日本の空は晴れているか

奥森 蛍

米寿おめでとうございます!

 桜のつぼみも膨らみ始めた早春、田原は自宅で穏やかな朝食をとっていた。メニューはいつも同じ、フライパンでゆでて作ったポーチドエッグとトーストとサラダとフルーツが少々。バターを厚くとは愛する妻の遺言であった。


 パンを噛みしめながら目に入るのは積み上げた大量の紙の山。ジャーナリストとは一生勉強、わかってはいるが。

 この頃気持ちが凪いだのだろうか、闘争に少し疲れた。


 庭に目をやるとメジロがつがいで跳ねていた。オリーブ色の可愛い体色の真白い目をした愛らしい鳥の自然に生きる姿を見てふと思った。


――ジャーナリストを引退しようか。


 この道をひたすらに歩み続け、変えられるものは全力で変え続けてきたと自負している。望みがすべて叶ったとは言い難いがそれでも今日の世情にはそれなりに満足している。

 卵に箸を差し入れるとつうぅっと黄身が崩れた。それにパンをつけて口へと運ぶ。

 黙考する。自身はもう米寿だ、新しい時代は若者が作ればいい。


 だが。そう願いながらも心には一抹の不安がある。自身が退いてしまったことにより世間の関心がわずかにでも政治から遠のいてしまったら、なにも与えられなくなってしまったら。ジャーナリストとしての性がどうしても生涯現役を貫けと駆り立てる。

 引退したいのにそれすらもできない。どうすべきか。


 黄身はいつの間にか乾き、メジロは飛び立ち。残されたのは自身一人。食べかけの皿を見つめ、あれこれ思索すると知人へと電話を掛けた。



       ◇



 後日、某社人工知能研究所にて。


「いやー、田原さんからお電話とは驚きましたよ」

「僕もね、若干無茶だとは思うけれどこのままにできないでしょう」

「はい、それはもう。重々承知しております」


 開発担当者が手を伸ばし、被せられた赤のサテンの布をばさりと取ると姿を現したのは田原総一朗そっくりの胸像であった。


「ちょっとリアル過ぎないかね」


 垂れた涙袋までリアルに再現しているようだが、もう少し男前でもいいとは思った。


「ドッペルゲンガータハラ、わが社の英知を結集させて作ったAIロボです。なにか話しかけてみて下さい」


「自民党」


「…………」

「なにも返さないじゃないか」

「あの、もう少し会話的に挨拶とか」


 ふむと、うなづいて言葉を変える。


「こんにちは」

「こんにちは」


 驚いたことに声までそっくり。さすがは声紋をとって精密に開発しただけのことはある。


「選挙権はいくつからだね」

「18歳です」


 ふうんと声を唸らせる。


「よくできてるね。イントネーションまで完璧じゃないか」

「もう、田原さんの思考パターンまで再現してますから、受け答えは完璧ですよ。学習機能も備えているので会話したことをベースに自ら会話を組み立て進めるということが可能となっています」


 なるほど、期待以上によくできている。さすがは国内随一の人工知能研究所といったところか。これほどのものを作られてはもう観念するしかない。後ろ髪引かれる思いを断ち切り、たたずむドッペルゲンガータハラを見あげると田原は心を決め一拍した。


「今後のテレビ出演は彼に任せる。僕は引退しよう!」


 その決意に桜の花が咲き乱れるかのような拍手が沸き起こった。だれもが魂のジャーナリスト田原総一朗の勇退を祝福していた。

 心の中で焚き続けてきた闘争の炎が消えていく。代わりに飛来したのは達成感。自身はよくやった、こんなところまで歩いてきたのだから。


 研究員が抱えきれぬほどの大きな花束を運んでくる、それを受け取ると万感の思いが打ち寄せた。涙が出そうになったがそれはこらえる。男の勇退とはそういうものだ。

 米寿になる少し前の出来事であった。





 引退した田原は引きこもっても仕方がないと日本一周旅行へと出かけた。最初の旅先は夏の北海道、富良野のラベンダー畑を選んだ。

 香り立ち込める満開の花の競演、紫、黄、ピンク、白、黄緑の長大なボーダーを遠景に見て一眼レフで写真を撮る。この一眼レフは旅行前に都内の電気店で気に入り旅行用に購入したものだった。


 観光シーズンだから人も格別多く、彼・彼女らに咲いている笑顔の花を見ると新型コロナの脅威は確実に去りつつあるのだなと実感する。鬱屈した時代だなんて悲観する必要はない。人々はどんな困難な時代でも歩き続けていくのだなとそれが嬉しくなり写真をもう一枚。


