうか?」

「ううん、一口ちょうだい」


 そう言って、俺の手からさっと缶ビールを取る。


「……このビール、ぬるいぞ」

「仕方ないですよ」


 顔を顰めた先輩からビールを取り返した。こういうやり取りをいちいち間接キスだのと騒ぐ年齢でもないのだが……。先輩の目の前でその飲み口に自分の唇をつける勇気がなく、溜息が漏れる。


 ――ダサいな、俺。


「大丈夫? 疲れた? ここまで運転もしてくれたんだもんね。朝から買い出しにも行ってくれたんでしょ?」

「いや、疲れてはないですよ。すみません、溜息なんか吐いて」と慌てて否定する。


「慧と克己がサークルの代表と副代表になってくれて、四年生は皆安心してるの。二人ともしっかりしてるし。克己はちょっとチャラいのが心配だけど」

「克己も彼女のお陰で最近落ち着いていますから、大丈夫ですよ」

「へえ~。彼女が出来たら変わるものなんだ。慧は?」

「え?」

「慧は彼女作らないの?」


 先輩の真っ直ぐな視線に、息を呑む。

 彼女は、ずっといない。

 いたことがない。

 そのことは先輩も知っている。

 先輩が知らないのは――俺が、一年生の頃からずっと、あなたを好きだということだ。


「作らないんじゃなくて、出来ないだけです」


 冗談交じりの答えで、誤魔化す。

 先輩は俺を構ってくれる。いつもそうだ。俺も、それを拒まない。だが――その先が踏み込めない。男として俺から動くべきなのかもしれないが、どうしていいんだかさっぱりわからない。早い段階で意気投合し過ぎたのは悪手だった気がする。二人で飲みに行くことが日常になってしまって、デートに誘ったつもりでも、結局いつもの飲み会になってしまって特別感が生まれない。

 どうすればこの関係性を変えられるのか。

 正攻法で告白をしたらどうかと思ったこともあるが、それは……さすがに……勇気が出ない。かといって他に打つ手のないまま、先延ばし先延ばしにして、今に至る。

 また、俺を呼ぶ声が聞こえた。声の方向に目を向けると後輩の女子達が束になって歩いて来る。きゃっきゃっと騒ぐ黄色い声。たった一、二学年しか違わないのに、妙に若く感じられる。


「お前らうるせェ、魚が逃げる!」


 釣りの真っ最中の後輩が、俺の代わりに返事をした。……お前の声で逃げてしまうのでは?


「慧さん!」と二年生の美園みそのまいが駆け寄って来る。


「……あ、先輩もいらっしゃったんですね」と付け加えて。


「残念ながら、いるんです」


 先輩が、白けた声でつぶやいた。


「どうかした?」と俺が言葉を促す。


「あ、えっと。克己さんが、皆で近くの散策路を歩かないかっておっしゃるので、慧さんもご一緒にどうかなって。もちろん先輩も」


 なるほど。まだ夕飯の準備をする時間には早いし、いい案だ。俺は先輩に「行きます?」と尋ねた。

 先輩は答えず、対岸の樹々をじっと見つめている。


「今、誰かこっちを見てなかった?」

「え?」


 俺と舞は先輩の指差す方向に目を遣ったが、そこには紅葉した枝葉が風に靡くばかりで、第一、急斜面に人が立てるような場所はない。

 先輩は小さく首を振った。


「ごめん、疲れて見間違えたのかも。おばさんは留守番していたいな」

「おばさんって、たった一歳しか違わないじゃないですか」

「その一年が大きいの。ほら、慧は行ってらっしゃい」

「一緒に行きましょうよ。せっかく、キャンプに来たんだし」


 再度粘ってみたが、先輩はひらひらと手を振るばかりで、半ば強引に送り出されてしまった。

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