『君がクラゲで私が熱帯魚』

「君がクラゲで私が熱帯魚」

 高橋咲花さきかが失踪したという話を聞いたのは、卒業式まで残り一週間を迎えた、昼の日光が柔らかく差し込む教室でのことだった。三月の風は窓の僅かな隙間から冷たく吹き込んで、教室を、空間ごと乾燥させる。


 担任の言葉に、教室はざわめいていた。定期テストで学年一位を取り続けていた秀才が、学校を無断欠席するはずがない。それがこのこのクラスの共通認識だった。事件に巻き込まれたのでは、という誰かの言葉を、私は聞こえなかったふりでやり過ごす。


 机の上に放置していたホットの紅茶が、べこりと音を立てる。これはもう捨てなきゃ、と思った。温かい飲み物を放置すると、元から冷たい状態で売られていたものよりずっと冷たい味に変化する。


 咲花のいない教室で、私は大きく息を吸った。空気は重たくて、棘を帯びている。呼吸をするたび棘の生えた空気が肺胞をぶくっと膨らませて、中古の酸素を身体に取り入れる。


 携帯を手にとって、ラインを開き、彼女とのトークを遡る。「はい、土偶」と言いながら土偶を差しだすウサギのスタンプが目について、口元が緩みかけた。


 この教室に存在するものはどれも無機質だった。目に映る誰もが自分が生きていることを知らず、ただ、大脳のはたらきに支配されているように見える。私が椅子を押し退けて立ち上がったとき、いくらかの視線が私のほうを向いた。


 * * * * *


 咲花と初めて交わした言葉はもう覚えていない。面識が生まれる前の彼女について知っているのは、定期テストでいつも学年一位を取ってることくらいだった。ミディアムボブの黒髪が清流のように綺麗で、ぱっちりの二重も綺麗で、私と同じ団地に住んではいるものの、まるで別世界の住人のようだと思う。


 それに、頭も冴えて、運動もできる。でも、クラスで目立つような存在ではなかった。周りに人が多いわけではない。おそらく、例えば視線とかに、人を見下すような色を含んでいることが原因なのではないかと思う。


「じゃ、問3から問5までを解いてください。時間は十分とります」


 数学Ⅲの教師が意気揚々とストップウォッチを起動して、ぐるりとクラスを見回し、それから教卓の上にあった教科書に目を落とす。私にとって、課題はそれほど難しいものではなかった。解き終わって周囲をぐるりと見回す。多くの生徒が頭を下げてノートを見つめている。得意げになりそうなのを、「国立大学に行くんだからこんなレベルで満足していてはダメだ」と自分に言い聞かせる。


 隣の席で咲花は、英語の単語帳を眺めていた。赤シートの表面に照明の光が反射して、眩しい。ふいに彼女が顔を上げて、ぱっちりと視線が交差する。小さい声で「終わったの?」と尋ねると、「問題出される前からね」と得意げな笑顔が返ってきた。


 教室は、誰の意思が絡んでいるのかはわからないけど、暖房の温度がいやに低く設定されている。女子の多くはブランケットを持参していて、私もその一員だった。椅子の上であぐらをかくことで脚を毛布に収める方法もあるけど、なんだか行儀が悪くて好きではない。


 このクラスで国立大学を目指すのは私と咲花だけで、動機は親からの圧力という一見似た要素があるものの、根本的には反対を向いている。


 私の母は理想家だった。


 家族だからといって無条件に愛されることがあるという現実を、私はまだ事実として認識できていない。進路のことは両親とよく相談してねと進路担当の先生は言うけど、そこには、家族というものへの解釈の不一致があるような気がして仕方がない。


 人と人の関わり合いのなかでは、よく、言葉に対する解釈のズレが生じる。


 以前、模試の結果が悪かったとき、母は数日の外出禁止令を発した。家で母は絶対だった。手が疲れてもお尻が痛くなっても、ペンを離すことは許されなかった。夕食も、ペンを握りながら口にできるカロリーメイトになることが多い。そういった家庭での営みを経て、私はお尻が痛くならない座り方や生理の血が漏れない脚のずらし方を上手く見つけるようになった。