 ベンチを見つけ休憩していると近くを通ったカップルが「あっ、田原総一朗!」と声をあげた。走り寄ってくる。


「あのう、田原さん。お写真撮っていただけませんでしょうか」

「あなたたち観光ですか」

「新婚旅行なんです」

「そうですか、それはおめでとう」


 ニコニコと微笑んで、女性と並ぶ。男性がスマートフォンで撮影するので一緒にパチリ。今度は男女交代で。


「ありがとうございました、頑張ってください」

「もう、ジャーナリストは辞めたんですよ」


 笑うと二人が驚いた顔をする。


「どうしてですか」

「こんなおじいさんがやってもしょうがないでしょう」

「……そうなんですね」


 本心から出た言葉ではなかったが、それでも納得はしてくれたようだった。新米夫婦は少し残念がる様子を見せながら礼を述べると去っていった。


 昼食の時間になり、ちょうど見つけた蕎麦屋へと入った。老夫婦が営業している古ぼけた小さな店だった。客は誰もおらず味が心配になったが、運ばれてきたざるを一口すすり杞憂であったと考えを改める。豊潤なのど越しと香りの良さ。こんなに気分のいい食事はない。


 調子よくすすっていると軽快な笑いが聞こえてきた。ふと視線を回すとテレビの中で例の男、ドッペルゲンガータハラが懸命に働いていた。


『タハラさん、あなた知らないでしょう』

『いいや、知らないのはあなただ』

『竹島を爆破したら解決すると言っているんですよ』

『あなたいつの時代の人間だと僕は聞いてるんだ! 戦前か、戦後か』


 効果音を入れて番組を面白おかしく編集している。二か月前まであの席についていたのは自分だった。彼の語る田原総一朗の言葉にもはや信念も真実もない、それも知っている。だが。

 退いた身で今更なにができるというのだ。一度死んだ身になにができるというのだ。心のなかにわずかに生じた違和感をかき消すように最後の一本まで啜るとそばつゆを少し飲む。


『あなた総理何人辞めさせたんですか』

『三人!』


 自慢気な言葉にまた効果音が入る。今度は笑いが起こった。それに不快感を覚える。自身の歩んできた道はそんな笑い事ではなかったはずだ。

 食べ終えると給仕していた奥さんが湯呑を差し出した。いい香りがする。


「蕎麦湯です」

「蕎麦湯ですか」


 得した気分になり上機嫌で一口飲む。心に豊かな満足が広がる。美味しく味わっていると奥から店主がやってきて対面に座った。自分より少し若いか同じくらいか。蕎麦打ちで厚くなった指先をテーブルの上で組むと静かにいう。


「田原さん、あんたこんなところでなにやってるんですか」


 突然の問いかけに声を詰まらせる。


「観光をしておりますが」


 店主は親指を立てて、テレビをくいと指す。


「あの、ドッペル……ドッペルなんちゃら。あんなもんに任せちゃいけないよ」

「僕もまともとは思っていませんよ」

「ああ、違いない。機械に政治を語らせちゃいけないね。魂がないよ」


 その言葉に視線を下げる。魂、そう自身はその魂を追い求めてずっとこの国の政治と関わり続けてきたのだ。魂のジャーナリズムを体現し続けてきたという自負がある。その苦労を笑う彼らは知らない。


「あんたはジャーナリズムをやらなくちゃいけない。それが使命じゃないのかい」


 頭の中に言葉がじんわりと浸透していく。番組はすでに終わりエンドロールが流れている。まだ温かい蕎麦湯を飲みながら考えた。もういいと思っていた。自身はもういいと思っていた。なのに、この心内から自然と湧き上がる思いはなんなのだ、と。


「総理を引きずりおろそうという気概のある人間がどれだけいる。オレは一生蕎麦打ち職人、あんたは一生ジャーナリストだ」


 一生ジャーナリスト――重みのある深い言葉に目頭が熱くなり、湯のみを持つ手に力が籠った。

 世間はまだ純真にこんなにもなにかを変えようとする存在を求めているのだ。言葉もなく、こくこくと頷いて最後の蕎麦湯を飲み干す。テレビとは対照的に口下手で、言葉巧みでない自身は気の利いた返事は出来なかったがその有難い気持ちは汲んだ。この老人は自身と同じように政治の未来を憂いているのだ。


 会計をしていると奥さんがお釣りを渡しながら問うてきた。


「次はどちらに行かれるのですか。札幌も美味しいものがありますよ」


 ふるふると首を振ると視線を強くした。


「政治のメッカに戻ります。僕はジャーナリストですから」


 店主と奥さんはその決意を笑顔で見送ってくれた。それにお辞儀をしながら富良野の地を去る。

 遮るもののない自由の大空を見て決意を新たにし、田原総一朗は東京へと舞い戻る。


(了)

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