前編・5 誘う如く消えゆく

「あの、先輩。俺――」


 口を開きかけたとき、ひときわ大きくヴウン! と音が鳴った。先輩の耳にも届いたらしく、「やだ!」と俺の腕を掴む。


「蛾かな? ねえ、慧、見える?」


 暗闇をきょろきょろと見渡しながら、先輩はがっちり俺の腕を抱いている。顔が赤くなるのを感じながら、なるべく冷静に聞こえるように「山ですから蛾くらい飛びますよ」と答えた。

 後ろから、スコップを手にした星本さんが走って来る。


「こっち、聞こえた?」

「えっと……あの音ですか? はい。何なんですかね。虫ですか?」

「いいの、いいの。ちょっとここ掘っていい?」


 星本さんがざくざくと土を掘り返す。


「いないな。ありがとう!」


 また軽快に走って行く星本さんを見送り、俺と先輩は顔を見合わせた。


「何かこのキャンプ場……変だな」

「変?」


 昼間の出来事が頭にこびりついている。あれだって疲労による幻覚かもしれないが……それにしても、なんだか……。


「で、何を言いかけてたの?」


 小首を傾げた先輩は可愛かった。が、この雰囲気で告白の仕切り直しというのは難しく、自然を装って話題を転換した。


「二年前、どうして俺のことを家に泊めてくれたんですか?」

「どうしてって」と先輩は呆れた顔をして「家に帰りたくないって泣いたのはどこの誰だったっけ?」と言った。


「……それは、俺ですけど。普通は泊めないでしょう。あのときは出会って半年くらいしか経ってなかったし。それに俺、一応、男だし……」

「出会ったばかりの男の子ということを置いておくらい、普通の精神状態じゃないと思ったから泊めたんだよ」


 先輩は簡潔に答えた。


「それだけ」


 先輩との間に沈黙が流れる。

 それだけ……、か。

 俺は言葉を続けられず、じっと俯いた。……俺は、どんな言葉を期待していたんだろう。


「どうしたの、急に。その話題は避けてた節があったじゃない。何か心境の変化でもあった? 舞のこと?」

「いえ。ずっと、きちんとお礼を言わないといけないとは思ってたんです。遅くなっちゃいましたけど。あのときはありがとうございました」


 先輩は河原の石をひとつ拾って、放り投げた。

 ぽちゃんと水面を破って石が落ちる音がした。


「やだな。なんか、改まって言われるとさ。卒業を意識しちゃうよ」


 珍しく先輩がセンチメンタルなことを言う。いつもは俺が弱気なことを言って、先輩が前向きな言葉を掛けてくれるのに。


「寂しいな」

「先輩でも寂しいって思うんですね」

「あたしを何だと思ってるの?」


 先輩が手をグーの形にして、俺の頭を軽く叩く。


「卒業しても、俺達は疎遠になんかならないでしょ」


 俺を叩いた拳を緩めながら、先輩はぽかんとした顔をした。


「……そうだね。そうだった」


 そして、表情をふにゃ、と崩す。


「約束、覚えてるんじゃん」


 覚えてますよ。

 そりゃ。


「あのときは……さ。慧を家に帰したら、お母さんの後を追って死んじゃうんじゃないかと思って怖くなっちゃって。あたしなんかでも一緒にいて支えになれるのなら、泊めるくらい何でもなかったんだよ。実際、どうだったの? ありがた迷惑じゃなかった?」

「まさか。迷惑どころか、本当に感謝しているんです。俺、母が亡くなる前から色々あって。その……」

「うん?」


 先輩が体育座りをして、俺の顔を覗きこむ。

 俺はビールの缶を握りしめて話しはじめた。

 先輩に話を聞いてもらうのは、これで何度目になるのかなと思いながら。



 母が亡くなる数ヶ月前から兆候はあったのだ。俺がひとりでぐるぐる悩んでいるうちに、手遅れになってしまっただけで。

 母は随分とやつれた。張りがあった肌はたるみ、黄色く、染みが濃くなった。丸く可愛らしかった大きな目は今や深く窪み、ぎょろりとして、黒目に光は宿っていない。ソファでぼんやりと座っている母の顔を見つめながら思った。

