ユグドー、血の命運編
暗い平原に浮かぶ青い月と、星の無い深海のような空がどこまでも広がっている。
ユグドーは、一人で外套をまとって歩いていた。虫時雨も聞こえない。死んだ野原を踏みしめるたびに草花の断末魔が聞こえる。
これは、夢だ。何故なら、ユグドーはベトフォン邸にいて眠りの中で朝を待っているからだ。
夢の中のユグドーは、全てに絶望した男の顔をしていた。故郷を追われ、定住の地を追放され、守りたかったものを取りこぼし続けてきた。
だからこそ、目の前には星の海が失われた闇の草原が広がっているのである。
夢とは、自身の精神の故郷だと聞いたことがある。その言葉を信じるのであれば、ユグドーの故郷はこの常闇の帳の世界なのだろう。
ユグドーは、あまり夢を見ない。たまに見る夢は、同じような夜の世界だった。
今夜は、やけに帳が長い……
✢
目を開けると、赤い龍に剣を突き立てた騎士の絵画が視界に飛び込んできた。
窓を見ると朝日が差し込んでいて、夢の世界から覚めたのだと安堵した。しかし、失ったものは大きい。守ると約束をしたマリエル夫人。生涯の友──家族になれたかもしれないディアーク。でも、それらを失っても、得られるものがある。
それこそが、亡者への慰めだ。ジェモーの人たちの無念を晴らしたい。
その思いだ。
ユグドーは、姿見鏡に自分の顔を見る。幼さを残したその顔には笑みが浮かんでいた。
ドアノッカーの音で我に返る。顔をドアに向けると声が聞こえてきた。
「ユグドー様、お食事が出来ましたので。洗顔をして食堂へお越しください。聞こえていますか?」
ユグドーは大きな声で返事をすると、ベッドから降りて、自分の手のひらを見つめる。
紫色に変色した羅刹の手。マリエル夫人を救いたいと願った手。しかし、全てを取りこぼした。
ユグドーは、頭を振って滲む景色を拭い去った。立ち上がり、洗面台に向かう。
目の下のクマが、黒く垂れ下がっている。昨日は何度もあの悪夢を見て目が覚めて眠れなかった。
ユグドーは、水の術式が彫り込まれた蛇口のハンドルを回す。水が上から下へと流れていく。手ですくい取ると、手の隙間や手のひらから水が溢れていく。
(ハハハ。水って止まらないんだね)
冷たい水で顔を洗い、タオルで拭き取る。どんなに水で濡れていてもタオルで拭けばもとに戻る。
ジェモーもそうだ。龍族の血で、洗い流してタオルで拭けば、また元の街に。ユグドーを受け入れてくれた暖かな街に戻るだろう。
「僕に残されたのは、それだけ。この悪魔の力だけ。だからこそ、龍族に償わせてやる。必ず」
ユグドーは、紫色の手を握りしめた。視界がぼやけて揺れて見える。
虚空を精一杯に殴りつけた。ユグドーの目から星屑が流れ落ちた。
✢
「今日の昼には、龍族への報復を宣言されるそうだ。陛下は、ユグドーの参戦を喜んでおられた」
ノルベールは、そう言うと豪奢な皿に盛られたパンを手で千切って口へと運ぶ。
鷹揚に咀嚼され、喉から胃に落ちていくパンを想像しながらユグドーは思う。
ノルベールは強い、と。
「僕は、黄金の大霊殿を修復しました」
「そうだな。感謝しているさ。我もマリエルもな……」
ノルベールは、テーブルに置かれたナフキンで口を押さえる。
「今度は、ジェモーの街を龍族の血で染めてあげますよ。ねぇ、ノルベール様?」
ユグドーの視界は、とてもクリアだ。ゆがんだ景色など見えない。俯くノルベールも、下を向くメイドたちもすべて見えている。
「そ、そうだな。君ならできるだろう。陛下も期待しておられる……」
「ノルベール様も、ですよね?」
ユグドーは、微笑を浮かべる。
「…………」
ノルベールは、パンを持とうとして手を止めてコーヒーを飲む。
「無論、この度の戦争ではベトフォン家の当主として先頭に立つ。ユグドー、もう一度聞こう。君の真の望みはなんだ?」
ノルベールの質問にユグドーの心が震えた。真の望みはなんなのだろう。自分は何がしたくて頑張るのだろう。そんなものは分からない。
故郷を追われ、ここまで何かを掴みたいと足掻いて来た意味はどこにあるのだろう。でも、その場でその時で変わってきた望み。
それが、ユグドーにとっては。
「龍族を滅ぼすことです……」
「それは、誰のために?」
「ジェモーに散った人々のためです」
「そうか……」
「すまない……ユグドー。この戦争で君の力を一番に……頼らせてもらう」
何もかもなくなってしまったジェモー。ユグドーに居場所をくれた人々の顔を思い出していた。彼らの供養のために。
今度は、このジェモーを赤く塗ろう。
そう、心に誓った……
【ユグドー、血の命運編】完。
悪魔の力と孤独を抱えたユグドーの求道譚 SSS(隠れ里) @shu4816
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