兄は私だけのヒーローだった

葎屋敷

お兄ちゃんよりも、私の背は高かった

 私のせいで、兄は私だけのヒーローになった。


 お盆とは、八月に行われる、祖先の霊を祀る行事のこと。八月中旬はこれにちなんで、お盆休みという連日休暇をもらえることが多い。だけど、私の両親は忙しすぎて、休みがちゃんと取れなかった。一日だけは意地でももぎ取ったらしいけど。

 私の家族は、お盆休みには、東京のおばあちゃん家の近くにあるお墓へ、お墓参りに行く。ご先祖様が代々眠っているお墓だと聞いた。お父さんとお母さんも、死んだらそのお墓に入るらしい。


「じゃあ、ひなた。気を付けてね」

「うん」


 おばあちゃんが面倒を見てくれるということで、私と三つ上のお兄ちゃんは、お母さんたちより先におばあちゃん家に行くことになった。お母さんとお父さんは、最終日に合流して、お墓参りとお喋りを少しだけして帰るんだとか。


「知らない人について行っちゃだめよ? おばあちゃん家がどこかわからなくなったら――」

「だから大丈夫だって! お兄ちゃんがいるし!」


 駅の改札前で、お母さんは注意ばっかりしてくる。私がわからなくなっても、お兄ちゃんがわかるからいいのに。


「あまり、オニーチャンに頼りすぎちゃだめよ。一人でできるようにね」


 お母さんとお兄ちゃんは、あんまり仲良しじゃない。気がついた時には、お母さんはお兄ちゃんの方を向かなくなった。お兄ちゃんは寂しいはずなのに、苦笑するだけだった。


「行ってきまーす!」


 切符を握りしめて、お母さんに手を振る。私と違って、お兄ちゃんは手を振らなかった。





 揺れる電車の中で、太陽の光が私のお膝をあったかくしてくれる。その光は勉強机のデスクライトよりもぽかぽかした光で、浴びてるだけで眠たくなってしまう。


「ひなた。もうすぐ降りる駅だぞ」


 おばあちゃん家がある駅が近づくと、お兄ちゃんが起こしてくれる。お兄ちゃんはお母さんみたいに、私の体を思いっきり揺らしたり、掛布団をはがしたりしない。ただ、優しい声で、起こしてくれる。


「ほら、着いたぞ」

「うん……」


 眠たい目を擦りながら、私は先を行くお兄ちゃんについて行く。電車から降りれば、そこはおばあちゃん家の最寄り駅だ。ここから三十分くらい歩くと、おばあちゃん家に着く。

 改札から出る時には、眠気はすっかりどこかへ飛んでしまった。おばあちゃん家に来るのは、お正月以来。久しぶりに見た駅前の景色に、冒険に来たかのような感覚を覚える。


「お兄ちゃん。おばあちゃん家、どっちだっけ」

「ほら、こっち」


 お兄ちゃんは私よりもずっと頭が良くて、いつも私の先を歩いてる。どんな時でも頼りになって、ヒーローみたいだった。


 二十分くらい経った頃、私たちは住宅地を歩いていた。おばあちゃん家は東京にあるけど、あんまり東京っぽくない。お空の広さも、私が住んでる家の近所と変わらないくらい。

 お兄ちゃんと手を繋いでも、これくらい人気のない場所なら恥ずかしくなかった。私はお兄ちゃんとお喋りしながら、着実におばあちゃん家に近づいていた。

 なのに、途中、私たちの話を遮るように、大きな動物の吠える声が聞こえた。


「い、犬だ……」

「…………」


 すぐ先の家の犬が吠えていた。

私は犬が苦手だ。だって、吠えてる声が、風船の破裂する音くらい大きいから。

 私はそっと兄の顔を見る。兄は私の手をぎゅっと握り返して、


「大丈夫だよ」


 と言ってくれた。

 犬がいる家の前を通ろうとすれば、首輪で繋がれた大きな犬が、お庭の柵の隙間からこちらを見ている。吠える先に開く口は大きく、覗かせる牙も大きい。

 私はお兄ちゃんの腕に顔を埋めながら歩いて行く。耳も塞ぐ。お兄ちゃんは私の頭を撫でて、励ましてくれていた。

 でも、途中でお兄ちゃんに甘えてばかりなのが急に恥ずかしくなって、私は顔を上げた。


「もう大丈夫だよ!」


 と今度は私がお兄ちゃんに言う。そして、意を決して、吠え続ける犬に対し、


「うっさい、ワン!」


 と吠え返す。そして走り出した。もちろん、お兄ちゃんの手を引っ張って。

 私たちは犬の声が聞こえなくなる位置まで走った。走ったといっても、その距離はほんのわずか。なのに、私の息はあがっていた。運動不足というやつだ。お母さんがよく言ってるやつ。

 一方、お兄ちゃんは全然苦しくなさそうだった。ただ、お兄ちゃんは私の方をびっくりした様子で見ていた。

 そして、


「成長したな」


 と褒めながら、私の頭をまた撫でた。





 怖い犬すら乗り越えて、私たちはおばあちゃん家に着いた。おばあちゃんは「よく来たね」と言って、私たちを迎えてくれた。

 私が汗をたくさんかいていたから、おばあちゃんはタオルを一枚用意してくれた。私がお顔を洗っている間に、スイカと冷えた麦茶も用意してくれた。私はおばあちゃんと一緒になって、スイカの種をお庭に口からぺって飛ばした。おばあちゃんは種を飛ばすのが上手で、飛距離が足りずに私は全然勝てなかった。

