八重に重ねて共白髪

安崎依代@『比翼は連理を望まない』発売!

八重に重ねて共白髪

「誕生日だね」


 鮮やかな声に重い瞼を開いた瞬間、まぶしい光が僕の目を射た。


「88歳の誕生日、おめでとう!」


 それがダイニングテーブルを挟んで目の前に座った人の美しい白髪が部屋に差し込む光を反射しているせいだ、と気付いた僕は、年々開くのが億劫になっていく目を大きく見開く。


「米寿かぁ〜! あ、米寿って、なんで『米』なのか知ってる? 『米』を分解すると『八十八』になるからなんだって!」


 変わることなく溌剌はつらつとした声で得意げに雑学知識を披露した君は、ふと唇を閉じると柔らかく瞳を細めた。


「君は、シワクチャのおじいちゃんになったね」


 そう語る君は、あの時からまったく変わっていなかった。


「私も、おんなじ風にシワクチャのおばあちゃんになりたかったな」


 いなくなってしまった時と変わらない姿のまま、深い漆黒だった髪だけを僕と同じ白に染め替えた君は、少しだけバツが悪そうに己の髪に指を梳き込む。


「だって、こんな姿で白髪って、似合わないじゃない?」


 何か言いたくて、震える唇を開く。だけど、言葉は何も出てこない。最近喉に力が入らなくなったから、という理由からではなくて、胸に生まれた感情が大きすぎて、喉につかえて出てこないのだ。


「ね。私が経験できなかったことを、たくさんたくさん、もっとたくさん経験してから、こっちに来てね」


 そんな僕にもう一度笑いかけた君は、カタリと椅子から立ち上がると、もう一度、最初と同じ言葉を口にした。


「88歳の誕生日、おめでとう、トモくん」




 ゆっくりと重い瞼を開くと、先程まで見ていた景色と変わらない部屋が見えた。


 穏やかに差し込む午後の光。ダイニングテーブルと、穏やかさと引き換えに停滞した空気。


 ただあの鮮やかな声と光を纏った彼女は、どこにもいなかった。代わりに僕と対面するように、ダイニングテーブルを挟んだ向こう側の席には写真が置かれている。


 艶やかな黒髪を翻し、鮮やかに笑った、在りし日の妻の写真が。


「あぁ……」


 僕は、妻の髪が白くなった所を、見たことがなかった。


「誕生日を、祝いに来てくれたんだね」


 それよりも前に、彼女はこの世界から消えてしまったから。


「米寿……そっか。特別な、誕生日、だから……」


 共白髪を、成せなかったから。だから、祝いを兼ねて、見せに来てくれたのだろう。


「……あぁ」


 だというのに、いまだに連れて行ってはくれないのだ。お迎えに来てくれた時にたくさんたくさんお話ができるように、君がいなくなってからも、賢明に生きてきたというのに。


 ……そんなことを言ったら、君は勝手に駆け出した先で振り返って、鮮やかに笑ってこう言うのだろう。


 まだ、足りないよと。もうちょっとそっちにいなよと。


「……残酷だねぇ、ユキちゃん」


 昔の僕なら怒ったかもしれない。泣いたかもしれない。


 だけど今の僕は、穏やかに笑って呟くことができる。


 それが、歳を経るということだ。


 僕は諦めたように笑って、妻の写真に手を伸ばした。


 午後の光の悪戯いたずらなのか、一瞬だけ写真の中の彼女の髪が白く染まったように見えた。




【了】

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