黄昏に老猫

@ihcikuYoK

黄昏に老猫

***


 小学生の時の話だ。

 母に頼まれ、スーパーへお使いに行った帰りだった。雨の中、傘をさして水溜まりを踏み歩いていたら、路地でズブ濡れになり動けなくなっている仔猫を見つけたのだ。慌てて抱き上げ、記憶にあった近所の動物病院へと走った。


 その先は、憧れとの出会いだった。

 人にも動物にも優しく、腕も愛想も顔もよいと評判の、若き院長先生が幸いなことにまだ病院に残っていた。半泣きで震える仔猫を差し出すと「大丈夫だよ、連れてきてくれてありがとう」と言い、低体温症だろうなと一言述べると、それまで一声も発せやしなかった仔猫を本当に助けてくれた。


 ホッとしたのも束の間、子供なりに動物の治療費が高いことは知っていたので、俺は慌てた。先ほど買ったばかりの食品とその駄賃で買った菓子と、小銭しか残ってない財布を差し出した。

 今年もらったお年玉がまだ家に残ってます、と申告したと思う。

 先生は噂に違わず優しく、「温めただけだしお代はいいよ」と言ったが、そういうのはめちゃくちゃよくないと聞いていた俺が全然引かないので、

「じゃあ、すごく大事な仕事をお願いしたい。

 この子に良い飼い主さんを探してあげてくれるかな。その家族全員が賛成して、この子がお婆ちゃんになっても大事にお世話をしてくれるお家」

難しい仕事だ、と先生は言った。


 あの時の猫は、これもなにかの縁だろうとうちで飼うことになった。拾ったのが街路樹のカリンが実る頃だったので、そのまま名付けて可愛がった。

 カリンはとにかく食い意地が張っており、食べたおかげかあれから特に大病もせず、先日寿命で亡くなった。


 サッカー選手になりたかったはずの俺は、あの一件で(動物のお医者さんてなんかカッコいい!!)と人生の舵をグッと方向転換した。

 単純なことだが、それが今の今まで獣医を目指す切欠となった。いつかあの病院で雇ってもらって、あの先生と一緒に働くのだと勝手に心に決めた。

 そしてついに俺は来年に獣医学部を卒業するのだが、ここで一つ困ったことがある。

 勤めたかったあの病院は、カリンを助けてもらってから数ヵ月後、当のその先生が失踪して潰れてしまっているのだ。

 10年あまり経つがいまだ誰もその行き先を知らず、そして見つからず。


 当初の目標を達成できないのは、そりゃ残念だ。

 先生みたいになりたくて勉強して、先生と働きたくて獣医を目指した。でもそれは俺の都合であって、先生には関係ない。

 周りの大人は皆「あんな真面目な先生が黙って出ていくくらいだもの、よっぽど辛かったんでしょうね」と言った。


 勤務先を探し職を得ることにしたものの、不景気も相まって内定が中々でなかった。

 正攻法では無理かと先日、ネットでそれっぽい非営利団体のHPを発見し、求人も載っていなかったがダメ元で「ぜひ面接だけでも」などと、無茶な就活メールをブッ込んだ。

 噂では髭面で熊みたいになった暗い男が、一人でやっているそうだ。熊は俺の勝手な連絡に「本当に面接だけでもいいのなら。でも手は足りているので雇えない」と返信をくれた。随分と律儀な熊である。そう言わず雇ってほしい。俺には職がいる。

 まぁ面接の練習にはなるか、と俺は山へと向かった。


 ──まぁ恐ろしいところである。

 真っ暗である。舐めていた。自分でも驚きの早さで迷った。約束は14時だったのに、いつの間にか日が暮れていた。

 親切な熊は「獣道しかないので、くれぐれも革靴では来ないように」と勧めてくれたが、こんなガチの山ならその辺りも教えておいてくれよと思う。


 もはや遭難だと思う。 

 ふと目の前をヨボヨボの猫が横切った。白と茶の痩せぎすの猫である。

 いまは亡きカリンを思い出し、しんみりした。まぁカリンは食い意地の張った猫だったので、臨終でもふくよかなものだったが猫は猫だ。

 老猫はこちらに気付き足を止めた。思わず声を掛けた。

「なぁ、病院の場所とか知らない? 民家でもいいんだけど。迷子というかもはや遭難してるみたいで困ってて」

返事のためか猫は口を開いたが、木々のざわめきで聞こえなかった。猫はフイっといま来た道を引き返し、ちらりとこちらを見た。また口を開けた、そしてまた声は聞こえない。


 これは、ついて来い的な?

 どうせすでに迷っているのだ、コイツに賭けようと決めた。


***


「……もしかしてこの時間まで迷子? てっきり悪戯かと」

息を飲んだ。


 どうしよう泣きそう。

 玄関が開くと同時に頭を下げ謝罪を述べ、顔を上げた先にいたのは見紛うはずのないいつか見たあの日の先生であった。幾ばくか年を重ね、やや疲れた目をしていたが、この顔は確かにそうだった。

 誰だよ熊が一人でやってるって言ったやつ。いるんだけど。俺の目標がいるんだけど。


「……っよくぞご無事で……!!」

「? 遭難してたのはそっちだ」

とりあえず、と中へと招かれた。

 人嫌いの髭もじゃ熊男は、屋内にはそうそう人を上げないと聞いていた。顔に出ていたのか、髭のないシュっとしたその人は、

「そんなボロボロの人、玄関で追い返せないよ……」

と言った。


 とにもかくにも奇跡である!

