桜の下に魚を放ちて

安崎依代@1/31『絶華』発売決定!

想いは呪い

言葉は鎖


たとえこの身を焼くほどに想っていても

何も伝えず散るが、我が身の定め




  ※  ※  ※




「……仰りたいことは、全て分かっております」


 暗い宮殿の中、こうべを垂れたまま口火を切っても、主様ぬしさまの表情は動かなかった。


 広すぎる宮殿の中に、俺と主様の二人きり。玉座に腰掛ける主様と、はるか下座でかしずく俺との距離は遠い。だが水を打ったかのように静かな今は、囁くような声でも十分に主様に届いているはずだ。


「主様が俺のことを、他の隊長格と同等に慈しんでくださっていることも、知っております」


 俺は静かに言い切ると、顔を上げた。


 いつもは下がっている御簾が、今は上がっていた。一段高くなった場所に据えられた玉座はこの宮殿の暗さに不釣り合いなほどにきらびやかで、そこに座す主様は、それ以上に美しかった。


「それでも俺は、言っていただきたいのです。他の誰でもなく、この俺に向かって」


 そう、いっそ、残酷なほどに。


「『いざという時は、水玻みずはの代わりにお前が死ね』と」


 麗しい女神が治めるこの国に、戦火が降りかかろうとしている。


 他のどの隊長格も、そのことには気付いていない。いや、薄々、感付いてはいるかもしれない。だがその火の粉がかつてないほどに強大なものであることは、隠密部隊の長を務める俺と、国長くにおさである主様しか知らない。


 主様の寵を一身に受け、この国一の戦巫女いくさみこと呼ばれる水玻も、主様のまつりごとを補佐するかんなぎ達も、戦人いくさびとを率いて戦う隊長格達も。


 誰も、知らない。


「……戦を避ける方法ならば、あった」


 俺がこの宮殿に入ってから初めて、主様が口を開いた。鈴を振るような声は静謐さに満ちていて、静かに空気を震わせては、宮殿の闇の中に溶けていく。


「敵の狙いは、わたくし。わたくしの身さえ手に入れば、敵はこの国など、どうでも良い」

「なりません」


 強い語気で、主様の言葉をさえぎる。


 その瞬間、わずかにだが、主様の紅唇の端が持ち上がった。


「……そう言うだろうと、思っていたよ」


 泣き笑いのような主様の顔を見て、俺は思わず瞳を伏せた。


 周辺の国々が主様のことを『運命の女神』と呼ぶのは、何も主様の容貌が目を瞠るほどに麗しいからだけではない。


 主様が、運命を意のままに書き換える力を持っているからだ。


「どのみちわたくしが離れれば、この国は滅ぶしかない。この国の繁栄は、わたくしの先視さきみと、水玻の武力があったからこそなされたもの」


 主様が人間ではなく神であるのか、それとも人ならざる血を引く血脈の者なのか、はたまた巫としての力に優れたただの人間なのか、それは俺にも分からない。


 ただ分かることは、主様がこの国のためにいくつもの運命を書き変えてきたという事実と、その力を周辺各国が恐れながらも、虎視眈々と狙っているという情勢だけ。


「……水玻を死なせるわけにはいかない。……そうですよね?」


 今度の敵は、強い。いくら『運命の女神』の愛娘である水玻が参戦し、最強と名高いこの国の戦人達が多く馳せ参じようとも、こちらも相当以上の痛手を覚悟しなければならない。


「水玻は、主様の愛娘。たとえ血はつながっていなくても、一番傍近くに侍り、忌憚なく物申す事が許されている。そしてその武力は、女の身でありながら、強者が集まるこの国で群を抜いての最強。……水玻が万が一にでも討ち取られれば、自軍の士気が下がるだけではとどまらない。指揮系統は混乱し……最悪、そのまま玉砕となるでしょう」


 この国の繁栄は、おそらく、主様が欠けても、水玻が欠けてもなかっただろう。二人を傍近くで見つめ、戦人達を陰から眺めていた俺だから、分かる。


「最悪の事態だけは、避けなくては。……俺はそもそも、この時のために生かされてきたのです。今さら、命じられたところで、否などとは言わない」


 言い切って再び、おもてを上げる。


 それと、主様が玉座から腰を上げるのは、ほぼ同時だった。


「……お前にとって大切なことは、そんなことではあるまい」


 サラリと絹が滑り、かそけき音が耳朶をくすぐる。


「お前にとって大切なことは、国の行く末や、わたくしの身などではない」


 衣擦れの音にかき消されてしまいそうなほど微かな足音が、少しずつ俺との距離を縮めていく。


「お前にとって大切なのは、水玻だけ」


 その言葉に、胸がわずかに痛んだ気がした。


「水玻を生かす。ただ、それだけ」


 ……最初は、確かに、憎んでいた。


 お前は、いざという時、彼女のために死ね。そのためだけに、ここで生きろ。


 まだ幼い少年だった頃。他国の浮浪児だった俺は、そんな言葉とともに彼女の前に引き出された。俺以上に幼かった彼女は、俺のことを、幼子らしくない冷めた瞳で見据えていた。


 それが、俺と彼女の出会いだった。


 死ぬためだけに連れてきたと言われて、はいそうですかと従えるはずがない。俺は周囲に反発したし、水玻の命を狙ったことさえある。水玻さえ消えれば、俺は『俺』として見てもらえる。確かにそう、思っていた。