 先生のなかで家族は困ったときに助け合うもので、無条件に愛し合って、尊重し合うような存在なのだと思う。知識としてその解釈からズレた家族がいることは知っていても、それをもっと心の深い場所で認識することはない。


 あまりにも大きなズレは、人間関係の軋轢に発展する場合がある。すれ違いを可能な限り抑えるため、私は相手の言葉の隅から隅までを観測し、全てを使って解釈することにしていた。そして私自身、解釈の分かれづらい言葉を選んで発することにしている。


 人の印象に残りたくない、と強く思う。相手が私を観測し、その結果得た情報を元に私という人物を解釈するとき、必ずしもよい印象が生まれるとは限らない。否定的なイメージを持たれる可能性を排除するには、できるだけ曖昧な人間でいる必要がある。


 一方で、咲花は私の言葉をよく咀嚼し、意味を照らし合わせて解釈しようとすることが多かった。彼女は賢いから、人がそれぞれ別の解釈を持っていることをよく知っているのだと思う。


 なんで国立目指してんの、と咲花が訊いてきたとき、私は「親が難関大学しか許してくれない」と正直に答えた。そうすると咲花は目を薄く細めて笑い、「家族関係なの、私と同じ」と言った。


 彼女は、自分を生かすために学歴が必要なのだと教えてくれた。それ以上は話さなかったし、訊くのも悪い気がした。テニス部を引退してもなかなか消えない脚の痣が、それに直結しているように思えた。


 遠くからでも安物とわかるコピー用紙が最前の席に配られ、生徒から生徒へ、手渡しで後ろへ送られる。私も流れに従って一枚を受け取り、後ろヘ回す。後ろに座る結香ゆいかが「私数学使わんから別にいいんだけどな」、独り言にしては大きい声で言った。「あはは」と私は控えめに笑う。先生の視線が私と結香のほうへ向く。次の瞬間に逸れたのを確認し、つい止めてしまっていた息を思いっきり吐きだした。


 授業が終わって昼休みになると、咲花の元には数人の女子生徒が集まった。「学年一位」というラベリングがあるから、彼女はこうして同級生から授業の解説を求められることがある。その様子を、私は結香と昼食を摂りながら視界の端で見ていた。


「あー、ここはAの式を因数分解してから代入すると簡単に解ける」


 いつか咲花が、「言葉は『概念』と『記号』に分けられる」と教えてくれたことがある。ひとつの言葉は、読みや文字といった「記号」、それから意味を表す「概念」の二つから成るという考え方だ。例えば「水」であれば、水という文字や「みず」という読み方が記号であり、人が思い浮かべる水のイメージこそが「概念」に当たるのだという。


「じゃあ人によって言葉の意味って違っちゃわない?」


 話を聞いたとき、私はこの理論には穴があると思った。この学校で最も頭のいい彼女の理論を打ち破った優越感さえあった。


 家族というものに対して解釈のズレがあるように、「水」と言われて思い浮かべる物は人によって異なるはずだ。ある人にとっては海水かもしれないし、コップに入った水道水かもしれない。人によってイメージが異なるということは、会話を成り立たせるために存在するという言葉の性質上、あってはならないことだった。


「そうだよ」


 笑みを隠しきれない私に構わず、咲花は淡々と答えた。


「だから、私は相手がどんなイメージを持ってその言葉を発しているのか、考えないといけない」


 その言葉を聞いて、彼女の得意げな表情の後ろには途方もない苦労があることを悟った。私の完全敗北だった。


 咲花はその賢さと、高校生という身分には早すぎる俯瞰的な考え方により、誰とも理解し合えずに生きてきたのだと思う。だからせめて私も、解釈する側に回ってやりたかった。私が咲花を解釈して、唯一の理解者になってあげたかった。


 


 自室の空気は重たい。私が生んだ皮膚の残骸とか吐きだした酸素とかが、空気中の憂鬱な気持ちを吸い取って質量をかさ増ししている。そんな部屋で受験勉強をすると、なぜか、筆が進んだ。おそらく重たい空気が私を椅子に縛り付けて、それ以外の行動をすることを億劫にさせているのだと思う。


 目に入る数式も現代文の長ったらしい文章も、すうっと脳内に染み込んだ。水車が回るみたいに解法がどんどん浮かんでくる。頭の冴えを自覚して、あ、薬を飲んでないと思いだした。


