後編
三日後の午後二時過ぎ。
タミエは街の裏通りを疾走していた。
いや、疾走などという格好いい姿ではない。恥も外聞もなく、なりふり構わず逃げ回っている、そんなありさまだ。
――なんでこんなことに。
頭にはその一言しかない。というか、混乱して何も考えられない。
総務省の一部局とやらに連絡を取ったその後は、ある意味、理想的な展開だった。簡単な履歴を送り、当たり障りのない範囲でこれまでの"活動歴"を知らせると、すぐに「なるべく最近の仕事の成果を」と求めるメールが来た。迷った末に、いくらかマイルドな文体の、さる企業への「消費者からの意見」を少し手を入れてから送ったら、これがなかなかいい感触で、ただちにオンラインの面接に移りましょうとの返事が届いた。
信じられないことに、面接も絶好調だった。あなたの文章には、真に社会を憂える者ならではの得難い気高さに満ちている、などとイケメンの面接官に真顔で言われ、柄にもなくぼーっとしてしまい、ほんの一昼夜で世界がバラ色に輝き始めたような錯覚さえ覚え始めたものだ。
これで当面の生活は安泰かな、と思えた時、ついでのように面接官が尋ねた。
「ところで確認するのを忘れていたのですが、こちらへはどなたの紹介で?」
「え?」
一瞬口ごもったが、正直に話した。紹介ではなく、全く偶然にこういうところがあることを耳にしたのだと。
面接官の顔がみるみる曇っていき、口調も徐々に冷めたものへ変じていく。それはいつ、どこで? 喋っていた人間の特徴は? できるだけ細かいセリフで語ってもらえますか? 聞いていたという若者の人相は? いや、それは……かなりまずい事態ですね。
空気の急激な変化にタミエは面食らったが、十分な説明もないまま、面接は終わった。間際に、面接官は言った。
「ひとまずこの話は中断します。察してください。このお仕事は色々と裏がありますので。……いずれ改めてご連絡しますが、もちろんこの件はご内密に。それと、くれぐれも身辺にはご注意ください」
タミエは疑心暗鬼のどん底まで沈んだ。身辺にはご注意、なんて言い出した時点で尋常じゃない。そんなにヤバい職場だったの? まさか本当に国家の陰謀に巻き込まれた? でも、いったいどういう形の陰謀? っていうか、私に何の責任が?
それでも、一日ほどはなんともなかった。異状を感じたのはその次の朝からだ。見るからに不審な人間が、通行人のふりしてうろついている。目つきの悪いおっさんが電柱の影にいる。あからさまに間違いな宅配が立て続けで来た。配達員はいずれも堅気じゃないという雰囲気。
午後のシフトからの出勤でアパートを出ると、素人にも露骨にわかる尾行がついてきた。立ち止まって堂々と詰問する――なんてことができるわけない。前後の事情からして相手はお上。うかつに警察に駆け込むのもためらわれる。というか、この状況は……
――ひょっとして、詰んでる?
そう思ったら、もう止まらなくなった。逃げなきゃ。とにかく、逃げの一手のみ。でも、どこへ?
半分パニックになって、早足が小走りに、駆け足になる。
そして今、タミエは十何年ぶりかで、髪の毛振り乱して、足音も派手に全力疾走していた。
逃げる者の本能からか、人気の少ない方へ少ない方へと向かってしまう。こんな方向だと、そのうちに捕まっちゃう、とも思うのだが、通行量の多いところでいきなり前後左右の人間が襲いかかってきたら、なんて想像すると、街の外れの方にどうしても足が向く。
とは言え、根っからの非体育系なんで、残り体力はもうほとんどゼロだ。
周囲はそろそろ田舎道と言ってもいい。後ろを振り返ると、多分アパートからずっと同じままの男が、余裕の早足で近づいてくる。横道の向こうにちらっと見えたのは、さっきから何度も目にしている黒ワゴン。
――ダメ、もう走れない……。
へたりこみそうになったその時、ショルダーの中のスマホが鳴った。びくっとして画面を見る。知らない番号。これは最後通牒か何か?