 俺の視線に気付いた母が「何よ」と呟いた。その声色だけで機嫌が悪いとわかる。俺は「ううん。何でもないよ」と努めて穏やかに返事をした。母親が顔を正面に向けたまま、目だけを端に寄せ、俺を睨んだ。のっぺりとした黒い瞳が俺を見つめている。驚いて動けずにいると、母がゆっくりと立ち上がり、乱暴に俺の両肩を掴んだ。母親は唇をわなわなと震わせながら言った。


「あんたのせいだって、わかってる?」


 がくがくと肩を揺らされながら、何を言われているのかさっぱりわからなかった。俺のせい? なにが? ああ。俺と父親を見間違えているのだろうか。だって、俺は――


「あんたさえ産まなければ」


 いや。違う。

 俺のことだ。俺に言っている。


「あんたさえ産まなければ幸せでいられたのに」


 母の口から唾が飛び、俺の顔を濡らした。

 憎しみの籠った目が、ぎょろりと俺を見下していた。


 ――お母さん。それが本音なの。


 幼い子供のように泣きたくなるのを、唇を噛んでぐっと堪えた。ここで俺まで取り乱したら、全部終わってしまう。もう俺には、母親しかいないというのに。

 そのあと俺がどう振る舞ったのか。記憶は遠く、残っていない。恐らくは、何事もなかったかのように母は自室に戻ったのだろう。

 翌日、午後の講義が教授の都合で急に休講になり、俺は久々に家で昼ご飯を作ろうと思い立った。俺の作る炒飯が好きだと言ってくれた母。起きていれば食べてくれるかもしれない。

 大学を出る前に母に電話をしたが応答はなかった。そのまま帰宅するとリビングは静まり返っていた。いつものことだ。最近はテレビの音量もうるさく感じられるらしい。昨日こともあって母のことが心配だった俺は、真っ先に母の部屋へと向かった。ノックをするが、返事はない。

 ドアを開けるとさっきまで寝ていたように、ベッドの布団がめくられている。触ると、あたたかい。トイレにでも行っているのか?

 俺は自分の部屋に向かった。ドアを開けて鞄を床に――置こうとしたとき、目の前でつま先が揺れていた。きれいに揃った足。丸っこく、短い指。見慣れた、足。

 母は、俺の部屋で首を吊っていた。

 遺書はなく、病院で久々に父と会った。他人行儀な挨拶に内心苦笑し、しかし来てくれたことに感謝した。葬儀を終え、疲れ切った頭では、今後のことを考えるのも億劫だった。一人では広すぎる家からも、いずれ引っ越さなければと思いながら。

 呆然とした日々が過ぎた。

 充電コードに繋ぎっぱなしのスマートフォンの着信音が鳴った。


「慧。最近大学来てないけど、大丈夫なの」


 その夜、先輩に誘われたアパートで、俺は吐くほど飲んで、さんざん先輩に迷惑を掛けた。酔った勢いで「家に帰りたくないんです」と弱音を吐いたら、「じゃあうちにいたら、いいんじゃない?」と言って、それから二週間、俺は先輩の家に入り浸った。

 男女の関係もなく先輩と暮らしたあの期間は飛ぶように過ぎ、俺は憑き物が落ちた気分で実家に戻り、父と一緒に遺品整理を始めた。

 今日に至るまで、半月も先輩と一緒に暮らしたことは誰にも言わなかった。言えなかったのだ。克己にすら。だって情けないだろう。

 勢いで先輩の好意に甘えすぎた自分を、俺は恥じた。先輩はあのことを話題にすることもなく、何事もなかったかのように大学で会い、飲みに行く。俺達の関係は以前と変わらなかった。

 俺はこの人のことを心から尊敬した。俺が先輩の立場だったら、相手に同じようにしてやれただろうか。寄り添えただろうか。……いや、無理だ。きっと電話することすら躊躇ってしまう。迷惑だと思われたら。邪険にされたら。無視されたら。どうする? 相手のことを思い遣っているわけじゃない。相手に拒絶されたときに自分が傷つくのが怖いのだ。臆病なのだ。逃げ腰なのだ。