 解釈のズレを正すことばかりを気にしすぎる反動なのか、人の目の届かない自分自身のことはままならなくなった。いつも、行動の結果得られるものより、行動することの重さが勝つ。


 そうやってなだれた私生活を運営するためには抗うつ剤が必要だった。「自習」という言葉を使えば、通院は意外と誤魔化すことができた。 


 薬の効果がない間は、小さなことができなくなる。事前に頭の中で計画を立てて、息を大きく吸って、神経の隅々まで酸素が行き渡るのを待ち、それで動けるようになる確率は半分ほどだった。


 鬱病であることは誰にも言っていない。母には口が裂けても言えない。


 結香や学校の先生は、私を少しサボり癖があるだけの人間だと思っている。本当は「サボり癖がある」は見解が分かれやすいからあまり好ましくない。それでも、ほぼ確定で否定的な解釈が予想される言葉や印象に残りやすい言葉は避けたかった。


 鬱病だからといって優しくされるのも嫌だった。そこにズレは生じないだろうけど、それを理由に優しくする人が見ているのは私ではないような気がする。


 一度薬の効きがないことを自覚すると、それからは薬が気になって仕方がなかった。どれだけ疲れても、今夜は眠れない気がした。膝の後ろで椅子を押し退けて立ち上がり、通学に使っているリュックサックを開ける。その瞬間、扉の向こうに気配があって、手にしていたピルシートを急いでポケットに押し込んだ。


伊織いおり、先にお風呂入っちゃいなさい」

「はい」

「何してんの、あんた」


 タイミングが最悪だった、と思う。「明日の準備」、私がなんとか紡いだ言い訳は、整合性のある理由として通ったようだった。母は手に仕事着を持っている。大きく胸元の開いた、男と酒を飲むためだけの服だ。


「お母さんはもうすぐ仕事行くけど、勉強はちゃんとしなさいよ」


 暗闇のなかで母の目がぎらりと光った。私は無難な返事をして、着替えを手に風呂場へ向かう。


 父とは若いころに離婚して、現在は充分な収入もなく、夜職をするしかない。母は、そんな自分が許せないのだと思う。だから私を第二の自分のように思っている。家族愛や母性といった類いのものではない。それは自己愛に近かった。私が高校で撮った写真に、自分の顔を切り抜いて貼っているのを見たときはさすがに寒気がした。


 私が目指す国立大学は、この近所で言えば難関大学だけど、全国で見たら上位三十位にも入らない。それでも母は周囲の評価を元に自分の価値観を作り上げているから、その大学を出れば有名企業への就職は確定したも同然だと思っている。高校だってそうだ。現在通っている高校もこの辺りでだけ評判がいい。たぶん、名前でさえ県外の人は知らないと思う。


 そんなレベルの高校にもやはり上下があって、私が最も怖れてるのは定期テストだった。点の悪さと比例して私の身体には痣が増える。夕食の量も少なくなる。私は操られる死体のようだと思った。そうすると母はネクロマンサーだ。


 それなのに、話すようになったばかりのとき、咲花は私に「なんか、伊織は生きてるね」と言った。たしか、自習室で私の得意科目について話しているときだったと思う。いや、苦手科目だったかもしれない。どちらにせよ、咲花の言葉に脈絡はなかったと記憶している。


「え、なにが?」


 んー、と言って咲花は左上を向いた。彼女が生みだした沈黙の隙間を、トラックのエンジン音が通り過ぎる。続けて電車が通ったとき、「なんか、こう」を枕詞に彼女は口を開いた。


「あ、この人は自我があるなって思うときがある」


 今度は私が「んー」と唸る番だった。わからないでもない。例えばあるメロディを思い浮かんでいるけど、それが何の曲なのか思い至らないような、なんとも言えないもどかしさがあった。だからこの「んー」は、彼女が追加説明をするまでの繋ぎとして機能する唸り声だった。


