後編・終 カイイカラ

 自宅マンションのポストに白い封筒が投函されていた。達筆な宛名書き。差出し人は――飯嶋克己。

 大学を卒業してから十余年が経ち、俺も克己もとうに三十路を過ぎた。克己が年明けに結婚式を挙げるという話は聞いていた。印字された招待状に「絶対来いよ! イエ~!」と手書きされているのに笑いが零れた。

 学生の頃から付き合っていた心配性の彼女とようやく入籍したらしい。俺の方はさっぱり、相変わらず女っ気はない日々を送っている。母の十三回忌で会った父からもそのことを心配されてしまったが、大きなお世話だ。人間どうとでも生きていける。

 俺は毎年、秋のこの時季にキャンプに行くのが恒例になっていた。以前は一人でキャンプをするなんて……と周囲から変わり者扱いされていたが、昨今のキャンプブームのおかげでソロキャンパーなる肩書をいただき、特段珍しがられることもなくなった。

 キャンプのときにはそこに泊まるときも泊まらないときも、決まってカイイカラ・ビレッジに立ち寄って星本さんに挨拶をする。あの一件があって以来、星本さんとは懇意にしていた。ぽっかりと空いた気持ちを埋めるように、俺はこの山に訪れる。


「西条さん。お久しぶりです」


 その日、星本さんの自宅訪ねた俺を待っていたのは二十歳くらいの女性だった。今日の用事はキャンプではない。


「伯父が生前お世話になりました」

「いえ。私こそ星もとさんには大変良くしていただきました。……この度はご愁傷さまでした」


 彼女は黙って頭を振った。彼女は星本さんの姪。初めて会ったときは幼稚園だか小学生だったか小さな女の子だったのに、すっかり綺麗な女性に成長した。

 星本さんが亡くなったと聞いたのは今夏のことだった。闘病していることは星本さん本人から聞いていた。最期まで山にいたいと言って直前まで自宅で過ごしたそうだ。

 星本さんらしいことだ。彼は独身を貫いて、山を愛した。

 カイイカラ・ビレッジは売り手がついたらしい。この自宅も手放すのだという。その前に是非、と俺に連絡をくれたのだ。もしよければ大量の蔵書や星本さんの作品を引き取って欲しいということなので、俺を呼んだのはこちらが本題だろう。

 トーテムポールはこの十年でずいぶんとくたびれ、老朽化していた。


「トーテムポールは本来、人の手で修繕して保護されるようなものではなく、木の劣化するまま、朽ちゆくままに任されていたそうです。ですから古い物は現存していないんですって。伯父がそう言っていました」

「へえ……」


 朽ちゆくままに。時の流れのままに。

 素晴らしい潔さだ。未だ、大学の頃に失った『誰か』を忘れられず、過去に固執する自分とは大違いだ。

 本棚には星本さんがとくに好んでいたクヮクヮカワク族の書物が多く、大半がトーテムポールに纏わる資料だった。適当に棚から抜き出し、頁を捲る。星本さんが聞かせてくれた不思議な話の数々は、たしかに俺の傷を鋳やしてくれた。

 ふと、革製の背表紙に目が留まった。棚から引き抜けば、これもクヮクヮカワク族の民話集である。劣化して黄色くなったページに、一枚だけ付箋が貼ってある。

 目印がされたページを開くと、やはりこれも民話であった。



   * * *



 父と、母と、小さな娘の家族が住んでいた。ある昼間、父と母が外出から戻ると、留守番をしていた娘が泣いている。


「何があったのだ?」


 父が尋ねる。しかし娘は答えない。


「言わないとわからないわよ」


 母が宥めた。娘はますます声を張り上げる。

 怒ったり、甘やかしたり、抱いてやったりしたが、まったく泣き止む様子がない。その夜、父は村の集まりのために呼ばれ、母は娘を夜まであやし続けた。結局、泣き止まない娘に根負けしてしまい、母親は眠りについた。

 会合から帰った父は驚いた。眠る妻の傍らは空っぽで、娘は家のどこにもいない。慌てて妻を揺り起こし、「娘はどこだ」と聞く。二人は大慌てで外に飛び出した。

 すると娘の泣き声が聞こえるではないか。両親は探し回ったが、姿は見えない。それにどうも、娘の声は地面の下から聞こえてくるらしい。まさかと思い、両親は声のする辺りを掘り返した。すると今度は声が別の場所に移動して、遠くから聞こえる。両親はそちらに走り、地面を掘った。また声は移動する。それを幾度となく繰り返し、両親はついに諦めた。

悲しみに暮れる両親の元に、一羽のカラスが訪ねて言った。


「あの日、お前の娘は、地面に落ちていた鮭を勝手に食べてしまった。それが良くなかった。お前の娘は永遠に地の底から出られまい」


「鮭を食べただけで?」と父は驚いた。

「貴方は一部始終を黙って見ていたなんてひどいじゃありませんか」と母は文句を言った。


 カラスは喋り終わると、そのまま空へ飛び立ってしまった。娘は帰らなかったので、この話はおしまい。



   * * *



『地面の下へ消えた娘』と題された民話は、これもヨモツヘグイと類似する。どうして星本さんはこの話を教えてくれなかったのだろう。彼の好きな論理なら、真っ先に例に挙げたように思えるが。

