後編・7 御手に守られて

 都内から電車を乗り継いで一時間半。途中の飯能駅で西武秩父線に乗り換える。

 今日は、レンタカーは借りずに電車で向かうことにした。秩父線の電車は空いており、四人掛けのボックス席にひとりで腰かける。同じ車両にはハイキング仲間らしい年配のグループが乗っていて賑やかに喋り声が響いていた。

 俺は、こつん、と窓に頭を預けた。自然豊かな風景。揺れるススキの穂。ぽつぽつと赤い花が咲いている。景色はどんどん山深くなっていく。単調な振動が子守歌になってうつらうつらと舟を漕ぎはじめた頃、電車は西武秩父駅に到着した。

 星本さんと待ち合わせた喫茶店は駅から10分ほど歩いた場所にあった。個人経営らしい、昭和レトロな店構えである。ドアを引くとカランカラン……と鐘が鳴った。

 奥のテーブルに星本さんの姿を見つけた。あの風貌なので目立つのだ。今日はさすがにスコップではなく、文庫本を片手に本を読んでいる。


「こんにちは」


 声を掛けると、星本さんはコーヒーカップをあげた手を宙で止めて「ああ。こんにちは」と笑った。ふさふさの口髭、先日は掛けていなかった眼鏡を掛けている。恐らく老眼鏡だろう。


「お忙しい時季なのにすみません」

「いえいえ。お客様のチェックインが済んでしまえば、しばらく暇ですからね」


 注文をとりにきた店員に、俺も星本さんと同じブレンドコーヒーを頼んだ。


「先日のお電話では妙な知識ばかり披露してしまって、失礼しました」と星本さんは頭を掻いた。

 いえ、と濁して返事をする。

 秋キャンから帰ってから数日が経ち、俺はだんだんと冷静さを取り戻していた。

 ヨモツヘグイ。死者の世界。怪異。

 そんなオカルトを信じるよりも、自分の頭を疑う方がよっぽど正常である気がしてきていた。

 大学では誰も先輩の話をしない。先輩と同期である四年生も、後輩も、舞も。克己ですら少し話さないうちに、俺が先輩を捜しているという事実そのものを忘れてしまう。先輩が所属していたゼミの研究室も探しに行ったが一切の情報が得られなかった。先輩はどこに住んでいたか。地元はどこだったか。家族構成は。アルバイトはしていたのか。

 何も思い出せない。何の手懸かりも見つけられない。悶々過ごしながらも日常は続いていく。退屈な講義。サークル棟でダラダラと過ごす休憩時間。日用品の買い出し。ありきたりなテレビ番組。たまの父からの電話。

 何も変わらない日々の中で、俺だけがいない人を探している。

 俺だけが異端。

 厭でも、克己の言葉が頭に響く。


 ――慧の妄想じゃねーのか――


 ……そうかもしれない。

 自分の孤独を埋めるべく、都合のいい『先輩』という女性の存在を頭の中で作り出していたのではないか。俺がカウンセラーならきっとこう言うだろう。


「あなたは、幼少期の度重なる転校、両親の離婚、父親との離別によって人間関係に対する強い不信感を植えつけられており、そこに母親の自殺が引き金となって、精神が不安定になってしまった。その『先輩』というのは、あなた自身が心を守るために作りだした、架空の存在だったのです」


 ……何と納得がいく説明だろうか。星本さんの「それはヨモツヘグイです」という回答より、よっぽどまともで、現実味がある。

 俺はすっかり自分への信頼を喪失していた。

 黙りこくった俺の前にブレンドコーヒーが置かれ、一緒に運ばれてきたホイップクリームを一匙コーヒーに落とす。


「西条さん」


 星本さんが、そっと老眼鏡を外して俺を見つめた。


「今あなたがすべきことは、自分の脳味噌を疑うことでも、現象を解き明かすことでもなければ、起こってしまったことを悔やむことでもありません」


 また、心を読み当てられてしまった。星本さんは穏やかに続ける。


「記憶に残しておくことです。あなたの『先輩』のこと、そして忘却してしまったという事実を」


 記憶に残す……。


「トーテムポールには幾つかの種類があると申し上げました。その内の一つに、起こった出来事を残すための標柱もあります。人は忘れるように出来ています。仕方ありません。辛いことも悲しいことも、鮮度が保たれてしまっては心が壊れてしまいますから。しかしながら忘れたくないことも薄れてしまうのは、上手くゆきませんね。歯痒いものです。西条さんは彼女の顔を思い出せますか?」


 俺は膝の上で拳を握りしめ、首を振った。


「こういう場合、霊能者とか……プロに依頼するべきでしょうか?」

「西条さんがそうされたいのであれば」と星本さんは答えた。


「霊能者に依頼するのでも止めはしません。ただ、電話でも言いましたが、その人はもう戻って来ないと思った方がいい。期待を持つのは酷ですから。……大変、残念ですが」


 拳を強く握ると、肩が震えた。

 星本さんが「そうそう」とテーブルに数冊の本を置く。


「こう見えて、私読書が趣味なんです。人は見た目によらないってね。山のオフシーズンはロッジも閑散としますから、本は暇潰しにもってこいなんですよ。特に民俗学が好きでして。私のお下がりですみませんが、よろしければ差し上げます」

「え? ええ……」


 急なプレゼントに少々面食らいながら、テーブルに置かれた本を手に取った。柳田国男……折口信夫……その他名の知れた民俗学者の著書が重ねられている。


「今回の出来事を受け入れるための一助になればと」


 その言葉に、俺はふっと肩の力を抜いた。なるほど。こちらもまるで、カウンセリングだな……。


「これは比較的新しい本です。井出霧子の『怪異が息づく世界』。独自の怪異の解釈が参考になります」


 参考、ね……。

 俺は素直にお礼を言った。そしてまた、星本さんのペースに呑まれそうになっている自分を自覚した。俺に必要なのは民俗学ではなく、医学的な治療かもしれないのだが。そう思うと、無意識のうちに自虐的な笑みが零れていた。


「もう、慧ってば。そんなに心配しなくても大丈夫だって!」


 頭の中で先輩が笑い飛ばしてくれる。



 コーヒーを飲み終わってから、星本さんが運転する車でカイイカラ・ビレッジへ向かった。

 以前はカイイカラ・ビレッジのすぐ近くにも散策路が通っていたそうだが、数年前に発生した土砂崩れのために未だ閉鎖されているという。周辺を少し歩いただけで、テントを張れるような広場などどこにもないことは明らかだった。

 先輩だけでなく、訪れた場所も消えているというのは――説明のつかない怪異を目の前に突きつけられた気分になり、目の前が真っ暗になる。怪異が形どられてゆくのは、これまでの常識が壊れるようで恐ろしくもあり、先輩が俺の頭の中の妄想ではなく、確かに存在していたことの証明として喜ばしくもあった。

 いや、果たしてそうだろうか?

 秋キャンの記憶自体、俺の願望が混ざって都合よく改竄されているのではないか?


 星本さんは自宅に招いてくれた。自宅は平屋の一戸建てで、家の入口にもトーテムポールが建てられていることに彼らしさが感じられる。

 俺を気遣ってくれているのだろう。……世話好きな人だ。星本さんが台所でお茶を淹れてくれる間、俺は先輩のことを思い出していた。たしか先輩も――こんな風に俺を気遣い、寄り添ってくれた。

 星本さんは話し上手で、気落ちした俺の心も徐々にほぐれていった。星本さんの年齢は五十三才。第一印象で六十代前半まで見繕ってしまっていたことは心に秘めておこう。立派な髭のせいで年齢がわかりづらいのである。彼はキャンプだけでなく登山も嗜むらしい。その上、暇さえあれば彫刻にも精を出しているそうだから多趣味だ。

 室内には小さな女の子がいる痕跡があった。幼児用の絵本。着せ替え人形。いちごのヘアゴム。そこで、俺は電話口で女の子が応答したことを思い出した。聞けば、よく妹が娘を連れて遊びに来るのだそうだ。だからこうして姪の物が増えていくのだと。

「おかげで独り身でも寂しくないんですよ」と星本さんは笑った。


 会話の最中に電話が鳴った。それは宿泊客からの問い合わせの電話で、星本さんは一度ロッジへ顔を出すことになり、俺は留守番を任された。出会ったばかりの人の家に一人でいることに申し訳なさと気まずさを感じ、俺は庭に出た。

 家の裏手は急斜面が迫り、そのまま山に繋がっている。木が抜かれた跡なのか、畑作業の途中なのか、掘り起こされた穴があちらこちらに点在していた。

 ぶらぶらと歩いていると、斜面に大きな石が置かれただけの簡単な階段を見つけた。ここから山に登れるように星本さんが整えたのだろう。つくづく、山が好きなのだなと感心する。

 俺は石段に足を掛けた。手持ち無沙汰だし、鬱屈とした気分を晴らしたくもあった。

 裏には細い散策路が通っていた。両脇に曼珠沙華が咲き誇り、その先には白い煙が立ち昇っている。

 俺は、強烈な既視感に襲われた。


 ――まるで、あの日の朝のような。


 無意識のうちに俺は煙の方角へ駆けだしていた。曼珠沙華が並び咲く小道を駆け抜けると、道が大きく拓ける。ぽっかりと、そこだけ木も花も植物も生えていない、殺風景な場所。煙は、その中央に置かれた七輪からたなびいていた。

 七輪の前には、男性が座り込んでなにかを焼いている。白い。なんだろう。おにぎりだ。いや、おにぎりのような何か、だ。


「こんにちは」と男性が挨拶をした。

 俺は挨拶もそこそこに、ずかずかと男性に近寄った。俺の無礼さを咎めることもなく、彼は「お一つ、いかがですか」と言った。

 おにぎりの表面に美味しそうな焼き目がついている。香ばしい香りが漂ってくる。


「はい。いただきます」


 俺は即座に答えた。

 男性が、にんまりと微笑む。

 最早、自分自身の精神疾患を疑う気持ちなど、どこかに吹っ飛んでいた。あの朝の再現のような状況に、運命めいたものを感じる。すべてが俺の中で確信に変わる。ヨモツヘグイ。先輩が絡め取られたものと同じ現象が目の前にある。それならば躊躇などするものか。また先輩に会えるなら。死者の国に引き込まれようがなんだろうが構わない。先輩に会いたい。会いたい。会いたいんだ!

 俺は熱さも厭わず、おにぎりに手を伸ばした――


 ――瞬間、誰かが俺の手首を掴んだ。


 視界の端に、赤いパーカーが目に入る。

 その服は。

 先輩の。

 咄嗟に、俺は彼女の方を見た。

 そして、後悔した。

 顔の半分を占める大きな目。

 全身を震わすほどの鳥肌が立ち、俺は瞬時にのけ反った。

 光沢のない黒目が、水面に浮かんだ皿のようにゆらゆらと動いている。黄色く濁った白目の中で、黒目が四つに分裂したかと思うと、ヴ――ンという音が鳴った。さらに四つに。さらに四つに。細かく分かれ、その度に電子音のような、耳鳴りのような、耳障りな異音がヴ――ンと鳴った。黒目で覆いつくされた目玉は自然が定まらないのか、常に蠢いている。

 異形。

 それ以外に形容のしようがない。

 見たくないのに、目が離せない。釘で刺しただけのような鼻の穴。唇だけが橙色に艶々と光り、口の中で何やら呟いている。

 悲鳴が聞こえた。

 その出所は、俺の喉であった。

 俺は地面に這いつくばり、無我夢中で後ずさった。腕、足が、思うように動かない。

 異形の、小さな唇が動いた。ヴ――ン。

 おーい、とも似た音程。

 唇の動きだけが普通の人間らしく、滑らかで、それが却って不気味だった。


「慧」


 俺の耳に、先輩の声が届いた。


 ――先輩!


 まさか。まさか、先輩なのか?

 返事をしたかったが、小さな悲鳴しか出なかった。もう二度と聞くことは叶わないと覚悟していた先輩の声。無条件に、胸が震える。

 粘膜が擦れるような不快な音が、地響きのように足下から聞こえたかと思うと、頬になにやら冷たいとも熱いとも判断がつかない感触があった。ただ自分の体温とは異なるということだけがわかった。

 赤いパーカーの袖から、毛皮を着たミミズのような腕が十数本も伸びている。そのうちの一本が長く伸びて俺の頬を触ったのだった。両腕は、両の目玉と同じように、休むことなく常に蠢いている。まるで一秒たりとも同じ状態ではいられないみたいに。

 裾から下には胴や脚と呼べるような物はなく、説明しようにもうまく認識ができない。まるで地面から生えているように、山と一体化して見える。

 ヴ――ン。ヴ――――ン。

 すべての事象が、何秒も遅れて理解されていく。

 視界の端で、七輪でおにぎりを焼いていた男の顔がぐにゃりと歪んだ。人間の顔が壊れていく様を目の当たりにするのははじめてだった。まるで絵画のムンクの叫びのように輪郭が捻じれてゆき、口が縦に広がる。

 ひっと喉が鳴った。

 悪臭が鼻をついた。魚が腐敗したような生臭さ。それは、七輪の上のおにぎりから漂ってくるのだった。ぐずぐずと形が崩れ、茶色に黒に変色している。最早、到底口に出来そうな代物ではない。

 食べては、いけない。

 瞬間、山の樹々が一斉にざわめいたように感じられた。

 足の感覚が戻ったのを感じた瞬間、俺は全身に力を込めて立ち上がった。音が、臭いが、遠ざかる。ヴ――――ン。ヴヴン。もうなにも考えられなかった。先輩のことも。なにも。ただただ無我夢中で、元きた道を全力疾走で駆け下りた。後ろも振り返らずに。

 山の斜面から転がり落ちるように走り、穴につま先を思い切り突っ込んで顔から倒れ込んだ。打撲した鼻や額、頬、全身が心臓になったようにドクドクと脈打っている。

 恐怖が落ち着いてくると、胸がぎゅうっと締め付けられた。喉が痛いほど熱くなる。ぐっと堪えていると、今度は鼻の奥がツンと痛みはじめる。頭から爪先まで、体温が一気に上昇する。


「西条さん! どうしました?」


 帰宅した星本さんが、庭先に丸まった俺を見て驚いた声で尋ねた。それに答えることもできず、俺は顔を覆った。次から次に零れる涙を止めることも出来ずに。


「すみません。穴に足を掛けてしまったのですね。手当てをしましょう」


 庭先には、裏山に続く石段なんて存在しなかった。夕日に照らされたトーテムポールが長く影を落としている。黒い絵の具で塗られた瞳は微動だにせず、前を向くばかりだった。

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