兄は私だけのヒーローだった
葎屋敷
お兄ちゃんよりも、私の背は高かった
私のせいで、兄は私だけのヒーローになった。
お盆とは、八月に行われる、祖先の霊を祀る行事のこと。八月中旬はこれにちなんで、お盆休みという連日休暇をもらえることが多い。だけど、私の両親は忙しすぎて、休みがちゃんと取れなかった。一日だけは意地でももぎ取ったらしいけど。
私の家族は、お盆休みには、東京のおばあちゃん家の近くにあるお墓へ、お墓参りに行く。ご先祖様が代々眠っているお墓だと聞いた。お父さんとお母さんも、死んだらそのお墓に入るらしい。
「じゃあ、ひなた。気を付けてね」
「うん」
おばあちゃんが面倒を見てくれるということで、私と三つ上のお兄ちゃんは、お母さんたちより先におばあちゃん家に行くことになった。お母さんとお父さんは、最終日に合流して、お墓参りとお喋りを少しだけして帰るんだとか。
「知らない人について行っちゃだめよ? おばあちゃん家がどこかわからなくなったら――」
「だから大丈夫だって! お兄ちゃんがいるし!」
駅の改札前で、お母さんは注意ばっかりしてくる。私がわからなくなっても、お兄ちゃんがわかるからいいのに。
「あまり、オニーチャンに頼りすぎちゃだめよ。一人でできるようにね」
お母さんとお兄ちゃんは、あんまり仲良しじゃない。気がついた時には、お母さんはお兄ちゃんの方を向かなくなった。お兄ちゃんは寂しいはずなのに、苦笑するだけだった。
「行ってきまーす!」
切符を握りしめて、お母さんに手を振る。私と違って、お兄ちゃんは手を振らなかった。
*
揺れる電車の中で、太陽の光が私のお膝をあったかくしてくれる。その光は勉強机のデスクライトよりもぽかぽかした光で、浴びてるだけで眠たくなってしまう。
「ひなた。もうすぐ降りる駅だぞ」
おばあちゃん家がある駅が近づくと、お兄ちゃんが起こしてくれる。お兄ちゃんはお母さんみたいに、私の体を思いっきり揺らしたり、掛布団をはがしたりしない。ただ、優しい声で、起こしてくれる。
「ほら、着いたぞ」
「うん……」
眠たい目を擦りながら、私は先を行くお兄ちゃんについて行く。電車から降りれば、そこはおばあちゃん家の最寄り駅だ。ここから三十分くらい歩くと、おばあちゃん家に着く。
改札から出る時には、眠気はすっかりどこかへ飛んでしまった。おばあちゃん家に来るのは、お正月以来。久しぶりに見た駅前の景色に、冒険に来たかのような感覚を覚える。
「お兄ちゃん。おばあちゃん家、どっちだっけ」
「ほら、こっち」
お兄ちゃんは私よりもずっと頭が良くて、いつも私の先を歩いてる。どんな時でも頼りになって、ヒーローみたいだった。
二十分くらい経った頃、私たちは住宅地を歩いていた。おばあちゃん家は東京にあるけど、あんまり東京っぽくない。お空の広さも、私が住んでる家の近所と変わらないくらい。
お兄ちゃんと手を繋いでも、これくらい人気のない場所なら恥ずかしくなかった。私はお兄ちゃんとお喋りしながら、着実におばあちゃん家に近づいていた。
なのに、途中、私たちの話を遮るように、大きな動物の吠える声が聞こえた。
「い、犬だ……」
「…………」
すぐ先の家の犬が吠えていた。
私は犬が苦手だ。だって、吠えてる声が、風船の破裂する音くらい大きいから。
私はそっと兄の顔を見る。兄は私の手をぎゅっと握り返して、
「大丈夫だよ」
と言ってくれた。
犬がいる家の前を通ろうとすれば、首輪で繋がれた大きな犬が、お庭の柵の隙間からこちらを見ている。吠える先に開く口は大きく、覗かせる牙も大きい。
私はお兄ちゃんの腕に顔を埋めながら歩いて行く。耳も塞ぐ。お兄ちゃんは私の頭を撫でて、励ましてくれていた。
でも、途中でお兄ちゃんに甘えてばかりなのが急に恥ずかしくなって、私は顔を上げた。
「もう大丈夫だよ!」
と今度は私がお兄ちゃんに言う。そして、意を決して、吠え続ける犬に対し、
「うっさい、ワン!」
と吠え返す。そして走り出した。もちろん、お兄ちゃんの手を引っ張って。
私たちは犬の声が聞こえなくなる位置まで走った。走ったといっても、その距離はほんのわずか。なのに、私の息はあがっていた。運動不足というやつだ。お母さんがよく言ってるやつ。
一方、お兄ちゃんは全然苦しくなさそうだった。ただ、お兄ちゃんは私の方をびっくりした様子で見ていた。
そして、
「成長したな」
と褒めながら、私の頭をまた撫でた。
*
怖い犬すら乗り越えて、私たちはおばあちゃん家に着いた。おばあちゃんは「よく来たね」と言って、私たちを迎えてくれた。
私が汗をたくさんかいていたから、おばあちゃんはタオルを一枚用意してくれた。私がお顔を洗っている間に、スイカと冷えた麦茶も用意してくれた。私はおばあちゃんと一緒になって、スイカの種をお庭に口からぺって飛ばした。おばあちゃんは種を飛ばすのが上手で、飛距離が足りずに私は全然勝てなかった。
ちなみに、お兄ちゃんはウォーターメロンよりメロン派だからって、なにも食べなかった。
*