 ……それがこんな風に反転してしまったのは、いつの頃だったのだろう。


「……それの何が、悪いと言うのですか?」


 伏せた視線の先に流れ落ちる華やかな衣を見据えて、わらう。


「貴女様が他の誰かにこの役目を命じると言うのであれば、俺はそいつを殺してでもこの役目を奪い取る」


 出会った時にはただただひたすらに憎いと思った『運命』が、今では決して譲れない俺の存在理由と化している。


「さあ、どうか、御下命を。その一言で、運命も貴女様に従いましょう」


 でももう今は、そんなことさえどうでもいい。


 どの瞬間から歪んでしまったのだとしても、今この運命を是としか受け入れられない自分は、……その役目を誰にも譲れないと思ってしまっている自分は、もはや手遅れなのだから。


「……ヤツデ」


 主様の無慈悲な声が、スルリと俺の宿命を書き換えていく。




「              」




「御意のままに」


 俺は自分の最期を、ただ静かに、微笑みとともに受け入れた。




  ※  ※  ※




 宮殿の中庭に出ると、あまりの眩しさに目がくらんだ。


 宮殿の外は、春爛漫だった。今が盛りとばかりに花をつけた桜が、花びらを散らすことで空気さえその色に染めようとしている。


 まるで夢のように美しい光景なのに、それを見る者は誰一人としていなかった。宮殿、という、選ばれた者にしか入ることのできない場所にあるというのもあるが、主様が出した人払いのせいもあるのだろう。


「……水玻?」


 唯一ここに立ち入ることができた彼女も、何よりも大好きである光景に、今は視線を向けていない。


 この中庭で一番大きな桜の古木の下に座り込んだ彼女は、立てた膝とその上に添えた腕の間に顔をうずめていた。いつからそうしていたのだろう。流れる黒髪にも、華やかな衣にも、桜花が降り積もっている。


「水玻」


 もう一度、名を呼ぶ。その声に、彼女は静かに顔を上げた。幼さが抜け、日に日に麗しくなっていくかんばせには、表情らしき表情はない。


 うつろな瞳が宙をさまよい、ようやく焦点が俺に結ばれる。


「……っ!! ヤツデっ!!」


 その瞬間、弾かれたように彼女は立ち上がった。ふわりと花びらが舞い散る中を、その身体能力に物を言わせた彼女が全力で駆けてくる。


「どうしたんだよ、その反応。まさかこんなトコで寝てたのか?」

「主様に呼ばれたと聞いた。何かあったのか?」


 軽口で迎えたはずなのに、彼女は酷く不安そうな顔のまま俺の前で立ち止まる。


「私でも簡単に入り込めないくらい、厳重に人払いがされていた。……何を命じられたんだ? 相当無茶を言われたんじゃないのか?」


 深い漆黒の瞳は、俺を案じる色しかなかった。


 どこまでも、まっすぐな瞳だった。


 ……水玻は、いつでもそうだ。己の武力と誇りに物を言わせた正攻法しかとらない。


 だから俺はいつも、水玻が正攻法でしか戦わなくていいようにしてきた。薄暗くて薄汚いものはすべて、俺が引き受けてきた。


 ……こんな想いを抱くなんて不相応にもほどがあるということは、誰に言われなくても分かっていた。


 俺は、彼女を生かすためだけに生かされていて。それだけが、存在理由で。


 だから、伝えるつもりなんて、想いを自覚した当初から、微塵もなかった。


「…………」


 たとえ水玻から返る言葉が、『是』の一択だけだと分かっていても。


「……ヤツデ?」


 腕を伸ばして間に残った一歩を詰めれば、水玻は俺の腕の中にあっさりと収まった。腕を水玻の背中に回して、黒髪に顔をうずめる。どこにあんな武力があるのかと問いたくなるほど華奢な水玻の体からは、桜の甘い香りがした。


「どうしたんだ、ヤツデ」


 今回の戦火の大きさを主様が他の隊長格に伝えないのは、伝えたところでもうどうにもならないと分かっているからだ。流れに身を任せた方が、良策。主様は、そう判断している。


 そして主様が描く未来に、俺はもういない。


「……ヤツデ」


 水玻を腕の中に閉じ込めたまま返事をしない俺に、水玻も何か思うところがあったのだろう。うかがうように名を呼んだ水玻が、おずおずと腕を伸ばして、俺の衣の背中を掴む。


「何があった?」


 その感触で、揺れていた心がしんと凪いだのが分かった。澄み渡るほど静かになった心は、少しだけ温かい。


 だから、もう、充分だと思った。


「……なんでもない」


 水玻に幸せな未来があるならば、もう俺は、何も望まない。


 俺の死を礎にして水玻に道が開けるならば、己の命だって、もういらない。


 そのために俺は水玻に出会って、そのために俺は水玻と別れる。


「ただ今は、散りゆく桜がきれいだな、と。……そう思っていただけだ」


 だから、この桜の波の下に、全て沈めて逝こう。


 桜をひときわ愛でる彼女に、決してこの心が見つからないように。




 水面みなもに散った桜を、池の魚が水底みなぞこから愛でるように。


 俺はただひと時、腕の中に納まった彼女の温もりを感じていた。




【了】

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