仁義なき夜に窮鼠は猫を噛む
陽澄すずめ
仁義なき夜に窮鼠は猫を噛む
薄い雲の切間から、鋭く冴えた月の光が射す。風のない、静かな夜だった。
「……それで、本当なのか。黒龍会が何か企てている、というのは」
「はい、確かな筋からの情報です。明日の夜、黒龍会が我が
「ほう」
若頭からの報告を受けた縞崎組の親分は、片方だけの目を眇めた。もう一方の瞼には、かつての抗争の際に付いた深く大きな縦の傷が走っている。
匂い立つような色香を纏った女が、親分にしなだれかかった。
「
「美耶子姐さん自ら出張るほどのことじゃありませんよ。誰か若いやつにカマシ入れさせますか。しかし、このところ新しいシノギでかなり手一杯ですからね。猫の手も借りたい状況です」
若頭がぼやくと、親分はニヤリと笑った。
「こういうこともあろうかと、助っ人を連れてきた。来い」
すると、闇の中から一人の男が姿を現した。
精悍な顔立ちに、鍛え抜かれた鋼の肉体。これほど大柄な男でありながら、今の今まで丸きり気配がなかった。
「タツという男だ。儂の護衛についてもらう」
タツは無言のまま、ただ小さく頭を下げるのみ。寡黙さが却って不気味だ。
「
「最近この地に流れてきたそうだ。儂の目に狂いはない」
「そうですか……」
「へェ、なかなかいい男じゃないの。頼りになりそうだねェ。アタシは気に入ったよ」
「これ、美耶子。色目を使うでない」
「やだァ。アタシはアンタ一筋だよ」
にわかに弛緩した空気の中、若頭だけは油断なくタツの様子を窺っていた。組にとって大事な時期だ。何事も警戒するに越したことはない。
夜は更けつつある。若頭がその場を辞し、自分の持ち場へと戻ろうとした時。
若衆の一人が、慌ただしく駆け込んできた。
「カ、カチコミだぁぁ!」
「何ィ⁈ まさか黒龍会が……」
一同が身構えるか否かのうち、甲高い悲鳴が上がる。
気付けば、目の前にはすらりとした若い男。二人のお供を引き連れている。
「やぁ、いい夜ですね。縞崎組のみなさん」
「お、お前は黒龍会のリュウ!」
リュウと呼ばれた男は、端正な面差しに秀麗な笑みを浮かべた。上背はないものの、その身には触れたら切れそうなほどの気が満ちている。
先代が引退して、黒龍会の頭領を継いだばかりだったはずだ。若くして一つの組織を任されるに足る逸材だということだろう。
縞崎組の若頭は唸る。
「なぜだ、仕掛けるなら明日と……」
「嫌だなぁ、ガセネタに決まっているでしょう。これからの時代、情報戦を制した者が優位に立つんですよ」
「くそ、インテリヤクザめ。だが多勢に無勢。のこのこ表から乗り込んでくるとは我々も舐められたものだ。今夜こそ徹底的に潰してやろうじゃないか」
「その言葉、そっくりそのままお返ししますよ」
それを皮切りに、静かな夜は戦場へと塗り替えられた。
いつの間にか黒龍会の手の者が周囲を取り囲んでいたらしい。駆け付けてきた縞崎組の若衆が、すかさず応戦する。
「舐め腐っとんかこのアホンダラァァ!」
「テメェらイモ引いてんじゃねェ! 行くぞゴルァァ」
飛び交う怒号。敵味方入り乱れての泥試合。男たちの叫び声に、時々悲鳴が紛れ込む。
若頭は黒龍会の下っ端を殴り飛ばしながら、さっと状況を確認した。奇襲で油断したが、敵の数はさほど多くなさそうだ。
あのタツとかいう新入りが親分を守っている。任せても問題ないだろう。
辺りに鉄臭いにおいが漂い始める。既に地に臥している仲間もちらほらいる。
だが、こちらが優勢だ。美耶子がしなやかな肢体を翻し、リュウの側近の一人を打ち倒すのが見えた。
そして、とうとう縞崎組はリュウを追い詰める。黒龍会の手勢は残りわずか。既に勝ったも同然だ。
タツを背後に控えさせた親分が、美貌の男を睥睨する。
「年貢の納め時だな。何か言い遺すことは」
「……はっ」
「何がおかしい?」
「いえ、失礼……あんたらが、あまりに間抜けで」
「何だと?」
月明かりが、雲で翳っていく。
くつくつと喉で笑ったリュウは、底冷えするような声で言った。
「タツ、今だ」
「な、に……?」
その時、若頭は見た。タツの手の凶器が、親分の残った目玉を斬り裂くのを。
「なっ⁈ タツ、テメェまさか……!」
次の瞬間、タツの姿は消えていた。代わりに周囲の味方が呻き声を上げる。
黒き旋風と化したタツが、視認できない速度で辺りを駆け抜けつつ、縞崎組の若衆に次々襲いかかっている。瞬きするうちに、一人また一人と倒れていく。
「目が……儂の目がぁ……っ」
「ちょっと、アンタ……きゃあッ」
親分を助け起こそうとした美耶子が、タツを前にして尻餅をつく。
だが、タツは拳を納めた。
「……女を殴る趣味はない」
いつの間にか、縞崎組で立っているのは若頭ただ一人となっていた。
リュウが低い声で言う。
「さて、どうします? まだやりますか」
「くっ……撤収! 撤収だ!」
こうして縞崎組は命からがら退散していった。
タツはリュウの前に
「ご指示通りに」
「ご苦労だった、タツ」
「いえ……」
「あの親分も焼きが回ったな。助っ人の素性も見抜けないとは。先代の時には散々やられたが」
「窮鼠猫を噛む。追い詰められたところから巻き返す、ここからは貴方の時代です」
「はっ、我々が鼠か」
リュウは短く笑うと、片側の口角をにぃと上げた。
「悪くない」
再び雲間が切れ、白い月光が辺りを照らす。
「タツ、ついて来い。天下を見せてやる」
「……望み通りに」
二人の男が、闇へと消えた。
◇
「あれ? お母さん、猫の鳴き声しなくなったよ。あんなに騒いで何だったんだろう」
「裏の公園、野良猫の溜まり場になってるみたいよ。黒っぽい猫と縞模様の猫を見たわ。縄張り争いでもしてたのかもね」
「なるほど。猫といえば、タツはどこ行ったの?」
「また外に出てるんじゃない? そのうちフラッと帰ってくるでしょ」
「そうだね。まぁとにかく今は、早く引っ越しの荷解き終わらせなきゃね。タツのごはんだけ用意しとくわ」
—了—
仁義なき夜に窮鼠は猫を噛む 陽澄すずめ @cool_apple_moon
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