母の日記
萌木野めい
母の日記
母が死んだ。
塔子が水曜日の夜、都内の一人暮らしのマンションでカルディのワインを飲みながらネットフリックスのドラマを見ていたところ、警察から電話がかかってきた。自家用車で買い物でスーパーへ行く途中に自損事故で即死。不幸中の幸いか、死んだ母以外に怪我人は無かったという。
来るべき時が来た、という言葉がまず、頭に浮かんだ。
塔子は取り急ぎ今週は休むという旨を上司と部下達にメールすると慶弔休暇の申請をし、スマホから飛行機を予約した。仕事が一段落したところだったのが幸いだった。塔子は滞り無く、次の日の午前には故郷へと帰ってきた。
父は塔子が高校生の時に癌で他界していたため、大学卒業までは母親と地方都市の一軒家で二人で暮らしていた。大学卒業と同時に実家を出て、それきり母とは会っていない。
それから四十才になる今まで、塔子はずっと一人暮らしをしている。四十歳の節目に、マンションも賃貸から中古分譲マンションにローンを組んで引っ越した。終の住処のつもりだ。
塔子の人生の最大の転機は、塔子が大学生の頃、「毒親」という言葉がこの世に生み出された事だった。その言葉があって初めて塔子は、正に自分の母親がそれでである事に気付くことが出来た。この言葉が無ければ塔子の人生は全く違うものになっていたに違いない。
就職して間もなくから、母親からはよく手紙が届いた。「結婚しろ」「私に恥をかかせるつもりか」「恩知らず」「親不孝」などという言葉が並んだ手紙が届くたびに、塔子はコンロで燃やした。火災警報器が鳴らないように手紙を燃やすスキルが十分に育った頃、約二十年の間に母からの手紙もいつしか途絶えた。
こういう娘は一般的には親不孝者と呼ばれる。塔子はそれで一向に構わなかった。母は塔子の中ではもう既に死んだも同然の人だった。
−
塔子は死んだ母親に対する諸手続きを淡々と済ませた。
父母は共に友人が無く、共に懐疑的な性格だった。結婚相談所で出会った二人は、だからこそ惹かれ合ったのかもしれない。そういう部分で恋に落ちる人達もいるのだ。それ故に親戚全員とほぼ絶縁していたので葬式をやる理由が見つから無かった。こういう時に配偶者や兄弟がいれば人手があってさぞ楽なのだろうが、この母と引き合わされて不幸になる人をこれ以上増やしたくないという気持ちが強かった。それが塔子が結婚していない理由の一つでもある。
塔子は母親の骨壷を抱えて一人、実家へと帰ってきた。
(何年ぶりだろう)
ごく一般的な二階建て建売一軒家は父の死によりローンが完済されている。
実家というのは何ですごく「実家の匂い」がするのだろう、と考えながら塔子は玄関で靴を脱いでリビングへ進む。ダイニングとキッチンが一体になったリビングは母の生きていた濃密な気配が残っており、塔子は思わず顔を顰めた。
テーブルには母が食べかけて途中で輪ゴムで封をしてある煎餅、急須には出涸らしの茶葉。いかにも、ちょっと買い物に出かけて来るだけ、の瞬間を切り取ったように時が止まっている。
固定電話には何のことか分からない走り書きのメモが残っていた。そういえば、子供が絶縁していれば振り込め詐欺に引っかかる可能性は低くなるのかもしれない。盲信的な母がそういうものに騙されていなかったことは奇跡だった。
一刻も早くここから出て行きたい気持ちになりながらも、塔子はあるものを探しに来ていた。
(日記、どこにあるんだろ)
母は昔から習慣的に日記を書いていた。どこで知ったのか分からないが、十年日記とかいう分厚い日記帳を買って来て、それをきちんと全て十年分毎日埋めるタイプの人だった。ルーティーンをこなすことに達成感を覚える人だったのだろう。
母はいつも寝る前の時間にリビングで黙々と日記を書きつけていた。塔子はその一心不乱さがとても恐ろしかった。母の日記は何が書いてあるのか分からない恐ろしいパンドラの箱のようで、実家にいた時はとても見たいと思えなかったのだ。
でも、母親が死んだ今、どうしてだかその箱を猛烈に開けてみたくなったのだ。
(もう死んじゃったんだから、見てもいいよね)
家中の引き出しや戸棚を開け閉めしながら、塔子は日記を探した。一時間程探すも全く見つからずに一息つこうと椅子に座ったところでダイニングテーブルの上の新聞折込チラシの束の下に埋もれているのを発見した時は脱力してしまった。
塔子が実家にいた時は隠すようにしまってあった印象だったが、今は塔子が家を出ているので出しっぱなしにしていたのかもしれない。過去の日記もその後、本棚からあっさり見つかった。十年日記は全部で四冊あり、四冊目の終盤だった。どうやら母が結婚した頃から付けられているらしい。
塔子は息を飲んで日記を手に取る。分厚い。持ち上げてみたもののあまりに重かったので塔子はダイニングテーブルの上に載せたままページを開いた。