 思い出の中の先生とは似ても似つかない言動だったが、まさかこんなとこにいるなんて。

 面接の練習だなんてとんでもなかった。内定がもらえずヤケクソで来たしおまけに何時間も彷徨ったが、長年の夢が叶うかもしれない。なんとか雇ってもらわなくては!


 先生は椅子に腰かけ、俺を対面へ座るよう促した。

「あいにく人は募集してなくてね。面接だけでもってことだったね」

「言葉の綾です! 真剣に雇っていただきたくまいりました! よろしくお願いいたします!」

クリアファイルに挟んだ履歴書を差し出した。メールと明らかに態度の違う俺を見て、先生は訝しげな顔をした。

「……話が違うね」

「──先生の掲げる、一般家庭における飼育動物たちへのサポートの信念に共感し、」

あ、そういうのいい、と疑念の響きを持った声が戻った。

「あ、あの! 約束の時間を違えてしまい、それもこんなに遅れてしまい、改めまして大変申し訳ございませんでした!!」

「それも別にいい。なんでうち?」

「っ先生は、覚えておられないかもしれないんですが! 確かに以前、お世話になったことがあり、先生のもとで学ぶのがずっと俺の、いや私の! 長年の夢です!」


 その顔には「知らん」と浮かんでいた。全然ピンときてない。

 頭を下げて慌ててスマホを取り出し、スクロールする。機種変更しても、画像はいつも引き継いできた。

「うちの猫です! 見覚えございませんか!」

差し出すと、先生は画面を見つめた。

「……あ、“カリン“さんだ」

「! そうですカリンです! その節はお世話になりました!」

先生はようやく仄かに笑みを浮かべた。

「そうか。カリンさんはお元気ですか」

「お陰さまで病気もせず丈夫な子でした」

先日寿命で亡くなって、と述べると寂しそうに、そう、と言った。


「──あの! 本当に雇っていただきたくて! アルバイトでもなんでもいいです! 無給でも、雑用でもなんでも!」

「なにか喜んでもらえてるようでそれは結構なことだけど、それじゃ生活していけないだろうに。人生はたった一言で簡単に取り返しがつかなくなる、よく考えてから口にした方がいい」

俺はやや気を悪くした。なにせ10年以上の夢だ。この半生を支えた夢が叶うか否かの岐路に立っているのだ、多少の無茶だって言う。

 先生は俺の目を見てため息をついた。

「ここには獣医らしい仕事は大してないんだ、勉強したいならなおさら他で働いた方が身のためだね」

と言った。


 足元にいた猫が、ひょいと膝に乗ってきた。

 久方ぶりの重みにカリンを思い出して泣きそうになったが、(いやカリンはもっとずっと重かったしな)と気づいたら涙も引っ込んだ。

「……そういえば、あの子はあの猫のお孫さんとかなんですかね?」

「? どの子?」

「あのオス猫です、先生が飼ってらしたクールな感じの」

いつも病院にいた、と告げると、彼がどうしたの、と言った。


「実はここまで案内してもらったんです。よく似た毛色だったから懐かしくなっちゃいました」

「うちに、彼と似た柄の子はいないよ」

まさか当の猫ではあるまい。あの猫はカリンよりずっと年上だったのだから。

「じゃあ野良ですかね。お腹もなでさせてくれました」

へぇ、と先生は興味なさそうな相槌をついた。

「結構な老猫だったんですけど、なんと三毛のオスだったんですよ! 俺、三毛のオスなんて初めて見ました」

「遭難してたし幻覚だろうね」

「いやいや。白茶の猫だと思ったのに撫でたらお腹の下のほうに、黒い毛が少しだけあって」

不思議な柄で、と笑うとポソリと言った。


「……。彼は元気そうでしたか」

「? ええ、軽い足取りで獣道に帰っていきました」


 あぁそう、なら仕方ない……と、とんでもなく深いため息を吐いた。

「? 先生? 俺なんか失礼なことでも」

「……様子見でとりあえず3か月」

浮き足立つのを感じた。

「えっいいんですかっ!!」

「ただの雑用。力仕事は?」

「自信があります!!」


「……まぁ、リクルートスーツ着て山で遭難して、まだそんなに元気なんだもんね……」

ちょっと引く、と言われ恐縮する。

 たとえ誰に何を言われても、いまなら俺はすべてを笑顔で受け流せると思う。

「とりあえず、今日は休んでいくといい。遭難者が来たとき用の寝袋ならある」

わっいいんですか? と問うと、呆れた声で言った。


「昼でも迷う人を、こんな夜中に下山させられないだろう……」


Fin.

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