その夜、おばあちゃんは私たちのために、使ってないお部屋にお布団を敷いてくれた。大きめのお布団一枚で、私とお兄ちゃんだけなら、二人で入っても余裕なくらいだった。
「おやすみ、お兄ちゃん」
「ああ、お休み」
私は一日の終わりの挨拶を交わして、眠りについた。
*
その日、私は夢を見た。それは三年前の過去の記憶の再現だった。
その時の私は、おばあちゃん家の階段の手すりに乗って遊んでいた。かるーい、ちっちゃい幼稚園生だったから出来た芸当で、三年後の今はもう、絶対にできないことだ。
「ひなた。危ないぞ」
「だいじょうぶ!」
お兄ちゃんは心配してくれてたのに、私は聞く耳を欠片も持たなかった。
それがいけなったのだ。間抜けな私は兄が心配していた通り、手を滑らせて、階段下に落ちそうになった。
けれど、
「ひなた!」
結局、私はお兄ちゃんの腕に引っ張られて、階段の踊り場に尻餅を付いただけ。代わりにバランスを崩した兄だけが、階段下に落ちた。
「ごめんなさい、ごめんなさいっ」
救急車で運ばれる兄。赤いライトに照らされながら、私は涙を袖でごしごしと拭いていた。そんな私に、兄は「大丈夫」と笑いかけた。
あの日から、兄は私だけのヒーローになった。
*
夜中、私はトイレに行きたくなって、目を覚ました。お兄ちゃんが布団の中にいないと、その時に気がついた。
私はトイレに行った後、お兄ちゃんを探した。一階にいたのは、寝息をたてたおばあちゃんのみ。他には誰もいない。
となると、お兄ちゃんは二階にいる。
「…………」
私は階段の前で、しばらく黙っていた。落ちかけて、お兄ちゃんを巻き込んだあの日以来、私はこの階段が怖かった。おばあちゃんもおばあちゃんの家も大好きだけれど、この階段だけは苦手。だから、三年前のあの日以来、私はこの家の二階へと一度もあがっていない。
「……お兄ちゃん」
でも今、お兄ちゃんは二階にいる。
どうしても、今、お兄ちゃんと話がしたくて、階段を昇り始めた。
一段、一段。二階へと昇りきるまで、私はほとんど息をしていなかった。
*
「お兄ちゃん」
お兄ちゃんは、二階のベランダで空を見上げていた。私が声をかけると、お兄ちゃんは振り返って、手招きした。私は嬉しくなって、空いたガラス戸の隙間から外に出て、兄の隣に立った。
「お兄ちゃん、なにしてるの?」
「ぼんやりしてたんだよ」
兄はにっこりと笑いながら、自分の後ろを指差した。一見、ガラス戸か部屋の壁を指してるように見えるけれど、その先の階段を指しているだろうことは、すぐにわかった。
「一人で昇れたのか?」
「うん、昇れたよ。……お兄ちゃん、ごめんなさい」
私は息を一回呑んでから、何度目かわからない「ごめんなさい」をした。
「いいんだよ。俺が好きでやった」
「ごめんなさい……」
「ひなた。あの時のこと、今でも覚えてるか?」
お兄ちゃんの質問に、私は黙って頷いた。
「そっか。じゃあ、ひなた。あの後のこと、今なら思い出せるか?」
なんのことかわからなくて、今度は首を横に傾けた。お兄ちゃんは夜空を見上げながら、質問を重ねた。
「じゃあ、ひなたは、俺が死んだことは思い出せない?」
目から水分がなくなったと思った。ひりひりと鼓膜の向こうが引っ張られるみたいに痛くて。唾が口の中に溜まって。咳き込みそうになるのを、呼吸を止めることでなんとか抑えて。心臓がちょっと落ち着いたところで、呼吸を再開させて。
空気を吐いて、吸って、出して、呑み込んで。ようやく、
「思い出したよ」
と、それだけ返した。
*
三年前のあの日、兄は死んだ。階段から落ちて、頭を打ったから。
即死だった。
あの日、兄は私だけのヒーローになった。親にも、おばあちゃんにも、友達にも。誰にも見えない、私だけのヒーロー。
でも、お母さんとお父さんは兄に頼る私を心配していた。何度も精神科ってところに連れていかれたけど、なんであんなところでお医者さんとお話ししないといけないのか、昔の私にはよくわからなかった。
でも最近、なんとなくわかってきたよ。
お兄ちゃんはすでにこの世にはいない人で。
私だけのヒーローは、夢と同じで、私の目にしか映ってくれないんだ。
ヒーローは私が殺した。
*
母たちが祖母宅へ来れた日、私は珍しく墓参りへ一緒に行くと決めた。去年と一昨年はどうしてか行っていなかった。
三年目になってようやく、私は兄のお墓参りができた。
*
家に帰る日。駅のホームで電車に乗る。父と母が先に乗って、私も続く。けれど、兄が乗ってこない。
「お兄ちゃん?」
「もう大丈夫だろ。お前も、俺と同じ年になった」
電車のドアが閉まるその間際。私はホームへ戻って兄の腕を引っ張ろうか悩んで、迷って、
やめた。
空気が抜けるような音を立てながら、電車のドアが閉まる。ドア越しに兄が手を振っている。
「今までありがとう」
とだけ私が言えば、兄はただ微笑んで、手を下ろした。
私だけのヒーローとは、その日以来、会っていない。
兄は私だけのヒーローだった 葎屋敷 @Muguraya
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