早歩きにペースを落としながら、一旦放置して留守録に切り替わるのを待つ。電話はすぐに切れた。が、またコールが鳴る。再び留守録、切れる、またコール。
出ろ、と言っている。
観念して通話ボタンを押した。額の汗を手のひらで拭いつつ、黙って声を待つ。
「総務省です。あなたを採用します」
話し手の名前も確認せず、いきなり声は言った。状況が状況だけに、タミエは思わず棒立ちになりかけた。
「ただし、条件があります。あなたは今、ちょっとしたトラブルの中にいますね」
「は、いや、あの」
ちょっとした、どころじゃない、と言いたかったが、その前になんでそんなことが分かるのか。だいたい、スマホの番号なんて親と職場以外、一切知らせてないのだ。
「我々はあなたの身の安全を保証することができます。今後とも。ですが、そのためにはあなたには今この場で正式に、総務省に忠誠を誓っていただく必要があるのです」
「え、な、なに? つまり、国の犬になりなさい、とかそういう?」
「そう受け取ってもらっても構いませんが」
「なんで、こんな――」
「あなた方が想像するよりもずっと、世論操作に関わる世界というのはきな臭いものでしてね」
こっちの状況は掴んでいるようなのに、声にはどこか面白がっているような響きさえ感じられた。
「あなたが自分で彼らのもとに行くというのなら、我々は止めませんが」
「か、彼ら?」
「待遇はかなり酷いと聞きますよ」
ちらりと後ろを振り返る。どうやらタミエを追いかけている集団のことを言っているらしい。
漠然と構図が見えたような気がした。つまり、自分は今、二つかそれ以上の組織の間で、クレーマーとしての素質を買われて、奪い合われている、とかそんなこと?
ようするにモテモテってことだ。でも多分これは、赤カーペットを敷いて高給優遇で、とか、そんなおめでたい空気の話じゃない。
「ご決断を」
不意に尾行が速度を上げたように見えた。二分もしないうちに、追いつかれるだろう。
もう何もわからない。このまま話を受けても、バラ色の未来というわけではないだろう。が、しかし――
ああ、なんでこんな話に手を出しちゃったんだろう。
最後の何秒間か、存分に後悔してから、タミエは絞り出すように言った。
「お話を受けます」
「総務省と国家に、忠誠を誓っていただけますか?」
「誓います。……誓いますから、助けて、ください」
直後。
どこかから急な受信が入ったよなうな風情の尾行者は、そのままくるりと踵を返すと、まっすぐもと来た方向へ歩み去っていった。
路上にぺたんと座りこんだタミエは、しばらく動けなかった。職場に欠勤の連絡を入れ忘れていたことに気づいたのは、だいぶん後だ。
「D59青の7、正職員での契約書、届きました」
事務官からの書状を一瞥すると、男はややくたびれた顔に薄く笑みを浮かべた。総務省総合人資源開発局政策第三課課長、それが彼の肩書だ。
「やれやれ。今回はうまくいったな。理想的な展開か」
「そら、あんだけオールキャストでお膳立てしてやったんスから」
事務官の若い男も、いささか疲れた顔だ。
「あれでコケたら目も当てられないっしょ」
「そもそもここまでやってやる必要あるんスかね?」
似たような口調の声が、少し離れた机から投げられる。若い男と同年輩らしい若い女だ。二人とも、着任間もない二十代半ばというところか。
「なんだかんだ言って、たちの悪いクレーマーっしょ? 『お前の悪行、全部バレてるぞ』っつって、脅して契約迫れば早いんじゃないスか?」
「それだと他の組織にあっさりリクルートされる危険が残る」
「え、他の組織ってほんとにいるスか? あたし、台本上の設定だと――」
「ある」
短く断言してから、ちょっとごまかすように、
「いや、正式な情報が来てるわけじゃないんだが……案外、そのへんにいるんじゃないか。有名多国籍企業のあれとかこれとか、その下請けのそれとか。関連人材派遣のあんなのとか」
「あと、近くのこの国の諜報とか、遠くのあの友好国の諜報とか、そういうのの下請けとか」
ドアから入ってきた男が後を引き継ぐ。課長も事務官たちも一応スーツ姿だが、こちらは革ジャン姿だ。男は口ひげを皮肉な形にゆがめて、
