メーデーさえも闇の中
陽澄すずめ
メーデーさえも闇の中
隣にいる男がすっかり眠ってしまうまで、あたしはじっと布団の中で息を潜めていた。
体があちこち痛む。でも、そんなこと構っている場合じゃない。
あたしはできるだけ物音を立てないように身支度し、こっそりまとめておいた荷物を持って家を抜け出した。
午前三時半すぎ。
頼りない街路灯の照らす道を、ひたひたと進んでいく。どの家の窓も真っ暗だ。
寒くて、心細い。だけど夜が明けるまで待っていたら、お母さんが仕事から帰ってきてしまう。今日は家にあの男しかいないから、このタイミングが一番良かったんだ。
駅前まで着くと、コンビニの明かりに少しだけホッとした。
始発が動き出すまで二時間ほど。こんな夜中に中学生が一人でウロウロしているところを見つかったら、きっと通報されてしまう。
あたしは人目につかない物陰に身を隠して、震える指でスマホを操作した。
『リクさん、家を出ました。始発まで駅の近くで待ちます』
『AYAちゃん、無事に抜け出せて良かったね。何かあったら僕に電話してくれていいからね』
すぐにSNSのダイレクトメッセージでリクさんから返信があって、思わず泣きそうになった。こんな時間なのに、起きて待機してくれているんだ。
不安で仕方ない気持ちを、リクさんとメッセージのやりとりをすることで誤魔化す。
そうこうするうち空が白み始めて、電車が動き出す頃合いになった。
リクさんから言われていた通り、あたしは顔を大きなマスクで隠して、現金で切符を買った。あたしがここを通った履歴が残らないようにするためらしい。
お金はあいつの財布から抜き取ってきた。パチンコで勝ったとかで、やたら上機嫌だったから。
始発電車はガラガラだった。あたしは端っこの席に座って、手すりにもたれて目を瞑った。騒がしい心音が漏れないように、浅く短い呼吸を繰り返しながら。
新横浜駅の新幹線券売機で、広島行きの切符を買う。
このくらいの時間帯になるとさすがにそこそこ人がいて、あたしは通行人の流れに紛れてホームへ向かった。
やっとで自由席に腰を下ろすと、急に気が抜けた。新幹線に乗れたことをリクさんに伝えた後、あたしはいつの間にか寝落ちてしまった。
それから三時間ちょっと。広島駅への到着を知らせる車内アナウンスで跳ね起きる。慌てて列車を降りれば、そこは丸きり初めての景色で、あたしは緊張を思い出した。
『着きました』
『改札出たとこで待ってるよ』
切符を改札に通すのに、何回か失敗した。
送ってもらっていた写真を頼りにリクさんをきょろきょろ探していたら、向こうから声をかけてきた。
「AYAちゃん?」
「あ、はい……リクさんですか?」
「うん、そうだよ」
眼鏡をかけてヒョロッと痩せた男の人。確か二十五歳だと言っていた。
「じゃあ、行こうか。お腹空いてない? コンビニで何か買って帰ろう」
リクさんはあたしの荷物を持ってくれた。あたしの分の切符を買ってくれて、一緒に電車に乗った。
窓の外を流れていく、見知らぬ街。
改めて不安が襲ってくる。あたし、一人でこんなところまで来てしまった。
「AYAちゃん、良かった。取り返しのつかないことになる前に、君を助け出せて。僕の家なら安全だからね」
あたしは曖昧に笑って、その表情をしっかり顔に貼り付けた。
リクさんとSNSで知り合ったのは二週間前。あたしの呟きに、リクさんがメッセージをくれた。
『僕が君を助けてあげるよ』
それはまるで神さまの声みたいだった。
今の状況から抜け出せるなら。
ここから救い出してくれるなら。
誰でも良かった。あたしは迷わずその手を取った。
電車を降りて、道すがらコンビニで弁当を買って、リクさんの家まで並んで歩く。
二階建てのアパート。軋んだ扉を開ければ、いろんな物や服が壁際にみっちり寄せて置かれたワンルーム。
「ごめん、汚くて」
リクさんはそう言ったけど、ゴミの散らかったあたしの家よりマシだった。
一人用のこたつ机で向き合って、あたしたちはもそもそと弁当を食べた。
ひんやりした部屋は、知らない匂いがする。コンビニでレンチンしたパスタだけ、不自然に熱い。
「僕も親が離婚しててさ。僕は父親、妹は母親についてった。母親は再婚したんだけど、妹がAYAちゃんと同じような目に遭って、自殺しちゃってさ……他人事とは思えなかったんだよ」
リクさんが喋るのを、あたしは柔らかすぎる麺をゆっくり噛み潰しながら聴いていた。
「だから、気を楽にしてくれていいよ」
