ズゥヌゥクワァの標

緒音百『かぎろいの島』6/20発売

前編・1 燃ゆる篝火

 澄み渡った空の、薄い青。

 どこまでも続く白い鰯雲いわしぐもの群れ。

 枝に鈴なりに生った赤い木の実が風に吹かれ。

 黄色に染まった葉は木漏れ日に透く。

 ――まさに秋晴れ。キャンプ日和。


 俺は両腕を天に突き上げて背筋を伸ばした。肺一杯に美味しい空気を取り込めば、体内が浄化されゆくようで清々しい気分になる。

 深呼吸する俺の背後で、タイヤが砂利を踏みしめる。


さとる!」


 車から降りてくるや否や自分に向かって走り込んできた彼女に、その勢いのまま体を預けられ、咄嗟に抱きとめる体勢になってしまう。羽織物がふわりと靡くと同時に、馨しい香りが鼻をついた。香水なのかシャンプーなのかはたまた柔軟剤か――花の香りまたは石鹸または柑橘類――無頓着なので種類はてんでわからないが、とにかく何かしらの良い香りに視界が揺らぎ、心臓がばくんと胸を叩く。

 まったく……と丸く小さな頭を見下ろした。この人は、年頃の男子相手に無防備に体を寄せるものではないと教わらなかったのか。


「はいはい、先輩。離れて」


 呆れ顔を繕って大仰に両手を挙げた。降参の意、兼、自分は貴方に一切触っていませんという冤罪防止のポーズである。


「今更照れないでよ。私と慧の仲じゃない?」


 俺の胸元に顎を乗せて、眩しいほどの笑顔を向けてくる先輩。橙色のリップ。薄らと紅潮した頬。さらさらの髪の毛が、お転婆の所為でくしゃっと乱れている。何てことない一つ一つが俺にとっては刺激的過ぎる。平静を装っていても胸の鼓動は正直だ。内心こんなに狼狽していることを先輩に悟られたら恥ずかしくて死んでしまう。

 先輩の肩を掴みゆっくりと自分の体から引き離した。体温が離れ、代わりに秋の涼しい空気が俺達の間に入り込む。


「後輩の情操教育に悪いですから」

「後輩ってあいつらのこと?」


 冗談混じりに言うと、先輩が後方を指した。つい先刻まで俺の車に乗っていた後輩達が団子のように顔を寄せ合い、下世話な笑顔が並んでいる。

「どうぞ続けてください。俺達は何も見ておりませんので」と顔を覆った指の隙間から覗き見る定番のおふざけを振られて、彼らの頭を順々にぽかっと叩いた。


「そういう気遣いは結構。ほら、後発隊の車には大きい荷物があるだろ。男連中は手伝ってやれよ」

「はーい」


 彼らは素直な返事をして軽やかに車へと駆けて行く。全員が走り去るのを見届け、俺は溜息を吐いた。


「……勘弁してくださいよ、先輩」

「ごめんね。その困り顔が見たかったの」


 両手を合掌させ申し訳なさそうに笑う彼女を見、頭を掻く。素直に謝られたら敵わない。今日の先輩は薄手のパーカーにデニムを履いて、足元はスニーカーというカジュアルな服装。普段はきっちりとした服装を好む先輩のそんな装いは新鮮で、正直、可愛い。感想を素直に口に出来たら良いのに、言葉は喉の辺りでぐるぐると回って、どこにも発されずに落ちる。


「俺達も荷物を降ろしましょう」


 代わりに出たのは何とも冴えない台詞だった。


「久々に会ったというのに、慧ってばそっけないんだから。つまんない」

「俺、これでもサークルの代表ですから後輩に軽薄な男だと勘違いされたらやりにくいんで。仕方なく取り繕っているのを察してくださいよ」

「そんなの建前でしょ。慧のその態度は代表になる前から……というか、出会ったときからずっと変わらないじゃない」


 先輩は拗ねた様子で唇を突き出す。付き合ってもいないのにそんな態度をされて、どう返事をしろと言うのだろう。


「力仕事は男性諸君に任せた。私はロッジを見に行こうっと」

「ちょっと、自分の荷物は持ちなさいって。……ったく」


 注意も聞かずに先輩は一目散に駆けて行ってしまう。自由奔放、いや、あれは我儘だ。あなただって、出会ったときからまるで一緒じゃないか。

 でも、俺の態度が変わらない理由は先輩とは違う。それはわかっている。先輩はいつもありのまま自然体なだけ。俺は――出会った最初の頃は、本心から先輩が鬱陶しくわざとつれない態度を取っていた。それがだんだん誰よりも心地良い相手となり、特別な感情を抱くようになり、その変化を気取られたくなくて態度が堅くなってしまう。誰にも明かせない……我ながら情けない内情だ。