 先輩。

 強引で、我儘で、傍若無人で、お節介な女性ひと

 でも――俺にとっては誰より優しい。



 暫くの沈黙があった。

 せっかくの秋キャンなのに暗い話を聞かせてしまった。こちらは話してすっきりした後で後悔しはじめるのだから、我ながら勝手である。先輩はふう、と息をついてから、ぽつりと「慧の記憶には、亡くなる前日のお母さんが一番強く残ってるんだね」と言った。


「そうかもしれません」


 自分の手が微かに震えているのに気づく。俺は缶ビールを地面に置き、両手をポケットに突っ込んだ。


「慧のお母さんは心を病んでしまって、亡くなる前にすでに遠い世界に行っちゃってたんだね。だから、亡くなる直前に言われたひどい言葉も、覚えておかなくていいんだよ。忘れちゃいな」

「あれは、なかなか忘れられませんよ」


 母の――あの仄暗い目を思い出すことが怖くて、母のことをなるべく思い出さないようにしていた。


「でも、お母さんが優しかった頃の思い出の方が多いんじゃない」

「それは」


 返事をしかけて、反射的に涙が流れる。

 昔は、優しい母だった。

 転校を繰り返していた俺が見知らぬ街に早く馴染めるように、引っ越すたびに色々なところに連れていってくれた。休日も仕事やゴルフで留守にしがちな父の代わりに、母が車を運転して。公園。博物館。遊園地。ハイキング。子供が興味を持ちそうなところを選んで。

「ここもいい街だね、慧」と。そう言った、母の笑顔。

 対岸の鬱蒼と茂る樹々。幹と幹の間に、ぼうっと浮かび上がる白い人影があった。もちろん幻覚だ。白い光は曖昧な輪郭を形どり、優しく俺に笑いかける。澄み切った夜の空気に懐かしい母の香りが漂った。記憶の奥深くに仕舞われてた母の包み込むような顔が。長らく、忘れていた、笑顔が。目を瞑ると、母の声が聞こえるような気がした。鈴虫やコオロギがしゃんしゃんと鳴く声だけが響く。

 瞼を開いたとき、幻覚はすでになかった。夜の森がぽっかりと口を開けているだけだ。

 先輩が「そろそろ、キャンプファイヤーに戻った方がいいかな。皆に心配されそう」と言って立ち上がる。

 俺は咄嗟に、先輩の腕を掴んだ。


「先輩。このキャンプが終わったら、どこか行きませんか」


 え、と先輩は小さく口を開けた。


「うん。あたし新宿に気になっている焼き鳥屋があるんだけど、そこでもいい?」

「えっと。その、飲みじゃなくて。いや飲みでもいいんですけど」


 先輩が首を傾げる。


「デートってことで……その……」


 先輩がますます首を傾げ――数秒後に、しゃんとした。


「なるほど。了解した」


 この暗がりでもわかる。

 先輩の顔が――耳まで、真っ赤に染まっているのが。



   * * *



 早朝、胃の気持ち悪さで目が覚めた。洗面台に立つと、これまたひどい顔が鏡に写った。夜通し酒を飲んだせいで顔がむくんでいる。

 ロッジの床には数人の後輩が倒れるように寝ていた。俺は手早く歯を磨き、顔を洗うと、ロッジの外に出た。案の定、東屋やバーベキュー場に酔いつぶれて転がっている面々。……予想通り、死屍累々である。

 時間は、朝五時。

 まだ昨日の酒が残っていて、胃が気持ち悪い。山の綺麗な空気を吸い込むと、自分の酒臭さで気持ち悪さを覚えてしまった。


「おはよ」


 先輩が寝ぼけ眼で歩いてくる。昨日と同じくジーンズ、スニーカーというカジュアルな格好だ。今日のパーカーは赤色だ。派手な色味もよく似合っている。


「先輩、早いですね」

「眠りが浅くてさ。目が覚めちゃった」


 まだ他のメンバーは起きて来そうにない。俺と先輩は運動がてら近くを散策することにした。朝はひときわ空気が清涼だ。土の香りが濃く感じられる。道に沿って咲く曼珠沙華の花が、朝日を受けて艶々と光っていた。

 どろどろの感情はすっかり外に流れてしまって、やっと心が清浄された気分だ。

 木漏れ日の合間に、白い煙がのぼっているのが見えた。近づくと、道の脇の小さな広場にテントが張ってあるのが見えた。昨日舞と歩いたときには気が付かなかったが、ここにもキャンプ場があったのだ。もしかしたら隣のキャンプ場の一角なのかもしれない。