何が『だから』なのか分からなかったけど、あたしはとりあえず頷いた。
リクさんの話が本当かどうか、あたしには関係のないことだった。
大人の男の人がどういうつもりで可哀想な女子中学生に声をかけるのか、気付かないほどあたしは馬鹿じゃない。
何か要求されたら、リクさんに従おうと思っていた。どのみちあたしの体はもう汚れているから。
あの家に居続けるより、悪いことなんて起こりようもないから。
だけど予想に反して、リクさんは何もしてこなかった。
夜は机を挟んで離れた場所で寝て、新しい着替えも用意してくれた。
昼間はコンビニでバイトをしているらしく、あたしは留守番を任された。鍵を開けて出ていくこともできたけど、他に行く場所なんてないからあたしは大人しく待っていた。夕飯には、リクさんが持ち帰った消費期限切れの弁当を二人で食べた。
次の日も、そのまた次の日も、同じようにして過ごした。
リクさんは優しかった。あたしがお母さんやあの男からされたことを話したら、辛かったねと言って涙を流してくれた。
好きなだけここに居ていいと言ってくれた。
自分は妹にしてあげられなかったことをしているだけだから何も気にしなくていいと言ってくれた。
リクさんも辛かったんだろうと思って、あたしも泣いた。
あたしは本当に救われたのかもしれない。
誰からも酷いことをされずに夜を過ごせるなんて、信じられなかった。
リクさんが、あたしを助けてくれた。
こんなに穏やかで暴力を振るわない人がいるなんて、嘘みたいだった。
これまで全身どっぷり浸かって天井も底も見えなかった闇に、光が射した気がした。
リクさんが手を差し伸べてくれたから。
良かった。本当に良かった。リクさんのおかげだ。
もしかしたら、あたしもこのままマトモな人生を送れるかもしれない。
だけどそんな生活は、七日目の昼過ぎ、唐突に終わった。
平穏な空気を揺るがすように鳴らされたインターホン。誰か来ても出ないようにと言われていたから、あたしはじっと息を殺していた。
人の気配が遠ざかり、ホッとしたのも束の間。今度は鍵があっさり回って、玄関扉が開けられた。
どやどやと、スーツの人たちが入ってくる。男の人が二、三人に、女の人が一人。
「少女を発見。無事のようです」
何が起こったのか分からなかった。あたしは抱えられるようにして部屋の外へと連れ出された。
あたしの背中を支える女の人が、優しい声で言った。
「怖かったね。すぐにお父さんとお母さんのところに帰れるからね」
「あ、あ、あの……リクさんは?」
「もう大丈夫。悪い人は警察が捕まえたからね。あなたは助かったの」
途端、さぁっと血の気が引いた。
「ち、違うんです。リクさんはあたしを助けてくれたんです。悪い人じゃないんです」
「心配しないで。ちゃんと話を聴くから」
バタン、と。あたしの背後で扉が閉まった。
リクさん。リクさん。ごめんなさい。あたしのせいで。ごめんなさい。
誰か助けて。リクさんを助けて。
パトカーの後部座席に押し込められながら、あたしは誰にも届くことのない救難信号を発信し続けた。
◇
『続報です。神奈川県××市の飲食店従業員・中原 英子さん(44)の長女・
◇
白い部屋の中で、あたしはぼうっとしていた。あの女の刑事さんからいろいろ質問をされたけど、あんまり上手く答えられなかった。
リクさんは、どうなってしまったんだろう。
誰が何と言おうと、リクさんはあたしを助けてくれたのに。
「困ったことや辛いことがあるなら、どんなことでもいいから話してね。必ず力になるから」
嘘だと思った。
リクさんのことを逮捕したくせに。
部屋の扉が開いて、男の人が顔を覗かせる。
「親御さんがいらっしゃいましたよ。こちらにご案内します」
「彩乃さん、やっとおうちに帰れるよ」
一瞬のうちに、すぅっと背筋が寒くなった。
冷たい廊下を、二人の足音が響いてくる。
——子供なんて大人の言うこと聞いてりゃいいんだ。
どんどん近づいてくる。
——
逃げられない。ヒーローなんて助けに来ない。きっとまた元通りだ。
知らず知らず、隣にいる刑事さんの袖を掴んでいた。
「彩乃さん?」
今にも引き千切れそうな希望の端っこに、必死の思いで縋るように。
誰か。誰か。
もう何度願ったかも分からない言葉が、ようやくあたしの喉からせぐり上げた。
「……助けて」
—了—
メーデーさえも闇の中 陽澄すずめ @cool_apple_moon
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます