『死にたくなったら爆弾を作ればいいよ』

「死にたくなったら爆弾を作ればいいよ」

 大人が嫌いと言ったら、「あんただってもう大人じゃん」と返ってきた。そうだけど、と返事をする。私は、自分がいつ大人になったのかわからなかった。二十歳の誕生日を迎えたあの瞬間だったのかもしれないし、適当な中小企業から送られてきた、内定を知らせるメールが私を大人にしてしまったのかもしれない。


「てか、あかり、これ見た? 爆弾魔の」


 ノートを机の端っこに避けながら、隣の席で有香ゆかが言う。教授が黒板に文字を書くタイミングを見て、私は彼女から差しだされたスマートフォンに視線を移動させた。画面にはあるツイートが表示されていた。


 内容は、よくある爆破予告だった。爆弾魔を語るその人物が、県内にあるどこかの大学を一週間後に爆破する。本文の下で、リツイートの数字がひとつ加算された。


「うちの県だよ、怖くね?」

「え、こわ」


 そう返しつつ教授のこちらを振り返る気配がしたので、慌てて顔の向きを戻した。教授はまだ黒板のほうを向いたまま、特別支援教育がどうとかいう話をしている。なんだか落ち着かなくなって、先ほど口を付けたばかりのお茶をまたリュックから引っ張りだした。いくら飲んでも喉の渇きが収まらなくて、あ、薬の副作用か、と思った。


 秒針は音も立てず、盤面をスライドしながら数字を移動していく。連続秒針、というらしい。ひとつずつ秒数を刻んでいくほうが、のろのろと盤面を回転するあの秒針よりもはるかにストレスが少ないと思う。


「障害の有無にかかわらず、すべての子どもには――」


 室温は高かった。絶えず雑音がしているスピーカーから、教授の淡々とした声が響いている。一瞬ハウリングがして、「失礼」とひとこと言った教授が、黒板に「子ども」と書いた。教育学部に入って受けた最初の授業で「『供』はよくない意味を持つから『子ども』と書くのがいい」と教わったことを思いだす。


 説明を終えると、教授は「障碍者」と書いた。「障害者」ではなく。


 教員になるわけでもない学生が半数もいるこの部屋で、教育に関して必死に授業をしている教授がなんだか滑稽に思えてきた。私がその一員であることが申し訳ないとも、どうでもいいとも考えていた。


「九十分、長すぎ。あと、ハゲ山の説明長すぎ」


 それな、と私は返す。有香には残り五分を示しているあの連続秒針の時計が見えていないのかもしれない。教授が授業のまとめをしているうちに五分はあっという間に底をついた。


 * * * * *


 車は別世界のような道を走っていた。母が「おにぎり何食べる」と助手席から訊いてきて、私は「何があるの」と抑揚を付けずに返す。しゃけ、しおむすび、あとはまぜごはん。母がそう言い終わる前にしおむすびを選んだ。


 年末年始は父の仕事が忙しかったので、年明けから一ヶ月が経ったこの日に父の実家へ挨拶に行くことになっていた。東京から福島までは遠いようで、近い。高速道路に入って二時間が経つころには、車内から次第に言葉が消えていった。耳を塞ぐみたいな騒音のせいかもしれないし、父の実家に行く憂鬱さが母にはあって、自然と言葉が出なくなっているのかもしれない。


 高速道路を走っているこの時間が私は好きだった。地面から伝わる振動や騒音が、心を落ち着けるのにちょうどいい。この、音と振動と喉の詰まった感じが、私にいくらか感覚が奪われたような錯覚を抱かせる。


「お母さん、お茶ある?」

「自分で探しなさいよ」


 おにぎりを見て、丸くなったな、と思う。今朝母と一緒に準備していたときはもっと角張っていたし、海苔もこんなにふやけていなかった。何ごとも時間が経つごとに角が取れて、直接誰かを傷つける頻度はどんどん減っていく。


 だから、母を目の敵みたいにしている祖母も、昔はもっと角張っていたのだろうと思う。手土産の紙袋を両腕で抱える母の手がひどく弱々しく見えて、私がどうにかしないと、と思った。


「さっきの道右じゃないの?」


 母がすこし棘を帯びた声で言って、私はすこしどきっとして、それから父が遅れて「ああ、本当だ」と言う。


「本当だ、じゃないよ。時間間に合う?」

「だったらちゃんとナビしてくれよ、助手席の人が。俺、運転してんだからさあ」


 父が放った言葉の、最後の「さあ」がいつまでも車内に残っている気がした。空気が薄くなって、私の呼吸は無意識のうちに止まっている。「はあい」、母が間延びした返事をしたとき、車内は完全な真空になった。ふやけた海苔が口のなかで貼り付いて、不快だった。