(まずは最後の日記から見ようかな)
亡くなった前日の日付だ。ボールペンで書かれた癖のある字。普段見る文字はスマホかパソコンに表示されるフォントばかりだから、人が書いた字、それも嫌いだった母親のものに残る生々しさは驚くほど鮮烈に塔子に迫ってくる。負けじと塔子はぐっと奥歯を噛み締めながら読み進める。
「3月30日。隣の森山さんに野菜をもらう。息子と孫が帰ってきているらしく声がする。夕方は新聞の集金の人が来る。」
別に何の変哲も無い、普通の日記だ。塔子は続けて読み進めていく。
「3月29日。野菜が全部高い。」
「3月28日。向かいの家のピアノの練習の音がうるさいので苦情を言う。三回目」
向かいの家には後で謝罪しに行かないといけないと思いながら、塔子は日記を読み進めた。特にどきりとするような記述はなく、ただ淡々と、母の日々の記録が連なっていた。
十年日記の最新の一冊をざっと読み終わり、塔子は次の一冊に手をかけた。この一冊から、母が塔子に手紙を送っていた時期に入る筈だ。そう考えて塔子は、無意識に母の日記の中に自分を探していたことに気がついた。今読んだ一冊には塔子の名前は一度も出て来なかったのだ。
(私は自分が日記に出てきて欲しいなんて、思ってない。ただ、ちょっと気になるだけ)
塔子は自分に言い聞かせる様に心の中で呟き、次の日記を手に取る。それらしい記述を発見する。
「10月23日。手紙を出す。帰りにスーパーで買い物をする」
「9月6日。手紙を出す。郵便局に行った帰りに市役所、病院に行く」
この「手紙」は塔子への手紙のことだろう。でも「塔子」という名前は何処にも出て来ない。そのことが塔子の心に焦りのような感情を思い起こさせた。二冊目をざっと読み進め、塔子が実家を出た直後に差し掛かった。ページをぱらぱら捲りながら、ここまでくると流石に「とう子」という言葉が目に入るようになってきた。塔子は適当なところでページを開いた。
「5月26日。とう子に電話をしても出ない。親を何だと思っている。」
「4月10日。とう子は私を憎んでいる。頭がおかしい。なぜこんな子になってしまった」
塔子は過去に送りつけられて来た手紙を思い出してゾッとし、思わずページを手で覆った。深呼吸を兼ねた大きなため息をつく。
怖いもの見たさがエスカレートして自分で自分の心を傷つけている自覚はあった。でも、人の日記というのは読むのを止められ無いのは一体どうしてだろう。
塔子は何回か深呼吸をすると、ページを捲り続けた。塔子がまだ実家にいた高校生の頃まで遡る。
「8月10日。とう子は成績が良いらしい。私のお陰だろう。私の努力が実った」
「2月15日。とう子が受験の日。落ちたら恥。あの子は大事な時に失敗ばかり。気が気でない。」
塔子は行き場のない怒りと吐き気の様な悍ましさを堪えながら、それでも日記を読み進める。ページを捲る指先が震える。はらりと涙が溢れた。やっぱり何処までも母親は、塔子の思った通りの母親だった。
塔子の期待に漏れない母親の言葉達を無理やり噛み砕いて飲み込みながら、塔子の読む日記はついに塔子が生まれた時まで遡ってきた。出産で入院していたらしい数日は流石に記述が無い。その代わり、塔子の誕生日の数日後に少し長めの文章があった。
「5月27日。産み直したい。なんでこんなに不細工なの? こんな子育てられない。恥ずかしい」
塔子はその一文を読んで、思わず日記を拳で叩いた。どん、という重い響きが誰もいない一軒家に響く。ぼたぼたと流れた涙が日記に連なった染みを作っていった。
こんなに泣いたのは何年振りだろう。三十過ぎてから泣いたことなんてあっただろうか。
(何を期待していたんだろう)
母親が本当は、良い人だった。そんなことは絶対にあるはずが無い。今まで散々思い知って、そこに救いなんてあるはずがなかった。それは誰よりも塔子が一番知っていたはずだ。
それでもこうやって日記を最初から最後まで読んでしまったのは、塔子が期待していたからだ。日記の何処かに、塔子の理想の母親が存在して欲しかったからなのだ。
(私は、結局母に勝てなかったのかもしれない)
塔子はテーブルの上にあったボックスティッシュを雑に数枚引き出して涙と鼻水を拭いた。
どうして読んだのだろう。期待通り、この日記はどこまでも、母の日記だった。
ただ一つ、塔子が絶対の確信を持って言える事がある。それは、母は、ものすごく不幸だったという事だ。そしてその不幸を塔子は引き継ぐまいとして、必死で生きてきたのだ。
(絶対に生きてやる、この女よりも幸せに)
塔子は日記を全部そのままにして立ち上がり、実家を出た。塔子の心に宿る新しい炎を絶対に絶やさぬ決意は、塔子を足速に走らせた。
母の日記 萌木野めい @fussafusa
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