【KAC20229】天元のコマー私説『鍋島騒動』ー

石束

世界の中心で愛を叫んだ獣


 佐賀鍋島藩、藩士「井原千右衛門」は第三代藩主光茂に仕えて二年になる。

 二木流の鎌鎖術を使うという少し変わった特技と、それに似合わぬ謹厳で融通が利かない堅物で、しかも要領が悪い無骨ものだったのが気に入られたらしい。


 若い藩主直々の引き立てで口さがないものが色々いったが、それもいつか立ち消えた。

 光茂が事あるたびに千右衛門を嬲るようになったからだ。

 人目があるとないとで変わりなく。否。人目があればあるほど、衆目の最中であればあるほど、その嘲弄は激しくなった。


 文武兼ね備え「佐賀の柱石」と当時の国主竜造寺隆信を差し置いて臣民の信頼を集めた鍋島直茂、その父と共に朝鮮出兵に臨んだ勝茂とは違い、生まれた時から佐賀の国主と扱われ平穏に育った光茂はいささか驕慢な性格になっていた。

 とはいえ、そのようなことは大名家では珍しくない、と周囲は気にも留めてなかった。なにしろ、すでに佐賀鍋島家は領国の支配体制も藩内の組織も整っている。

 光茂が多少わがままでも、国政は揺ぎ無い。

 ならば、些末事には目をつむって、仕事の邪魔さえしてくれなければよい。それが鍋島藩の最近の風潮だった。

 ようするに。井原千右衛門は気まぐれな若当主の「玩具」として差し出された、体の良い「生贄」だったのだ。


◇◆◇


 ある夜、宿直番を千右衛門が務めていた時の事である。

「…………?」

 かすかな物音がした――ような気がした。


 藩主の寝所に続くふすまを背に坐したまま、視線だけで明かりに目をやる。

 交替時に付け替えたろうそくの減り具合から推して、夜明けには遠い丑三つ時。

 部屋を二つ隔てた奥には藩主と愛妾がいる。だが、今夜は早々の床入りで二人ともに寝入っている頃合いだった。


 不審というほどの警鐘を感じたわけではない。だが、看過しえない胸騒ぎがあった。そこで「お庭先を見てまいる」と、宿直を共にする朋輩に告げて千右衛門はその場を離れた。


 雲が多く、月が隠れた夜だった。


 沼のような暗闇で生垣やら庭石やらが点在する庭先の歩容は、困難を極める。

 だが、井原千右衛門は昼間同然に歩いていく。これは謹厳実直な彼が昼間も庭先を歩いて目をつむって歩けるほどに地の利を占めていたことと、「鎌鎖」という特異な兵法の達者であることに由来していた。


 使い手が少ないことがそもそもの利点である鎌鎖は、奇襲と初見殺しを如何に活用するかに工夫がある。遠くの間合いと戦法の変幻にこそ有利がある。

 奇抜な得物を得手としながら、下準備と位置取りの気配りを怠らない周到さが同居しているのが、井原千右衛門という武人であったのだ。


 千右衛門がそうして歩むこと、四半刻。池の側まで来た時だ。


 さっと生臭い風が吹き抜けた。

 さては池の鯉が死んで腐りでもしたかと思い――打ち消す。

 その手の異常は見回りをしている自分が一番わかっている。昼間の庭先にはいささかの変事も見受けられなかった。

「……」

 千右衛門の心具合がわずかに警戒に傾く。


 と、つづいてふわりと「香り」が漂った。

 あまく、おもく、ぬるく、なまめかしい――


「―――ぐっ!」


 思わず千右衛門は口元を押さえて、前かがみになった。

 頭蓋を内側から殴られたような衝撃があった。


 袴の中で、己がモノが一瞬で勃起するのがわかる。

 麝香の香りだった。獣の本能を呼び覚ます、強烈な、まさに「淫臭」とでもいうべき暴力的なまでの匂いがした。

 まだ壮年に届かない千右衛門の五体は不可視の霧のように立ち込めるソレに捕らわれ、まさに体内からがんじがらめになっている。


 ――おかしい。何かが起こっている。


 千右衛門は千々に乱れる思考を懸命に御しながら、あたりを索敵する。


 そこで、藩主、光茂の寝所へと続く、庭の縁の障子が半身くらい開いていることに気づいた。

 そして、池の、真ん中の、海に浮かぶ小島に見立てた、青石の上に――


「――」


 白い影があることに気づいた。


「何者!」


 誰何の声と同時に、千右衛門は手元の礫をはなった。その礫は当然見回りの最初に拾っておいたものである。

 そして狙いもまた精確を極めている。鎌鎖は分銅を投擲する。稽古でも実践でも、嫌というほど投げて、自らの命を救い、また人の命を奪ってきた投擲だった。無月の夜であろうと、ここまで灯火も持たず闇に眼を慣らしてきた千右衛門であれば、万に一つも外しようがない。