 スカートの生地が太股の裏で重なっていて、それを直した拍子に、何かの物足りなさが心のなかで広がっていく。視線、色とりどりの車たちを眺めるのに飽きて、ずっと遠くの、山の表面を埋め尽くしている木々たちを観察しながら、私は例の爆弾魔に思いを馳せていた。


 昔、母が母親であることをボイコットしたときがあった。母と父が喧嘩をしたとき、私が味方しなかったことが原因だった。ふたりが喧嘩をしたときは私が慰め役になって、それとなく仲直りさせることになっている。誰かが決めたわけではないが、家庭のなかで自分がなにか自然に立ち位置を指定されるということがあると思う。


 その日だけ、私は自分の役割を放棄した。機嫌が悪くなった母はときどき私に八つ当たりをするし、暴言を吐くこともある。削るべき角がいくつもついた家族の輪郭に嫌気が差して、「お母さんも悪い」と私は言った。


 ボイコットから帰ってきて、それでも母が私を存在しないものとして扱っていくうちに、私は抗うつ剤と仲よくなった。家族は元々どこか乱れていたから、私が壊れるのに必要なのはほんの些細なきっかけだけだった。母は次第に角が取れて、直接私を傷つけなくなった。表面上は普通になれていた。


 大人のかたちをしていても、中身が子供のままの大人はたくさんいた。母は、大人になりきれない大人だった。


 爆弾魔は大人だろうか。もしそうなら、その人もきっと大人になりきれない大人だと思う。大人はみんな丸くなったフリをしている。感情の起伏がなくなっていくなんて、たぶん、嘘だ。


 * * * * *


 ちゃんとごはん食べてるの、と祖母は言った。そして私が予期していたとおり、彼女の視線は母へと移動していく。「食べてるよ」と答えると、祖母は冷蔵庫から四つ組のヨーグルトを取りだし、ひとつを切り取って私の前に置いた。母は何も言わなかった。


 腰の悪い祖母のためにリビングと寝室はふすま二枚で繋がれていて、私たちが来ているとき、大体ふすまが開放されている。寝室の端っこ、仏壇のなかで祖父が笑っていた。祖父は私が五歳のころ、何かの病気で亡くなったらしい。写真は私の記憶にあるよりもずっと老けているから不思議だ。


 テーブルの上にはヨーグルトと煎餅、お茶、それからみかんが大量に並んでいた。父の前にはみかんの皮が三つ重なっていて、私の前にはヨーグルトと煎餅、母の前には何もない。


「若いんだからたくさん食べさせてあげないとダメよ」


 祖母の言葉に、あはは、と母が気まずそうに笑う。給湯器が悲鳴のような音を立てている。その横には昨日の日付の新聞があって、その上に「長生きしたいならタンパク質は摂るな」という新書が置いてあった。大量に張られた黄色い付箋がやけに眩しかった。


 大人はたぶん、「若い」という枕詞があれば何を言っても許されると思っている。「若いうちはちゃんとした職に就いておきなさい」、大学選びの際、母は私にそう言った。本当は芸術の道に進みたかったし、理系の研究もしてみたかったし、文学部にも行ってみたかった。結局、「将来のため」という母の言葉で、私は教育学部へ進むことになった。


「お夕飯はお寿司を取ろうかしら。ねえ、あかりちゃん」


 祖母の家は独特な匂いがする。古民家に住んでいるわけでも、畳の部屋で暮らしているわけでもない。私たちとほぼ同年代の一軒家に住んでいるのに、ちゃんと年寄りっぽい家の匂いがする。


 祖母の家で、母の背中は小さかった。私は私の使命を全うしなければならない。おかしい、とは思う。でも、可哀相と思ってしまう自分がいた。母は、母親になりきれなかったのだと思う。母という肩書きを背負っただけのひとりの人間として生きているのかもしれなかった。母はある意味では大人という肩書きの被害者で、加害者でもあった。私は精神科に行く時間とお金と、それから副作用を気にしなければ、母を可哀相だと思う余裕があった。


 父の前にあったみかんの皮の、端っこのほうが乾いてきている。私は祖母の話を聞きながら、それとなく母を肯定しようとしている。父は昨日の日付の新聞を読んでいた。母は祖母に中身のない相槌を打っている。寿司の出前はなかなか届かない。祖母の家の時計は、連続秒針だった。十八時ちょうどを知らせる鐘が鳴る。