「私は、他人って生き物が謎に感じる」

「なるほど」


 咲花の言いたいことを、この瞬間、完全に理解した。


 人が生きるためには人生における軸のようなものが必要で、人は無意識に受け取った愛情を元に、その軸を形成していく。普通の人にとって愛情は与えられて当然だから、そのことを意識することはできない。そうやって一般的な解釈としての家庭で育った人は、根拠もなく自分を信じて、外側の世界に目を向けず、適当に言い訳を探しては自分に生きる価値があると勘違いしている。


 そういう場合は大抵、自分が生きているということが頭から抜け落ちている。真っ白の骨があって、ピンク色の帯と糸が絡み付き、それを表皮が優しく覆って言葉製造器が生まれる。肉体があって、言葉が生まれて、解釈のズレが生まれる。


 咲花は目を丸くしたあと、「うん、そう、なんていうか、そんな感じ」満足そうに頷いた。


「みんな、無機質な感じがする」

「じゃあ、私たちは有機的って感じだ」


 いい表現だね、と言って咲花はまた笑った。私たちだけが観測可能の、お星さまみたいにきらめいたかけがえのない世界がそこにはあった。


 


「あんた、何これ」


 母の声を聞いて、ドライヤーのスイッチに伸ばした指を引っ込める。私の背後、部屋に侵入してきた母の、右手の人差し指と親指に挟まれた銀色のものがニトラゼパムのピルシートだと気づいたとき、血の気が引いた。


 調べればそれが何の薬なのか、簡単にわかる。いつも色つきの袋で捨てたり外のゴミ箱を使ったり、見つからない工夫をしていたはずなのに。考えてから、母が今日に限って洗濯をしようとしていたのだと気づいた。


 母の手によって私の衣類が洗濯されるのは週に二、三回程度で、普段は自分で洗濯機を回している。さっきポケットに隠したのを、洗濯前に見つけたのだろう。


「ごめんなさい、精神的につらくて」


 手を上げられないギリギリの間を使ったあと、正直なことを口にした。母の眉間に皺が寄るのを見て、あ、失敗した、と思った。


 なんで私たちばかりが相手の解釈を推し量らなければいけないんだろう。


 言葉を、ただの音の連なりで構成されるものではなく、そのなかに個人の概念を内包すると見なすことは、本来の意味とは関係なく、私が発した言葉を誰かが誰かなりに解釈することを許容しているようなものだった。受け取り側には、発信主に勝手な属性を付与する権利があった。


 多くの人がそのことに気づいていないからズレは取り返しの付かないほどまで成長し、相手の、私に対する認識がどんどん歪んでいく。私は受け取り側に回っても相手とのズレを観測しようとしているのに、相手はそんなことを微塵も考えない。


 現状を打破する術はなかった。私は死ぬまでここで搾取されて、母の自己愛に付き合わされる。大学に行っても環境は変わらない。咲花もきっとそうだ。人生ってなんだろう。規模の大きいことを考えて、目の前の小さな面倒をやり過ごす。


 その後のことはよく覚えていないけど、気づけば「通院している暇があったら勉強しろ」という言葉と数カ所の痣を残して母は仕事に出かけていった。堪えきれず咲花に「今何してる?」とラインしたところ、「はい、土偶」と言って土偶を差しだすウサギのスタンプが返ってきた。


 


 受験の二週間前、咲花の提案で一緒に水族館に行った。たまには休息が必要、というのが彼女の主張で、私もそれに賛成だった。母に対して自習室という言い訳は使えなくなっていたので、先生にわからないところを訊く、という言葉を使った。


「人が少ない」


 咲花の言うとおり、平日の午後七時という時間の性質もあってか、館内はひどく閑散としていた。水族館といえば家族で来るイメージが強かったが、それらしき集団は見当たらない。私にとってもおそらく咲花にとっても、そこは居心地のいい空間だった。


 水槽の魚は音を立てずに泳ぐ。もしかしたら水中では音がしているのかもしれないけど、ガラス越しに見ている私たちにその音は届かない。私たちは薄暗くて人気のないその空間を、ゆっくりと進んだ。


 空気が優しい、と思う。静けさは、心に根付いた目に見えない穴の部分にちょうど馴染んだ。例えばこれが結香と一緒だったらこうはいかない。感傷に浸るよりも早く、どちらかと言えば楽しさに似た属性の空気に私は身を支配される。楽しい空気も悪くはないけど、棘、のようなものを帯びている気がする。