 星本さんの部屋に座り、しばし星本さんに思いを馳せていると、彼の姪が何を持ってきた。どこか気まずそうな表情を浮かべている。


「これ伯父の遺品にあったんです。西条さん、ご存知じゃありませんか?」


 それはスケッチブックだった。初めて見るもので、「知りませんね」と答える。芸術が好きな星本さんのことだから意外ではないが、絵を描いていた時期もあったとは。蔵書も、登山道具も、彫刻作品も多い。遺品整理はさぞ一苦労なのだろうなと苦笑したい気持ちになった。

 スケッチブックの表紙をめくると、女性の顔が描かれていた。……知らない女性だ。誰かの似顔絵だろうか?

 二枚目も、同じ女性の顔が描かれていた。

 三枚目も。四枚目も。

 ページを捲るにつれ、だんだんと女性の顔が変化していく。顔の立体感がなくなり、平面的になる。良く言えばイラスト的――悪く言えば、人間味が薄れていくというか。


「うわっ」


 ついに俺はスケッチブックを取り落とした。

 姪が、どこか気味が悪そうにこれを持ってきた理由がわかった。

 最後のページに描かれた顔。

 巨大な目玉に、無数の黒目。点が置かれただけの鼻。やけに人間的な唇。そして大きな羽根を広げた――異形の絵。

 俺が最後に見た『先輩』の顔に似ている。あれから、もう二度と出会うことができなかった先輩の顔に。


「すみません、ちょっと外の空気を吸って来ます」


 混乱していた。

 最後に見た先輩の顔は、思い出すのも辛く、星本さんも詳しくは話せなかった。星本さんも、深堀りしようとはしなかった。なのにこの一致は。

 裏手には、あちこち掘り起こしたままの穴ぼこが散在している。

 穴……。

 あのとき、俺は穴に足を引っ掛けて転んだ。星本さんは初め、俺が痛くて泣いているのだと勘違いしたのだ。


 ――何の穴なんだ?


 なぜか、これまで考えたこともなかった。いや、厭な記憶と関連するために思い出そうとしなかったのかもしれない。

 ふと、スコップを手に、一人、大切な人の声を追って地面を掘り返す星本さんの姿を想像する。

 何の根拠もない。ただ、先程読んだ民話を彷彿としただけだ。

 しかし……もしかしたら星本さんも、昔、山で誰かを失くしたのではないだろうか?

 だからあのとき俺に親身になってくれたのではないか。スケッチブックに描かれたのは俺の『先輩』ではなく、同じように消えた星本さんの『誰か』なのでは……。

 このことにもっと早くに思い至っていれば、尋ねたら答えてくれただろうか。だが、もう星本さんはいない。真相は謎のままだ。

 俺は、数冊の本とスケッチブックの最初の一枚だけを切り取り、星本さんの形見としていただくことにした。


「お世話になりました。キャンプ場に立ち寄ってから帰ろうと思います」

「こちらこそ、お越しいただけて良かったです。カイイカラなんて伯父も変な名前をつけましたよね。確かに妖しげな事柄が好きな人でしたけれど」


 見送ってくれた星本さんの姪に手を振り、俺は車を発進させた。

 最後の名残を惜しむためキャンプ場に立ち寄った。入口に聳え立つ古びたトーテムポール。そのモチーフとなった熊、山女魚を持つ男、ダイダラボッチ、そして天辺はサンダーバード――ではないと、今ならわかる。

 あれは星本さんが失い、あちら側に馴染んでしまった誰かの姿を模しているのだ。憶測だが、きっとそうだ。

 カイイカラ……先住民の言葉で「火」。

 星本さんはずっと、この場所で火を灯していたのだろう。大切な誰かが帰って来られるように。同じように喪失にあえぐ俺が、道に迷わぬように。

 そうして照らしてくれた星本さんも、もう居ない。俺はいよいよ一人きりで喪失と向き合わねばならない。


 澄み渡った空の、薄い青。

 どこまでも続く白い鰯雲の群れ。

 枝に鈴なりに生った赤い木の実が風に吹かれ。

 黄色に染まった葉が木漏れ日に透く。


 ――まさに秋晴れ。


 あのキャンプの日、先輩に想いを伝えられていたら、何と返事をくれたのだろう。応えてくれただろうか。はぐらかされただろうか。それとも。

 やり直せない選択肢を夢想しながら、俺は山を仰ぐ。霞を掴むような記憶の中に、あなたが佇んでいる。


「先輩。俺、あなたが好きです。ずっとずっと、好きです」


 声は山に吸い込まれ、返事はなかった。




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