「まあでも、いちばん厄介なのは、国内の政治屋連中どもだろ。選挙が絡むと、あいつら、何をやり始めるか分からん。裏で世論操作みたいなことができるかも、なんて知ったら、官僚相手にどんなことを言い出すやら……いや、多分もうとっくに、そういう闇商売があるんだろうなあ」
神妙な顔で黙ってしまった事務官二人の横で、課長は、そうだろうな、と軽くうなずきつつ、世間話のように男へ尋ねる。
「彼女の様子は?」
「思ったよりずっとまともな待遇で、まずは一安心したってとこかな。よっぽど大組織相手に逃げ回ったのが堪えたみたいだな。俺の顔見てもネタばらし聞いても、怒り出したりはしなかったし」
書類を渡しながら、男が答える。課長は紙の表面に目を走らせながら、
「私が尾行役で参加してたってことは?」
「それは知らせなくてもいいことじゃねえの? ま、多分喋っても、そうだったんですか、で済むんじゃないかな。多分、日頃から後ろめたいことやってるって自覚があったんだろ」
「ならよかった。ほんとに外の組織が本気で人材刈り始めりゃ、あんなぬるいトラブルで済んだりはしないだろうしな。その意味で、嘘はついてない」
決済印を二つ三つついて書類を男に戻す。
「んでも、やっぱ納得できないっス。あの女、要するに何もしないで国から手当もらうようなもんっしょ?」
事務官の男が、割り切れないっといった声で尋ねた。女の方も同意して、
「今までどおり生活して、好きなところへ書き込みできて、経過だけ国に報告しろって、こんなの労働じゃないでしょ。それで嘱託公務員扱いで手当出るなんて、やっぱおかしくないっスか?」
まあまあ、と両手で二人なだめながらも、課長はため息混じりだ。
「それ言ってりゃ、警察だって刑務所だって結構な金がかかってる。大丈夫、行動に監視がついたって意識持たせるだけで、あの手の連中はだいぶん控えめになるもんなんだ。何十万人も煽って世間を騒がすような火遊びははっきりと減るだろう。それを思えば、この程度は安いもんなんだよ」
「そらそうですけど」「なんだかなあ」
べったり机へうつ伏せになる二人へ、革ジャン男が妙に真面目な顔で言った。
「そのうち、お前ら、クレーマーに生まれてこなくてよかったって、本気で胸をなでおろす日が来るさ」
「「ど、どういうことスか?」」
色めき立つ二人に口ひげはしれっとした顔で、
「ま、俺の妄想だけどよ」
部屋を出ていきがてら、背中越しに言ってよこす。
「ネットであんだけ人間煽れるんだ。そんな才能、これからの時代、核兵器よっかよっぽど権力者が欲しがるものになるんじゃねえかな。で、もしそうならあいつら、これからどんな人生歩むんだろうってな。ちょっと思っただけさ」
革ジャンがドアの向こうに消えると、一瞬静けさが部屋の空気全体を覆う。が、ほんの数秒でそれは破られた。新たな若い男が一人――やたらとイケメンな青年だ――飛び込んで、有無を言わせぬ口調で叫んだ。
「D61赤の7、内偵からゴーサイン来ました。今晩だそうです」
課長が首肯して、青年に片手を上げ、事務官の二人に呼びかけた。
「だそうだ。新規クレーマー一名様に、隠れ公務員職のご案内に向かってくれ。仕込みに入ろう」
「またっスか! なんで官庁づとめで毎日役者の真似事せにゃならんですか!」
「あたし、就活ん時まですんげえマジメな喋りだったのに、もう抜けないっスよ、この口調! 勘弁してくださいよ!」
若い二人の抗議を聞き流しつつ、課長はなおもくたびれた表情で無理に微笑んでみせた。それしかできることはないのだ。
「仕方ないんだ。クレーマーどもをできるだけ穏便に、なるべく多く、国の管理下に置く仲立ちをする、というのが、この課の仕事だ――そう嫌がるな。名うてのクレーマー集団の取締役なんだよ、私たちは。その気になれば世界も動かせる、そう思えば少しは楽しい気分にならんかね? まあ……その気になっちゃ絶対いけないんだがな」
<了>
求む、優秀なクレーマー 湾多珠巳 @wonder_tamami
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