 スマートフォンが有香からのメッセージを通知した。授業中に隠れて携帯を触るみたいに、祖母に気づかれないよう膝の上で画面を操作する。『駅にハゲ山おった』、続けて送られてきた写真には、特別支援教育基礎論の授業を担当している、竹山教授の後ろ姿が映っていた。『マジだ』返信するころには、祖母は私の将来の話をしていた。


「せっかく教育学部に行ったんだから、教員免許は取るんでしょう?」

「うちの大学、卒業すれば取れるから」

「そう。でもせっかく教育学部に進んだのに、一般企業に就職なんてもったいないじゃない?」


 祖母の言葉は冷たくリビングに響いた。矛先は私ではない。そして普段の私なら「いくらか働いてから教員やってみようかなって」みたいな誤魔化し方をしていただろうけど、今回はそうする気にはなれなかった。母と目が合ってから、その理由が、進学後に「好きなことやってみなよ」といい母を演じ始めた彼女に対する当てつけだったと気づいた。


『来週さ、爆破されるから大学行かなくていいかな』、有香からのメッセージが画面に表示される。『いいんじゃね』返信の文字を打ちながら、私は、自分が爆発に巻き込まれて死ぬ様子を想像する。


 SNSでの爆破予告なんて飽きるほど行われている。たまたま自分の近くが指定されただけで夢を見すぎていた。でも、私は、自分のせいじゃない場所で死にたかった。事故とか殺人とか、そういう、自分の責任のないところで仕方なく死んでしまいたかった。


 * * * * *


 爆弾魔がやってくる日の授業は発達障害の子供の特性から始まって、授業時間が半分過ぎたころ、社会人がどうとかいう説教が行われた。遅刻した有香が謝罪なしに着席したことが、竹山教授の堪忍袋の緒を引きちぎってしまったようだった。


「そんなのじゃ社会でやっていけないんだよ。大人になると責任がつきまとうの。で、君はなんで遅刻したの? さっき一言もなしに入ってきた君だよ」


 竹山教授の視線が有香に向いて、それから学生のいくらかが有香のほうへ視線を送る。「……爆弾魔が」、たぶん私にしか聞こえない声で有香が言った。「何?」教授は眉間に皺を寄せて、それから踏みしめるみたいにこちらへ近づいてくる。


「……すみません。課題が忙しくて、きの、昨日遅くまでやってて、朝、起きたら」


 教室はしんと静まりかえっている。こんなとき、連続秒針じゃなければ上手く沈黙を埋めてくれたのにと思った。


「うん、だとしても入ってくるときに一言あってもいいよね。それと、君さ、いつも授業中携帯触ってるの見えてるから。やる気がないならなんで大学通ってるの? 学費払ってくれてる親御さんが知ったらどう思うだろうね」


 教授は教育者として責任のある行動をしなければならないという話をして、それから最近の学生の授業態度がどうとかいう話の次に、次回予告とレポートの説明をして帰っていった。教授が部屋を出ていった瞬間、室温がすこし上がったような気がした。


「有香、大丈夫?」


 学生の何人かが有香のほうにやってきて、次々と「アイツ言い過ぎ」とか「ありえない」とかの言葉を口にして、次第にそれは、「ハゲのくせに」や「どうせ童貞だろ」など、関係のない方向へと流れていった。


「大丈夫、大丈夫。ってか私、学費自分で払ってるし。あかり、食堂行こっ」


 有香は荷物をまとめて立ち上がると、私のほうを振り返り、ちいさく手招きをした。「はあい」返事をして私も立ち上がる。食堂に行って、三限を受けて、今日はバイトがないから家で母を宥めてやらなければならない。脳内に立てたスケジュールのせいで、早くも身体が重量を増していく。当分抗うつ剤をやめることはできそうになかった。


「アイツなんであんなに偉そうなんだろ。前言ってたことわかったわ、私も大人嫌いだわ」

「でしょ」

「ってか爆弾魔マジで口だけかよ。最悪。ハゲ山の研究室爆破しろよ」


 結局、当日になっても大学が爆破されることはなかった。ツイッターやニュースを探してみても、他の場所が爆破された様子はない。


 リュックから取りだしたペットボトルはすでに空だった。胃の中身がせり上がってくる感覚がして、あ、薬の副作用か、と思った。次の通院がいつだったか、思いだせない。もう通院を辞めて、薬が切れて死にたい気持ちが戻ってきて、それから母に思いっきり文句を言ってやったら、いつか爆弾を作ってみるのがいいかもしれない。

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