「私は受験に失敗するかもしれない」


 咲花はあっけからんとした顔でそう言った。「どうして?」と私は訊き返す。目の前の水槽で、ちいさな熱帯魚が身を翻した。光の当たり方によって緑に光ったり、青っぽく光ったりする。不思議な魚だった。


「母親に勉強を邪魔される。母は私に自分の世話をして欲しがってるから」


 どうやら咲花の母親は、彼女が卒業すると同時に仕事を辞め、障害手当と咲花の収入で生計を立てるつもりのようだった。でも、実際は過度に自分の障害に寄りかかっているだけで、働けないわけではない。


「前、私の制服を着て配信してた。パンツまで脱いで」

「最悪じゃん」

「でしょ」


 頭に、太った中年女性が服を脱いで配信する姿と、画面越しにそれを眺めるおじさんたちを思い浮かべた。咲花の母親は、以前スーパー銭湯で見た、身体中の肉をだらんと垂らしたおばさんで再現された。


「一人暮らしするって言ったら、『私のこと見捨てるの?』って。娘を殴ったり蹴ったりする体力はあるくせに、アイツは仕事ができないんだって」


 はは、と乾いた笑いが水族館の穏やかなクラシックを上書きしている。


 順路を進んだ先に、暗闇で光る魚の展示があった。「光ってるね」、咲花が言う。


「あー、帰りたくないなあ」


 彼女の表情は暗い水槽の前で闇に紛れていた。それでも、声の調子から彼女が悔しそうな表情をしているのがよくわかった。咲花がこんなに家のことを話すのは珍しい。私はいても立ってもいられなくなって、「ずっとここにいようか」、身体の妙な浮遊感をたしかな一歩で誤魔化しながら、努めて明るい声でそう言った。


「うん」


 水槽の前は窓台のようになっていて、なんとなくそこに追いた手が、咲花の手に重なった。よく見ると爪が小さくて、作り物のようだった。それでも、彼女が、今たしかにここで呼吸をしている人間だということがよくわかる。


 大学に行って一人暮らしなんて許さないからね。いつか母が言って、私は「もちろんお母さんのことは見捨てないよ」というつもりで返事をした。母と会話するときに必要なのは、本心で会話をすることだった。だからそのときの私は本当にこれからもずっと母と暮らしていくつもりだった。自分の、逃げだしたい気持ちを端に追いやって。


 でも、そんなの、おかしい。私には私の人生があって、将来も吐きだす言葉も、その解釈を含めて全部が私を形成するかけがえのない要素のはずだった。私は、母じゃない。


 近頃、母の支配に薬がないのも加わって、死について考えることが増えた。死ぬってなんだろう、と思う。肉体が滅びて私の存在はこの世界にないことになって、軌跡も、そのうち消えていく。それが悪くないと思ってしまう私はきっと精神病だった。


 でも、死を決めるよりも暗くて鈍い、重さ、のようなものがこの世にはたしかに存在していると思う。


 咲花はなめらかな肌をしていた。手の皺も、細胞と細胞の繋ぎ目さえ存在しないと思えるほど一直線だった。これからずっと、私は、咲花の唯一の理解者でいたい。その気持ちを込めて手を強く握る。彼女の表情は見えない。笑っているのかもしれないし、泣いているのかもしれない。嫌がっていないことは、握り返してきた手の強さでよくわかった。


「私はずっと、自分が孤独だと思って生きてきた」

「うん」

「自分以外の人間が別の生き物みたいで、私と同じようにものを考えて発言していることが不思議だった。みんな、本当は私の全てを見透かしていて、私のことは何もかも知っているのかもしれないって」


 咲花の言いたいことはよくわかる。だから「うん」と頷く。彼女の声は湿り気を帯びていく。彼女から漏れた言葉も涙も、すべて受け止めるつもりで、手を強く握る。


「でも、初めて、生きてるなって人に出会えた。伊織は私の特別なんだ」


 うん、うん。咲花は自分の言葉を反芻するみたいに何度も頷いた。私は彼女の手を引いて、ぴったり身体を寄せる。この瞬間、彼女が生む解釈も痛みも体液も、優しく包み込んであげたかった。彼女を発端とする様々な要素を断片ごと受け入れられるような気がして、この人なら人生を捧げられる、と思う。