 ちなみに、お兄ちゃんはウォーターメロンよりメロン派だからって、なにも食べなかった。





 その夜、おばあちゃんは私たちのために、使ってないお部屋にお布団を敷いてくれた。大きめのお布団一枚で、私とお兄ちゃんだけなら、二人で入っても余裕なくらいだった。


「おやすみ、お兄ちゃん」

「ああ、お休み」


 私は一日の終わりの挨拶を交わして、眠りについた。





 その日、私は夢を見た。それは三年前の過去の記憶の再現だった。

 その時の私は、おばあちゃん家の階段の手すりに乗って遊んでいた。かるーい、ちっちゃい幼稚園生だったから出来た芸当で、三年後の今はもう、絶対にできないことだ。


「ひなた。危ないぞ」

「だいじょうぶ!」


 お兄ちゃんは心配してくれてたのに、私は聞く耳を欠片も持たなかった。

 それがいけなったのだ。間抜けな私は兄が心配していた通り、手を滑らせて、階段下に落ちそうになった。

 けれど、


「ひなた!」


 結局、私はお兄ちゃんの腕に引っ張られて、階段の踊り場に尻餅を付いただけ。代わりにバランスを崩した兄だけが、階段下に落ちた。


「ごめんなさい、ごめんなさいっ」


 救急車で運ばれる兄。赤いライトに照らされながら、私は涙を袖でごしごしと拭いていた。そんな私に、兄は「大丈夫」と笑いかけた。


 あの日から、兄は私だけのヒーローになった。





 夜中、私はトイレに行きたくなって、目を覚ました。お兄ちゃんが布団の中にいないと、その時に気がついた。

 私はトイレに行った後、お兄ちゃんを探した。一階にいたのは、寝息をたてたおばあちゃんのみ。他には誰もいない。

 となると、お兄ちゃんは二階にいる。


「…………」


 私は階段の前で、しばらく黙っていた。落ちかけて、お兄ちゃんを巻き込んだあの日以来、私はこの階段が怖かった。おばあちゃんもおばあちゃんの家も大好きだけれど、この階段だけは苦手。だから、三年前のあの日以来、私はこの家の二階へと一度もあがっていない。


「……お兄ちゃん」


 でも今、お兄ちゃんは二階にいる。

 どうしても、今、お兄ちゃんと話がしたくて、階段を昇り始めた。

 一段、一段。二階へと昇りきるまで、私はほとんど息をしていなかった。





「お兄ちゃん」


 お兄ちゃんは、二階のベランダで空を見上げていた。私が声をかけると、お兄ちゃんは振り返って、手招きした。私は嬉しくなって、空いたガラス戸の隙間から外に出て、兄の隣に立った。


「お兄ちゃん、なにしてるの?」

「ぼんやりしてたんだよ」


 兄はにっこりと笑いながら、自分の後ろを指差した。一見、ガラス戸か部屋の壁を指してるように見えるけれど、その先の階段を指しているだろうことは、すぐにわかった。


「一人で昇れたのか?」

「うん、昇れたよ。……お兄ちゃん、ごめんなさい」


 私は息を一回呑んでから、何度目かわからない「ごめんなさい」をした。


「いいんだよ。俺が好きでやった」

「ごめんなさい……」

「ひなた。あの時のこと、今でも覚えてるか?」


 お兄ちゃんの質問に、私は黙って頷いた。


「そっか。じゃあ、ひなた。あの後のこと、今なら思い出せるか?」


 なんのことかわからなくて、今度は首を横に傾けた。お兄ちゃんは夜空を見上げながら、質問を重ねた。



「じゃあ、ひなたは、俺が死んだことは思い出せない?」



 目から水分がなくなったと思った。ひりひりと鼓膜の向こうが引っ張られるみたいに痛くて。唾が口の中に溜まって。咳き込みそうになるのを、呼吸を止めることでなんとか抑えて。心臓がちょっと落ち着いたところで、呼吸を再開させて。


 空気を吐いて、吸って、出して、呑み込んで。ようやく、


「思い出したよ」


 と、それだけ返した。





 三年前のあの日、兄は死んだ。階段から落ちて、頭を打ったから。

 即死だった。


 あの日、兄は私だけのヒーローになった。親にも、おばあちゃんにも、友達にも。誰にも見えない、私だけのヒーロー。

 でも、お母さんとお父さんは兄に頼る私を心配していた。何度も精神科ってところに連れていかれたけど、なんであんなところでお医者さんとお話ししないといけないのか、昔の私にはよくわからなかった。


 でも最近、なんとなくわかってきたよ。


 お兄ちゃんはすでにこの世にはいない人で。

 私だけのヒーローは、夢と同じで、私の目にしか映ってくれないんだ。


 ヒーローは私が殺した。




 母たちが祖母宅へ来れた日、私は珍しく墓参りへ一緒に行くと決めた。去年と一昨年はどうしてか行っていなかった。

 三年目になってようやく、私は兄のお墓参りができた。





 家に帰る日。駅のホームで電車に乗る。父と母が先に乗って、私も続く。けれど、兄が乗ってこない。


「お兄ちゃん?」

「もう大丈夫だろ。お前も、俺と同じ年になった」


 電車のドアが閉まるその間際。私はホームへ戻って兄の腕を引っ張ろうか悩んで、迷って、


 やめた。


 空気が抜けるような音を立てながら、電車のドアが閉まる。ドア越しに兄が手を振っている。


「今までありがとう」


 とだけ私が言えば、兄はただ微笑んで、手を下ろした。



 私だけのヒーローとは、その日以来、会っていない。

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