ミュル

猿川西瓜

お題 猫の手を借りた結果

 カエル子に対して、ぼくは恋をしていた。

 この子をどうしてくれようか、と、思いながら、相手を支配しようとする気持ちを必死に否定しようとした。


「うちは、昔、黒猫だった。みんなからは忌み嫌われていた。高校では、チェシャ猫みたいに、笑ってた」

 自分のことを猫に例えて話すカエル子。大学生である今、彼女のアカウントの名前は@Pussy★Catだ。仏文専攻の優等生な彼女は、ぼくがそのアカウントを特定していることを知らない。

 アカウント名の強さのわりに、更新される内容は、かわいいものの写真であふれていて、ふかすだけのタバコの写真が時々あった。

 だいぶ前に、何度かSNSでやりとりをして会った時、『僕』が女じゃなくて男だったとわかり、がっかりした君の顔がいまだにトラウマだ。


 カフェのソファー席に座りながら、カエル子と大きな窓の外を眺めた。桜が満開の特等席だった。オシャレタウンである堀江には、HAREの服ばかり着た大学生(通称ハレラー)が跋扈する。街に火炎瓶を投げ込んで阿鼻叫喚を起こしたい妄想に駆られるが、首をふって雑念を振り払う。

 いかんいかん、ぼくはお姉さん、ぼくは長身黒髪お姉さん、ワタシハチョウシンクロカミオネーサン……。決して、カエル子にかつて徹底的にふられた男ではない。生まれ変わったのだ。一晩の奇跡が起きたのだ。例え夢だとしても、このリアルは現実なのだ。


 カエル子の頭がだんだんこちらに傾いてきた。

 ぼくの肩に、頭を乗せてきた。ぼくはカエル子の、口の大きなその顔を今こそ見たかったけれど、クールを保つために姿勢を崩さなかった。


 『僕』だったとき、オフ会終わりにカエル子に告白し、「馬鹿野郎」とガチで言われてふられたものの、『僕』はあきらめ切れず、何度もアタックを繰り返した。しだいにエスカレートし、『僕』はストーカー化した。このままでは自分の感情を制御できず、彼女を傷付けてしまうと思い、メールアドレスも電話番号も履歴も全て消して、彼女と連絡を取れなくなるよう、自らに課したのだ。

 その翌日、目覚めると『僕』の体は、美容室で働いているような長身黒髪のホッソリして、めちゃくちゃ細いタバコを吸ってそうな女体と化していた。

 奇跡に戸惑いながらも、しばらくして僕の中にある欲望が立ち上がり、SNSアカウントを再び作成した。無我夢中だった。。今はそのことを……少し後悔しているかもしれない。

 

 カフェを出た後、ぼくはカエル子とビレバンを見て回った。かわいいかどうかもわからない猫の手グッズを手に取ってカエル子は「ほら、良くないですか、これ」と言って私に見せた。猫の手の形をしたリップクリームだった。

 ぼくはかなり萌えていたのだが、冷静を装って、「梶井基次郎の『愛撫』みたいだね」と言った。

「え」

「『愛撫』。エッセイなんだけどさ、梶井が飼い猫の耳をつねったり噛んだりするサイコパスエッセイさ。途中、夢の話になって、そこに女が出て来る。女は化粧をしているんだが、パフ・スポンジが猫の手になっている。猫の名前はミュルって言って、『わかっているじゃないの。これはミュルの前足よ』という台詞があるの。ま、それはリップクリームだけど」

 ぼくは彼女と目を合わせずに、三島由紀夫の文庫本などを意味ありげに手に取ってページをめくりながら言った。

 この梶井ネタ、僕が彼女とはじめて食事に行った際も言ったけれども、ガン無視されたものだ。だが、女性の身体でうんちくを言うと、なんだか「決まった」感がする。『僕』で言ったら単なるマウンティングか気持ちの悪い知識に過ぎないものが、どうしてこのスラリとした身体ならば言葉もしっかりとしてくるのだろう。


 ぼくの言葉を受けて、しばらくカエル子は黙っていた。そうして、無言のままレジに向かい、その猫の手の形をしたリップクリームを購入した。

「記念に、ね」

「ああ、そう」

 カエル子はそのまま商品をポケットに入れた。


 ぼくは、同じくビレバンの店内にいる背の小さな女が、「わたし、近○大学にいた彼氏と付き合っていたけれども、あまりにも気が合いすぎて、これ以上好きになることができないってなって別れることになったの」という驚愕の話題に耳を傾けていた。

 いかんいかん、カエル子に集中しなければ。

「カエルちゃん」

「は、はい」

「ああ、ごめんね。いきなり変なあだ名つけて」

「いえ、別に……気になりません」

 ぼくの目をじっと見つめて彼女は返事をした。

「男の人には興味ないの?」

 と、聞くと、

「いじわるだなぁ」

 にんまりと笑う。こんな顔、今まで見たことがなかった。無表情な冷たい目以外に、女性はこんなにも豊かな顔をするのか。悲しそうでいて、甘えたくて、強がりたくて、いとおしそうにぼくを見つめる顔。この顔ではじめて『僕』は、男である自分が彼女を好きになることをちゃんとあきらめようという気持ちになった。


 ビレバンを出ると、陽が傾き始めていた。スケボーを持って隣を走り抜けていく少年たち。破れて貼り付いたままのチラシと電柱。その下を歩く、でかいイヌを連れたサングラスのおじさん。クラブがそろそろ開き始めるのを待ちながら、たむろするB-BOYたち。タバコ吸う大量の人びとと、あふれそうな吸い殻入れ。左にはからっぽの交番、右には行列のタコ焼き屋。ぼくがそちらを見れば、カエル子もそちらを見る。決してカエル子の好きな光景じゃないのに。


 彼女と駅で別れるとき、動けなくなった。彼女がぼくをきつく抱き締めたのだ。風邪をひいているみたいにブルブル震えていたのがわかった。

 ぼくはそっと抱き締め返すふりをして、ポケットの中に手を入れて、猫の手を抜き取った。

 身体と身体が離れるとき、カエル子は泣いていた。たぶん、叶わぬ気持ちだと悟ったからだろうか。ぼくもそうだ。決してその気持ちを受けとめることはできない。


 別れてからすぐに、彼女から何通も連絡が来た。スマホの通知バーの表示でわかった。SNSにログインをせず、内容は見ないようにした。我慢に我慢して返信はしないと決めた。

 帰宅した途端、どっと疲れがやってきて、猫の手のリップクリームを唇に塗って、眠った。

 そして、起きる頃には元のさえない男に戻っていた。

 どうしてか「やっぱりね」と思っている自分がいた。ちょっとだけ、昨日の身体が続いて欲しかったような気がした。

 起き抜けにスマホを見ると、@Pussy★Catのアカウント名が@ミュル変わっていたことを通知欄が知らせていた。




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