 肌の温もりが生々しかった。手の繋いだ部分で熱と熱が激しく絡み合い、流動して、どちらのものかわからなくなる。経験はないけど、性行為ってこんな感じだと思う。咲花と肌を重ねる自分を思い浮かべて、変な気分がした。


 私たちはクラゲの水槽の前に来ていた。視界いっぱいに広がる藍色の水槽のなかで、クラゲが静かに揺られている。まるで映画を見ているような、圧倒的な没入感があった。


 傘がひらいて、閉じる。その繰り返しが、心の凝り固まった部分をほぐしてくれる。


「私、クラゲが好き。心が落ち着く。なんか、咲花みたい」


 咲花はゆっくりこちらを振り向くと、「私はさっきの熱帯魚かな」、得意げな笑顔で言った。


「いろんな色に輝いてるから、見てて、眩しい。私がどれだけ手を伸ばしても届かない、優しい光を持ってる気がする」


 水槽から漏れる光が咲花の睫毛の先端に乗って、目が潤んでいるみたいに、そこには儚い美しさが照らしだされていた。この人が死ぬとき、私も死ぬんだろうな、と思う。


「一緒に展示してくれればいいのにね」


 ね、と私は言った。二人だけの水槽にいれば、私たちは、もっと簡単に呼吸をすることができる。


 咲花を友達と表現するのは嫌だった。たしかに彼女の考えや言動に私は恋をしていたように思う。でも、私は、咲花という人間に対して向けている感情を、友情とか恋とか、解釈の余地がある言葉で表現したくなかった。


 出口の売店で、お揃いのキーホルダーを買った。あとからカップル用のやつだと知って、恥ずかしくなった。


 


 合格発表の日、行きの電車は咲花と一緒で、帰りは一人だった。入学に関する書類が入った塩化ビニルの袋に、咲花がいない虚しさが重たくのしかかっている。


 家に帰ると、母はまるで自分のことのように喜んでいた。あちこちに電話を掛けているのを見たとき、あ、逃げられないなと思った。私はこの先も、咲花のいない大学で講義を受け、理解し合えない同級生と交流し、ある意味孤独で、生きていかなければならない。


 咲花にメッセージを送ろうと悩んで、入学の手続きに関する書類を用意している間に日は沈み、寝る前になったとき、多方面から来ていた合格祝いのメッセージに紛れて、咲花からラインが来ていることに気づいた。


『途中で帰ってごめん。合格おめでとう』


 急いで咲花のアカウントを呼びだし、通話のアイコンに指を乗せる。「高橋咲花と音声通話を開始しますか?」、ポップアップが表示される。キャンセルという言葉のほうが太字になっているのはずるいと思う。


 覚悟を決めて「開始」を押すと、心臓が暴れて痛かった。


『ん』

「咲花?」

『どうしたの?』


 通話特有のノイズを緩衝材に使っても、私は言葉を上手く紡ぐことができずにいた。それを見かねたのか、先に言葉を発したのは向こう側だった。


『合格おめでとうだね』

「あ、うん、ありがとう」


 このまま平行線を辿れば、咲花が「じゃあ、またいつか」と言う気がしてならなかった。「咲花も惜しかったね」とか「運がよかっただけだよ」とか、私が何を言っても皮肉っぽくなってしまうことが、もどかしかった。


 憂鬱の最終地点は希死念慮なのだと私は思う。彼女が今抱えている絶望とか痛みとか、そういうものを処理しなければ、咲花とは二度と会えないような気がしてならなかった。


「私の知らないとこで死なないで」

『え、何が?』


 半分笑いの籠もった声で咲花が言った。電波を伝い、彼女の言語中枢を経て言葉の「概念」に変換されるどこかの段階で、私の言葉は冗談ということになっていた。


『私は死にたいなんて思ったことないよ。やりたいことたくさんあるし』

「えー」


 それからいくらかの話題を消費して、通話は終了した。


 私は死にたいなんて思ったことないよ、と咲花は言った。あの水族館で、私たちはたしかに、心を一つにしていたように思う。でも、これだけ解釈が重なる相手でも、すれ違いが生まれてしまうことが悲しかった。