「先輩にやられてんなァ、慧」


 声を掛けてきたのは同期の克己かつみ。最近染め直したと言う明るい茶髪が、彼の涼しげな顔立ちに良く似合う。


「相変わらずおモテになることで」

「からかうなよ。克己に言われると厭味にしか聞こえない」

「それもそうか」とあっさり認められるのが克己の長所だ。


 荷物を運ぶ後輩達が、挨拶をしながら俺達を追い越して行く。その際、女子達が克己を盗み見ていくのを俺は見逃さなかった。当の克己本人は、彼女達の目線には気付かず、さっき俺がやったように大きく背伸びをしている。お互い、都内の集合場所からこのキャンプ場まで長距離運転をしたせいで首から腰、足首まで石のようにがちがちだ。

 今日はサークルの秋季キャンプ。

 俺達は「あきキャン」と略称で呼ぶ。

 俺、西条にしじょう慧は都内の私大に通う大学三年生だ。一応、この小規模でゆる~いサークルにて代表の座に就いている。代表などと大仰な役職名をいただいているが、実際のところ大した仕事はない。飲み会で乾杯や締めの音頭を取ったり、行事を仕切ったりする他は、こうして運転免許を取得している貴重な男手として運転手を押し付けられるくらいのものだ。


「四年生の参加は、先輩一人だけか。……日程が悪かったかな」


 俺としては四年生も参加しやすいように色々と調整したつもりだったのだが、こうして出欠に表れると厭でも自分の落ち度が判ってしまう。


「卒論の中間発表会が近いからなァ。最近は誰もサークル棟に顔を出さねェし……。まあ、こればかりは仕方ねェよ。それに毎年利用しているキャンプ場が休業中で、選択肢がなかっただろ」


 休業を知って慌てて別のキャンプ場を探したものの行楽シーズンはどこのキャンプ場も予約が取り難い。小規模なサークルとはいえ秋キャンの参加者は総勢二十名もおり、その上学生の予算内で宿泊できる場所となれば選べる先は限られる。唯一予約が取れたのが、ここ埼玉県秩父地域にある〈カイイカラ ・ビレッジ〉だった。ホームページに掲載されていた情報に依ると、二棟のロッジが建つだけの小さなキャンプ場で、本日は俺達の貸し切りである。

 克己の慰めはありがたかったが俺の気持ちは浮上しなかった。形式上はサークルを引退している四年生達と一緒に過ごせるのは残り半年足らずで、サークルの行事も数える程しか残されていない。

 秋キャンに参加していない四年生らの顔が思い浮かぶ。頼り甲斐がありムードメーカーでもあった前代表。責任感が強く、細か過ぎるのが玉に瑕な前副代表。アウトドアが大好きでキャンプ行事は欠かさず参加していたあの人。酒が飲めればどこでも良いと行く先々で酔い潰れていたあの人も……。大学入学以来、毎日顔を合わせていた愉快な面々と、いつの間にか随分会っていない気がする。

 秋の気候のせいだろうか。別れの気配がだんだんと濃くなっていくようで胸がざわざわするのは。妙にセンチメンタルな気分だ――が、こんな感情を吐露する訳にはいかない。表向きクールだと称される自分のキャラではないのだ。

 後輩達がてきぱきと荷降ろしをしてくれたお陰で、車内は殆ど空になっていた。残るはお菓子や酒のつまみが詰まった袋に、先輩の私物。これなら俺と克己で運べる。他に忘れ物がないかを入念に確認し、俺と克己は遅れてキャンプ場へ向かった。


「来ていない連中よりも、忙しい中でも参加してくれた先輩のことを考えろよ」


 ひっそりとざわついていた胸が克己の言葉を受けてきゅっと収縮し、痺れた。


「後輩が見てる面前でああいうことをされるのは、正直困るんだよ……」

「そう言ってやるなって。先輩だって寂しいのさ」

「へえ。さすが彼女がいる奴は、女心に詳しいね」

「だろ? 慧もさっさと付き合っちまえ!」


 克己の軽口を受け流し、俺は先を急いだ。キャンプ場へ続く道は急勾配の下り坂で慎重に土を踏んで歩かねばならない。無視をされたことなどお構いなしに克己はぺらぺらと喋り続ける。