 だが、石は手ごたえ無く闇に溶ける様に消えた。外れたのだ。


「……」


 一瞬であるが、青石の上の気配が低く低く、深くかがみこんだのがわかった。

 人の仕草ではない。獣の挙動だ。体を狙ったのに、それを掻い潜ったのだ。


「……妖魔の類か」


 千右衛門の思考はすでに警戒から戦闘へと切り替わっている。

 宿直番であるからには、当然、得意の鎌鎖が持っていない。

 だが、ここで仲間を呼びにゆけば、この妖異を取り逃がし、かつ御殿奥の主の安否にもかかわる。

 武器は腰の脇差、家宝の九寸五分があるのみ。


 千右衛門が覚悟を決めたその時、ようやく雲の切れ間から上弦の月が現れて、庭と池と、そこに浮かぶ青石を照らし出した。

 

 女がいた。


 濡れた青石の上に解いた黒髪も青黒く、絹の襦袢を青白くも豊満な体に一重、うち掛けたのみの裸体であった。

 手には半分に「齧り砕いた」としか見えぬ鯉の残骸。

 それを傍らに捨て置いて、細い指を前につき、膝を軽く曲げて腰を上げた四つん這いとなる。

 かんらん石の如き、きらきらと月光を跳ね返す双眸。そして黒髪の頭の上、本来ならば何もないはずのそこに、とがった三角のあれは――耳、か。


 ――いや。いやいやいや、まさか!


 油断なく脇差を抜き放ちながら、千右衛門は激しく動揺していた。

 目の前にいるのは妖異にほかならぬ。

 正しく、物の怪に相違ない。

 だが、その姿は寝乱れてこそいるが、間違いようもなく、今、主とともに寝所にいるはずの、光茂の愛妾「お豊の方」だった。


 ――このようなことが、おこりくるものか。


 世の不思議、それとも前世の因縁。いかなるかははかりえぬが超常の仕業を引き起こす怨恨か。

 迷いと動揺の中で思いを巡らせて、数日前の出来事に思い当たる。

 否。もしもこれが怨念によるものであったのなら、他に思い当たるものもない。


「そうか。竜造寺七之助か、その縁者か……あるいは、お前はあの時の」


 ◇◆◇


 かつて。佐賀の支配者であったのは龍造寺の一族であった。

 だが当主であった竜造寺隆信が戦場で討ち死にしたため、衆望は竜造寺家の家老であった鍋島直茂に集まった。

 九州征伐の過程で豊臣秀吉の差配により佐賀の実質的な支配者は鍋島家へとうつり竜造寺家は没落した。


 その竜造寺家に又七郎という者がいた。生まれつき目が不自由だったが、碁の上手として、やがて城下に知られるようになった。

 この又七郎にどこから聞きつけたのか、鍋島光茂が興味を持った。

 年老いた母と小さな黒い猫ともに佐賀の城下にひっそりと暮らしていた又七郎のもとに登城の上、碁の相手をするように命じたのである。


 竜造寺又七郎の心境は察するほかない。

 そして鍋島光茂の心底は千右衛門には明らかだった。その嗜虐心の赴くままに玩弄しようとしていたのだ。

 

 だが、その一番の碁は思わぬ結末を招くことになる。


 又七郎は第一手を碁盤の中央、天元に放つと、動揺と怒りと狼狽から平常心を無くした光茂を圧倒。

 完膚なきまでにたたき伏せたのである。

 そして、又七郎の不敵な態度に光茂はつい逆上し、その場で又七郎を斬り殺してしまった。


 千右衛門が言いつけられた所用で、その場を離れた時の事だった。


 千右衛門は慌てふためく同僚に指示を出し、座敷を片付け、血にまみれた調度を処分し、又七郎の死体を――古井戸に捨てた。


 彼はどこまでも愚直に謹厳に、汚れ仕事を淡々とこなした。


 ◇◆◇


「……」


 毎日見回っていた古井戸の側で、小さな黒猫を見かけたのは又七郎の死後、二日経ってからであったか。

 後から又七郎の母が自害した時の様子を聞いた折、二人とともに一匹の黒猫がいたことと。そして


「――おぬし、『コマ』か」


 二人が可愛がり、家族同然に扱っていた黒猫の名前がコマというのだと知った。


 だが、たとえ、そうだと知っていたとしても。


「犬ともいえ畜生ともいえ――とはいったものよ」


 おそらく、自分がここで食い殺されたとしても、この者の爪牙は止まるまい。

 あるいはすでに主も相応の報いを受けたかもしれぬ。

 どちらにせよ。

 この者にも、自分にも、ふさわしき未来があるだろう。


「お前を野に放つわけにはいかぬのだ」


 ぎぃぃぃやああああああおおおおおおおおおおおおおっ


 人の喉からは絶対発しえない叫びが、上弦の月に向けて放たれた。

 それは悲しくも美しい、咆哮だった。



 

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