 私たちの間には、死にたいか死にたくないかという、たったそれだけの解釈の不一致があった。


 この先、私は人の解釈に圧迫されて、いつか、死んでしまうような気がしていた。むしろ、いつか首を吊って、私に解釈を押し付けてきた奴らを後悔させてやろうとすら思っていた。だからこの命は、私が、私として存在するために使おうと思った。


 クラゲと熱帯魚が同じ水槽に入らない理由をあとから調べて知った。小魚はクラゲの毒を受け、クラゲは小魚に食べられてしまう可能性があるらしい。互いが互いに害を与え合い、生きることを妨害する。それを知っていたら私は「クラゲが好き」なんて愚かなことは言わなかった。


 翌日、咲花は学校に来なかった。その三日後、担任の口から高橋咲花の失踪が明かされた。


 * * * * *


「伊織、どこ行くの?」

「トイレ」


 教室を出たとき、背中にクラス中の視線が刺さって痛かった。でも、足を止めるわけにはいかない。ラインを開き、彼女とのトークを呼びだす。『どこにいるの』、一文字ずつ、丁寧に打ち込む。送信ボタンをタップするとき、指が震えた。


 学校を出るとそこは、咲花の不在を知らない人たちがのうのうと日常を続ける世界だった。走ると疲労が溜まる。電車が走ると音が鳴る。冬が終わりに近づくたび、風は暖かみを帯びる。そこに解釈のズレは生じない。誰もが理解し、共通認識として存在している。


 小学校の授業で行った、厚紙で立方体を作る作業をよく思いだす。展開図を描いて切り取り、立方体に組み立てるというものだった。


 定規で引いた直線に沿ってはさみを通すけど、切り取り部分はどうやっても真っ直ぐにならない。一方で授業中によく挙手をした女の子の作品は辺から角までぴんと張っていて、真似して作りたくても、歪んだ辺同士はどうしても上手くくっつかなかった。歪んで、ズレて、収拾がつかなくなる。


 人との関係はそんなものばかりだった。


 みんな嫌いじゃないし、情が全く生まれないというわけではない。でも、どうして私たちばかりが解釈を押し付けられなきゃいけないんだろう。どうして私の解釈を読み取ろうとしてくれないのだろう。


 人と人はわかりあえない。だからズレの生じづらい言葉を、何ごとも起こらない優しい言葉を、行動を、紡いでいく必要があった。他人から概念を押し付けられることをどうしても避けられないのであれば、それぞれの解釈を推測し、私たちが、合わせて行動しなければならなかった。


 私たちは当たり前の家族像に押し退けられて、世界の隅っこで、二人で膝を抱えるしかなかった。いくら走っても、咲花の場所はわからない。縋る思いで電話を掛けた。


 通話はあっけなく繋がった。安堵より早く喉に緊張が走る。


『……あ』

「咲花?」


 へへ、と咲花はふやけたように笑った。


『伊織だ』

「どこいるの」

『うちらの団地の、屋上』

「じゃあ向かうね」

『うん』


 クラゲと熱帯魚は一緒にいられない。でも、私は咲花が発する毒をまるごと飲み込んでやろうと思った。毒が致死量に達する前に、どれだけ彼女を大切に思っているか、伝えたい。おなかが空いて仕方なかったら、咲花の、痛くてどうしようもない部分だけを上手く噛み千切ってやる。痛みも毒もすべて取り込んで、それでも適応できずに死んだらそれでいい。


 むしろ私は、彼女と一緒に死んでやりたい。


 私たちが住んでいるのは、学校から歩いて十五分の、かなり年季の入った古い団地だ。敷地内の公園には滑り台や砂場、ブランコが設置されていて、その狭い空間を子どもたちが走り回っている。いわゆるママ友という関係なのか、三人の女性が会話に花を咲かせていた。


 エレベーターへ向かうとき、別々の方向から来た二人の中年女性が挨拶を交わしているのが見えた。そのうち片方はこちらに向かってきて、目も合わせずに横を通り過ぎていく。いくらかの待ち時間を経て乗り込んだエレベーターは、学校のパソコンルームのような匂いがした。