 その煙は、テントの傍から立ち上っていた。テントの陰からすっと細長い影が出て来た。遠くてはっきりしないが、背格好からして男性だろう。彼の他には誰の気配もない。単身のキャンプ客かな。

「おはようございます」と先輩が挨拶をすると、男性も「おはようございます」と返事をし、ずんずんとこちらへ向かってきた。

 近くに来られてわかったが、随分と背が高い。2メートル近くあるんじゃないか。バレーボールやバスケットボールの選手だと言われたら納得できる長身だ。


「あなた達もキャンプですか」

「はい。近くのロッジに泊まっているんです」


 先輩がにこやかに答えた。

 その様子を見ていて、俺はふと昨日の出来事を思い出してしまった。あの、気味の悪いおじさんのことだ。この彼は、あんなことにならないだろうな……。


「良かったら、一緒に朝食を食べませんか」


 先輩は即座に「えっ。いいんですか?」と返事をした。

 男性のテントの傍にはバーベキューのコンロがあった。炭火が燃えて、ぱちぱちと音を立てている。その上に、なんだろう。白いなにかがふたつ、載っている。

 餅……? それにしては大きい。


「パンですか?」


 先輩が尋ねた。


「そうです。カレーやバーベキューも良いですが、こうして炭火でパンを焼いて食べるのもキャンプのご飯の楽しみなんです。ふふ」


 男性がトングでパンをひっくり返した。こんがりと表面が焼けている。小麦の香ばしい匂いが漂う。

 なんて美味しそうなんだ。

 しかし、俺の胃はそんなもん消化できないぞとでも知らせるようにギュル、と鳴った。


「焼けました。どうぞ」


 紙皿にパンを乗せ、男性が差し出す。

 俺は「すみません、俺は二日酔いで……」と断った。男性は残念そうに皿を引っ込めた。俺も残念だ。小麦色に焼けたパンがほかほかと湯気を立てているというのに。隣では先輩が嬉しそうにパンを頬張っている。


「もったいないなあ、慧。こんなに美味しいのを食べられないなんて」


 先輩の酒の強さには感心させられる。俺と同じ位、いやそれ以上は飲んでいたくせに……。


「炭火で焼けばなんでも美味しい。ふふ。山の暮らしはいいものです」


 先輩がパンを食べ終わると、俺達は男性にお礼を言ってもとの道へ戻った。時計を見れば九時を指している。いつの間にこんな時間経過したのか……色惚けもいいとこだ。チェックアウトは十時だ。急いで戻らねば。

 まだ寝転がっている面々を叩き起こして、なんとかチェックアウトの時間に間に合わせた。

 十時きっかりに、星本さんがやって来た。

 備品類の返却の確認と、ロッジの中を確認される。


「はいはい。大丈夫ですよ。気を付けて帰ってくださいね」

「お世話になりました!」と元気に挨拶をしたのは克己だ。


「楽しかったっス!」

「それはそれは、何よりですよ」


 ふさふさした口髭を撫でながら、星本さんが照れくさそうに笑った。いつのまに親しくなったんだ。俺の知らぬ間に。

 行きと同様に、俺と克己が車を運転して帰る段取りになっていた。トランクに荷物をすべて詰め込み、車に乗る。先輩をはじめ女子達は克己の運転する車に乗車した。

 これで秋キャンもおしまいか。

 色々あったが――終わり良ければすべて良し。うん。

 告白はできなかったがデートの約束はできたし、それで良しとしよう。帰ったらさっそく行き先を考えなきゃな。

 カーナビの設定に少し時間が掛かり、俺達は克己達の車が出てから数分遅れて出発した。バックミラーに映る星本さんに見送られながら、俺は車のアクセルを踏んで、カイイカラ・ビレッジを後にした。

 ここから三十分は山道でカーブが続く。後部座席ではしゃぐ後輩達には参加せずに運転に集中した。しばらく山を下ったとき、前方、車道の左側――つまり山側に、誰かが立っているのが見えた。軽装で、登山客ではなさそうだ。この山道を歩くなんて珍しい。

 その人を車で追い越したとき、俺は、自分の目を疑った。

 小柄な女性。

 長い髪の毛。

 ジーンズ。スニーカー。

 赤色のパーカー。


 ――え?


