異郷にて、スープを煮る
五色ひいらぎ
異郷にて、スープを煮る
個人的に聞いてほしい話がある、とマウロさんに言われた時は、正直とまどいました。
私は神に仕えるシスターです。聖なる教えでしたらいくらでも説きます。ですが個人的に、と言われると……私は一応若い女ですし、マウロさんは若い男性です。嫌な予感しかしませんでした。
けれど、マウロさんのおかげで色々と助かっているのも事実です。隣国デリツィオーゾの王城が陥落し、大勢の避難民が我が国コンパーニョへ流れてきてから、教会の援助を必要とする人々は増え続けています。炊き出しの手も物資を配る手も足りない中、料理人であるマウロさんの働きは本当にありがたかった。ご自身もデリツィオーゾからの避難民だというのに、疲れた素振りひとつ見せず、日々献身的に炊き出しの手伝いをしてくださる姿には感謝しかありません。彼の腕前のおかげで、お配りする粥やスープの質は数段上がったように思います。
ですので、ひとまずお話だけは聞いて差し上げようと思いました。……神の道を踏み外すようなお話になれば、すぐ切り上げる心づもりで。
マウロさんは、他に誰もいない厨房でスープを煮ていました。ほのかに漂ってくる匂いは、いつもの炊き出しのものより濃く複雑です。しょうがの爽やかな香りの中に、肉や香味野菜が混じった、上等な食物の香りでした。
「ああ、来てくださったんですね。シスター・ルチア」
マウロさんが、私を振り向いて笑います。
「呼ばれて参りましたが、何の御用でしょうか」
「……このスープ、飲んでいただきたくて」
私はすぐさま、首を横に振りました。
「今の状況はあなたもよくご存知でしょう。苦しむ人々をさしおいて、私たちだけ贅沢をしようというのですか」
「ルチアさんなら、そうおっしゃると思ってました」
マウロさんは、再び鍋の方を向きました。鍋の中身が煮える音が、ぶつぶつと響いています。
「だったら、話を聞いてくれるだけでもいいです。……俺の、大事な人の話です」
鍋の中を見つめながら、マウロさんは、ぽつりぽつりと話を始めました。
マウロさんが「店長さん」と出会ったのは、本当に偶然だったそうです。
その日マウロさんは、市場で喧嘩に遭遇しました。野菜を売る露店で、釣銭の多い少ないで男たちがもめていました。やがて、加勢する者が店主側と客側の両方に現れ、周りで泣き出す子供も出始め、辺りは大混乱になりました。
マウロさんはまず、警備兵を呼ぶよう近くの人に依頼しました。そのうえで二人の間に割って入り、状況の整理を始めました。店主が渡したものと客が受け取ったもの、それぞれを露店の絨毯の上に並べさせ……その間に、泣いている子供を親たちと一緒に宥めたりもしました。
やがて警備兵さんが到着し、立ち合いの下、衆人環視の中で状況の再現が行われました。絡まった糸を一つずつ解きほぐしていけば、原因は些細な勘違いと分かり、店主と客が警備兵さんに軽く叱責されただけで事態は収束。ほっと一息ついたマウロさんは……そこまでの一部始終を見ていた眼光鋭い男性に、ようやく気付きました。
その人は朗らかに笑いながら、マウロさんに声をかけてきたそうです。
「あんた、よかったらうちで働かねえか?」
その人――「店長さん」は、美食で知られるデリツィオーゾでも特に名高い料理人でした。それをマウロさんが知ったのは、お店に雇われた後でした。
魔法のように、どんな食材も素晴らしい料理に仕立てる天才料理人。店長さんの手にかかれば、余りもので作った賄い飯でも信じられないほど美味しかった。
目が回るほど忙しい日々、マウロさんは疑問に思ったそうです。決して料理が得意ではなかったマウロさんを、店長さんはなぜ雇ったのか。そもそも、声をかけられたときに料理の経験を訊かれさえしなかったのは、なぜなのか。ある日訊ねてみると、店長さんは笑って答えたといいます。
「料理人は、あれこれのことを同時に進める必要がある。山積みの厄介事、同時に捌くの得意だろ?」
店長さんと仕事をするうち、マウロさんも料理にだいぶ詳しくなったそうです。店長さんには遠く及ばないものの、似た味付けの賄い飯を作れるくらいには。
ですが繁盛していたお店は、ある日突然閉店することになります。店長さんが、王宮料理人として急に召し出されてしまったのです。お店の人たちは皆、散り散りになってしまいました。
マウロさんは、お店で鍛えた料理の腕で、貴族のお屋敷に召し抱えられました。他の皆も、どこかに働き口を見つけることはできたようですが、マウロさんはただ憤るしかできなかったそうです。
あの楽しかったお店が、たった一日で潰されてしまうなんて、と。
それが、デリツィオーゾ陥落のおおよそ一年前のことでした。