 言葉のとおり、咲花は団地の屋上にいた。


「おまたせ」

「あ、本当に来た」


 咲花の手のなかで鈍く光が瞬いて、目を落とすと、二週間前に水族館で買ったお揃いのキーホルダーだった。「それ」、私が言うと、「うん」咲花は眉尻を下げて笑う。


「壊されちゃった」


 金具は変形し、合わせるとハートになる部分以外、それがキーホルダーとして機能することはなさそうだった。小さく息を吐きだして、咲花が続ける。


「母親が、私を勝手に体験入店させようとしてた」

「体験入店?」

「風俗の」

「最悪だね」


 でしょ、と言った咲花の声が重たくコンクリートの地面に沈んだ。ずっと遠く、視線を落下させた先で満開の桜が咲いている。下には人の姿が見えるけど、屋上には私たちしかいない。何百人とここに暮らす人たちの部屋の、さらに上を私たちは陣取っている。この狭い敷地内で、私たちは誰よりも空に近い位置にいた。


「母親、こんな近くにいるとも知らずに、必死に探してるんだろうな」


 咲花の手を握る。生々しい暖かさが触れた部分でぐちゃぐちゃになっている。次第に混ざり合って、どこが境界線なのか、わからなくなる。


 人の苦悩の終着点は、やはり死なのだと思う。首を吊れば大抵のことは解決する。一般の反応を見ても、死がすべてであることは明らかだ。どんな悩みも世間は「もっと苦しんでいる人がいる」と一蹴するくせに、死の匂いを嗅ぎつけた途端に「なんで話してくれなかったの」「死んじゃダメだよ」なんて平気で口にする。


「伊織。私、この先どうすればいいと思う?」


 彼女は受験に落ちたから、母親の言うことに従って生きるしかなかった。独り立ちする金銭も母親から逃げる手段も私たちは持ち合わせていない。


「死んじゃおうか」、と私は言った。「あはは」、咲花が笑う。私も笑う。咲花と一緒なら全く怖くなかった。


 屋上の縁の、別棟があってちょうど大通りから見えない位置に咲花が腰を下ろした。その横、私は寄り添うように座る。ころん。咲花の頭が私の肩に乗る。


「伊織の死にたいって気持ち、やっとわかった」


 私は思い違いをしていたようだった。私は自分の解釈を、咲花にわかってもらおうと思っていなかった。話していれば彼女のほうが読み取ってくれるなんて、自分勝手すぎる。私たちは、理解し合えるもの同士で歩み寄る必要があった。


 友情でも、愛情でもなかった。私は敢えて、咲花との間に生まれた関係に、解釈の余地が広い名前を付けたい。だから、私にとって咲花は「特別」という表現がしっくりきた。


 二人で体温を感じ合っているうちに、太陽は夕日の気配を醸しだすようになってきた。大通りを巨大なトラックが走って、次第に見えなくなる。サラリーマンふうの男が、駅の方向へ走っていく。子どもの集団が団地に吸い込まれる。そういった、生きていることを知らない人間の他愛ない営みを、咲花と一緒に、誰にも邪魔されない場所でいつまでも見ていたかった。


 それでもおなかは空くし、咲花を探して人は動き回る。団地の前にパトカーが停まって、「あ、母親」と咲花が言った。初めて見た彼女の母親は、私が想像したとおり、銭湯で肉を垂らしただらしない中年女性の姿をしていた。あれが裸で配信をしている姿を思い浮かべて、おもしろくなって笑った。


 風がすうっと身体に染み込んでいる。春の風は心地がいい。咲花から流れてくる体温が臨界点を超えて、今なら死ねる、と思った。


「咲花」

「うん」


 並んで座ったまま、私は身を捻って咲花の背に腕を回した。今度は湿った声で、「うん」、咲花が返事をする。強く、もう離れないように、思いっきり抱きしめる。宙ぶらりんになった脚が風に吹かれて、ちょっと肌寒い。


 身体を離したとき、咲花のスカートがめくれて白い脚が覗いた。


「せーのでいこっか」


 うん、と私は頷く。キスはなんか恥ずかしいし、来世でいいか、と思った。

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おやすみの唄【短編集】 新代 ゆう(にいしろ ゆう) @hos_momo_re

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