 今、山の斜面を降りたところに立っていたのは、先輩ではなかったか。いや、先輩は克己の車に乗ったはずだ。こんなところで降りるはずがない。よく似た格好の他人だ。

 ……しかし、なぜだろう。胸騒ぎがする。

 俺は前を向いたまま助手席の後輩に話しかけた。


「さっき、外に先輩立ってなかった?」

「先輩? って、どの先輩ですか?」

「どのって、そりゃ――」


 後輩の冗談に返事をしようとして、俺は言葉を失くした。



 ――誰のことだ?



 急に眩暈がして、俺は急いで頭を振った。

 何やってる。運転中だぞ。

 俺は同乗している後輩達に断って、路肩に車を停めた。

「慧さん、大丈夫ですか? 俺、運転変わりましょうか」という後輩の申し出に、俺は「いや。ちょっと休めば大丈夫」と言った。

 車から離れて震える手でスマートフォンを取り出す。電話を掛けようと電話帳を開いたところで、違和感を覚えた。先輩の名前が思い出せない。ど忘れか? それにしては……なんだか……。

 駄目だ、一人で考え込むのは良くない。昨日から俺はおかしい。星本さんが彫ったトーテムポールにビビったり、キャンプ場でおっさんの目が異常な動きをしたように見えたり。疲れている。疲れているのだ。


「――もしもし。舞か?」

「慧さん? どうしたんですか?」

「ごめん急に。確認なんだけど、そっちの車に先輩乗ってるよね?」

「え?」


 不思議そうに、舞が聞き返した。


「先輩、って?」


 舞の声色に、不安が増大した。

 おいおい。まさか。


「今回のキャンプ、四年生は誰も参加してないですよね」


 舞の言葉を聞いた瞬間、俺は電話を切った。


 ――そうだ。このキャンプは、四年生は誰も参加していない。


 四年生は今月末にある卒論の中間発表の準備に追われていて、今年の秋キャンは全員欠席だと、前代表がまとめて連絡をくれたじゃないか。

 いや待ってくれよ。

 先輩だけは参加していたはずだろ。

 だからその、先輩って誰だ。

 ふざけんな。

 先輩は、先輩だろ。

 頭の中が、細いペンで出鱈目でぐちゃぐちゃに塗りつぶされていくような、黒い糸に脳味噌をぐずぐずと絡めとられていくような、言いようのない気持ち悪さに襲われた。

 動悸がひどくなり、全身が小刻みに震えだす。キーンと高音の耳鳴りがした。頭に血が上っているのだ。

 山の空気だ。山の空気を吸え。

 俺は深く深呼吸をして、思考を整えようとした。

 思い出せ。先輩のことを。

 赤いパーカーにジーンズ、スニーカー。さらさらの長い髪。花の香りまたは石鹸またはシトラスの何かしらの良い香り。

 記憶を手繰り寄せようとすればするほど、手中から零れ落ちる水のように、先輩の存在が失われていくのがわかった。

 名前が思い出せないどころか、顔も思い出せない。

 たしか、俺のことは「慧」と呼ぶ。

 俺は、「■■先輩」と呼んでいたはず。

 でも、そのって――


 ――どこの誰だ。


 震える手でハンドルを握り締める。二日酔いも相まって頭痛と吐き気がひどい。一体、どうなってる? 後輩の誰ものことを覚えていないなんて。それどころか、俺自身も、先輩のことをうまく思い出すことができないなんて。

 まるで悪い夢でもみている気分だ。

 大学前のロータリーに車を横づけし、後輩達を降ろした。先に到着していた克己達が待っている。先輩の姿は見当たらない。克己に先輩のことを尋ねようとしたが「全員揃ったな!」という克己の一言に、俺の心は萎んでしまった。

 世界が俺を置いてずれてしまったような。

 星本さんの言葉が蘇る。


 ――この世界の科学の法則や倫理的ルールは、あくまで我々が安心して生きるための術であって、人間社会の外側に属する者にとっては何も考慮する必要のない事柄だろうな、と……――

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