「お前って、自己評価が低いよなァ。言っちまうけど、秋キャンの参加者にお前のことを好きな子が居るんだぜ。さすがの俺も誰かは教えられねェよ。まあ、そういう事情も踏まえた上で助言すると、変に女子同士の揉め事が起こらない内に一人に絞った方が良いと思う。つまり――」


 克己はずいっと俺に顔を近付けた。


「――今日中に告白しろ!」


「阿呆か」と言い返した拍子に底の擦り減ったスニーカーが砂上で滑り、あやうく尻もちをつきかけた。すんでのところで足を踏ん張って持ち堪える。


「それとも年上は駄目なのか?」


 惨事を免れたことに安心しつつ息を整える。


「駄目じゃない」


 言ってしまってから、俺ははっとして口を噤んだ。つい咄嗟に返事をしてしまった。克己がとうとう本音を引き出してやったと言わんばかりの、したり顔で俺を見ている。


「じゃあ決まりだな。この秋キャンで進展しろよ」


 荷物で両手が塞がった克己が、行儀悪く俺のふくらはぎを蹴った。進展しろとは簡単に言うが……それは相手あってのこと。向こうにその気がなければどうしようもない。克己には理解出来ない苦悩なのかもしれなかった。

 先輩とは二年半前、サークルの飲み会にて知り合った。初対面にも関わらず傍若無人といっても良い位の横暴なちょっかいに対し、一貫して反応が薄い俺のことを気に入ったらしい。その際にも「慧はクールだね」と言われたが、高校三年間の男子校生活が災いして異性に免疫がなかっただけなのだ。

 現在の俺が女子相手に普通に接せられるようにはなったのは、一切そういった躊躇のない克己に便乗させてもらったお陰である。

 だが、恋愛となれば話は別。先輩との微妙な距離感をどうしたら良いのか悩んでばかりで行動に移せない臆病者。ちっともクールなんかじゃない。


 ようやく狭い坂道が終わりに近づくと川のせせらぎが聞こえはじめた。丁度見頃の季節で、あちらこちらに赤い曼珠沙華が咲き誇っている。花開いた曼珠沙華に出迎えられながら、木々や植物がだんだん密になっていく。ロッジはなかなか山深い場所にあるらしい。

 時々顔にかかる枝葉を振り払いながら歩みを続けると、行く先に奇妙な物が目に入った。

 柱……いや、木彫りの人形だろうか。

 身長よりもゆうに高い、太い木の幹を彫って作られた人形が堂々と聳え立っている。顔だけの人形、胴体のある物、人間に動物……雑多にも見てる彫刻が何段も重ねられ、天辺には鳥 らしき何かが巨大な羽根を広げている。


「これ、何て言ったっけ……名称が思い出せねェな。確かどこかの民族の工芸品だよな?」


 克己がまじまじと見上げ、首を傾げた。言われてみれば人形の彫が深い顔立ちや、はっきりとした色使いは異国情緒を漂わせている。

 ――守り神のような意味で建てられているのかもしれないな。

 そう思わせるほどの威厳が感じられた。黒色の絵の具でべったりと塗られた人形の大きな黒目。何度も塗り直されているのか、剥げている箇所もないし色褪せてもない。

 物珍しい気持ちでまじまじと見つめているうちに、不意に黒目の部分がきゅっと縮こまった。え? と不思議に思った瞬間、両の黒目がさっと右端に偏った。まるで俺を見つめるように。


「――ひっ」


 小さな悲鳴が口から漏れた。しかし光沢のない人形の瞳は、最初と変わらずに真っ直ぐ前を見つめている。こいつが俺を見ただなんて――もちろん見間違えだ。人形ののっぺりとした眼付きが、厭な記憶と結びついて錯覚を起こしたのだろう。


「慧、大丈夫か?」

「大丈夫。転びそうになっただけだよ」


 俺は落ち着き払って誤魔化した。

 道の脇に木彫りの看板を見つけた。人形の存在感に完全に気圧されていたが、ここがキャンプ場の入り口なのだ。克己は看板を読み、眉を顰める。


「カイイカラ……変な名前だな。不気味っていうか」

「不気味?」

「いや、気にし過ぎだよな。行こうぜ」


 克己の顔には早く遊びに行きたいという気持ちがありありと浮かんでいた。俺を急かし、彼は軽快な足取りで先に進んで行く。

 克己の後を追い、人形の横を通り抜けてキャンプ場に足を踏み入れたとき、山の奥から強い向かい風が吹いた。樹々がざわめき、曼珠沙華が首を揺らす。そのときに一瞬、誰かの視線を感じたような気がしたが、それも気のせいだろう。

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