その一年後、デリツィオーゾは侵略者の手に落ちました。
喧騒と美食に満ちた街路は、たった一夜で血と炎と殺戮に染め上げられました。
国王陛下は捕らえられ、処刑斧の下に命を落としました。王宮の人々も囚われの身となり、幾人かは侵略者の我欲を満たすために召し出されたといいます……ですが。
「知っての通り、侵略者の王は死にました。理由は明かされていませんが……噂はご存知ですよね」
「ええ。捕らえられた王宮料理人が、命を賭けて敵の王に毒を盛ったと……え、あ」
マウロさんの言わんとしたことが、ようやく少し、見えてきました。
「まさか……その王宮料理人というのは――」
マウロさんは、ゆっくりと首を縦に振りました。そうして、スープの火を止めました。
「いま、デリツィオーゾの人々は湧いています。奴らが混乱している今こそ、国を取り戻す好機だと。義勇兵が組織され、明日にも王城奪還のために出陣しようとしています。……ルチアさん、彼らの姿はご覧になりましたか」
「ええ、遠目にですが……皆、白い帽子を掲げていましたね」
マウロさんは、深く溜息をつきました。
「ええ……料理人の帽子です。敵の王をみごと討ち果たした王宮料理人を、英雄として讃えているのですよ。彼の遺志に報いるために、皆で揃いの帽子を持って。けれど」
マウロさんは、スープを鍋から椀に注ぎました。
ほんのり薄黄色の汁には、細く切ったベーコンと青菜が浮いています。金色の細かなかけらが漂っているのは、溶いた鶏卵でしょうか。
「彼は……ラウル店長は、料理人です」
なみなみとスープで満たされた椀を、マウロさんは私へ差し出しました。
「店長は、誰もできなかったことをなしとげたのかもしれない。店長のおかげで、デリツィオーゾのたくさんの人々が救われたのかもしれない。でも……店長は料理人です。料理で人を楽しませ、人を笑顔にし、人を生かすのが仕事だった……はずなんです」
私の目の前で、椀が香り立ちます。
ベースは炊き出しのスープと同じ、鶏肉だと思います。けれど、いつもよりもずっと濃い。加えて、すぅっと心地良いしょうがの芳香と、様々な食材の豊かな匂いが混じって、とても香ばしい。
「飲んで、くれませんか。……店長がよく作ってくれた賄い飯です。俺の腕じゃあ、店長ほど美味しくは作れませんけども」
二口ほど、いただきました。
思った通り、濃いしょうがの香りが口中を満たします。けれどそればかりではなく、鶏肉とベーコンの豊かな旨味も、雄弁に存在を主張してきます。具材を噛めば、細いながらも歯ごたえのあるベーコンと、くったりと煮込まれた青菜の柔らかさが、不思議なくらいに互いを引き立て合っています。
素直に、おいしいと思える味でした。
「どうでしたか」
マウロさんの両目が、私をじっと見つめてきます。
「とても……美味しいです」
「そうか、それはよかった。……店長に教わった味です。店長の領域には、全然達してませんけどね」
マウロさんの瞳が、心持ち潤んでいるように見えます。
「せめてルチアさん……あなたは覚えていてください。店長を……デリツィオーゾのラウルを、美味しい料理を作る誰かとして。料理で人を殺した男、じゃなくて」
マウロさんの頬を、一筋の涙が流れ落ちました。
こぼれ落ちたものを拭いもしないまま、マウロさんは懐から白いものを取り出しました。料理人の帽子でした。ですが、彼がいつも炊き出しで使っているものと異なる、使われた形跡のない物でした……街で見かけた、デリツィオーゾの義勇兵たちと揃いのものに見えました。
「……行かれるのですね」
「俺たちの大事な国を、取り戻せる機会ですからね。健康な若い男が、何もせずに見ているなんてできませんよ。でも――」
マウロさんは、ふっと目を伏せました。
「できれば、店長ともルチアさんとも――料理人として出会って、別れたかった」
そこで急に、マウロさんは満面の笑みを浮かべました。
「スープ、おかわりします?」
一瞬だけ、ためらいを覚えました。
しかし私は、意を決して、空になった椀を差し出しました。
「……お願いします」
「ありがとうございます、ルチアさん。……たっぷり、お召し上がりくださいね」
椀を受け取ると、縁についていた滴が一筋、垂れて伝い落ちました。
私はそれを、指で掬って舐めました。……行儀が悪いですが、見ているのは私とマウロさんだけです。
この椀、私は、一滴たりともおろそかに飲むつもりはありません。
既に神に召された方と、これから神の御許へ向かうかもしれない方の……ふたつの心の遺した、ひと椀なのですから。
【終】
異郷にて、スープを煮る 五色ひいらぎ @hiiragi_goshiki
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