恋文は空色に溶けて

市亀

親愛なるあなたへ

 お久しぶりです、お元気ですか。

 私はとうとう、八十八を迎えられました。せめて生きて大人になりたい、そればかり願っていた戦争の頃からすれば、夢みたいなご長寿になれたわ。

 

 もちろん、現実はそんなに良いものじゃなくて。今だって、字を書くのにも根気がいるし、歩くだけでも大仕事。物忘れもひどくなってね、同じことを何度聞いても頭から抜けてしまうみたいなの。親切な介護士さんたちに支えられて、今日もなんとか生かしていただいています。


 何の役にも立たなくなって、敬われるほどの立場もない私は、もう生きていても仕方のない歳かもしれない。いつお迎えが来ても、悔いはないです。

 それでもね。神様が決めた寿命が尽きるまでは、私は胸を張って、一日一日を愛おしみながら生きていきたいの。末広がりが続くめでたい歳に、改めての決意表明です。


 あなたと生きてきた人生だから。もういらないなんて、簡単に言いたくない。


 物忘れがひどくなった今も、あなたとの出会いはよく覚えています。防空壕で、親とはぐれて途方にくれる私の手を、あなたはずっと握ってくれた。あなたの手の温もりと、大丈夫って言う笑顔に包まれていたら、これ以上は悪くならないと思えたの。あなたと一緒なら生きていけると、あなたと同じ場所で生きていきたいと、あのときからずっと思いつづけています。


 女も男も、老いも若きも、自由に生き方を選べた人なんていない時代だった。

 それでもね。あなたと同じ町にいられたから、どんな日も私は前を向けた。


 生まれる時代が違ったらね。あなたと私が連理なんだと胸を張って、添い遂げていくこともできたかもしれない。今は女どうし、男どうして生きていくと決める人も増えているみたいで、少しだけ羨ましい。


 けど、やっぱり。あんなにひどい時代から立ち上がって、妻になって、母になって、家族と共に歩いてきた人生を、私は誇りたい。立派に育ってくれた子供たちも、もっと新しい時代を築いていくだろう孫たちも、私の自慢なの。

 あなたの子供たちもそうよ。あなたの強さと優しさを受け継いで、頼もしい限りだわ。

 若い人たちを見ていると、あなたと私が生き抜いて命をつないできたことには、ちゃんと意味があったのだって分かるの。私たちは無名かもしれないけど、偉大なことを成してきた。

 それにね。あなたと二人きりでいる時間があったから、私は私を見失わないでいられた。あなたの前でなら私は、この星で一番、自由で綺麗な女でいられた。きっとあなたも、そう思ってくれたでしょう。

 女どうしでたわいない噂話か、家の愚痴でも言ってるのだろうと、みんな思ってたでしょうね。私たちは周りの誰より、夫婦や恋人なんかよりよほど熱い愛で結ばれていたなんて、誰も考えもしなかったでしょう。何十年、あなたといる季節の全てが青春でした。

 季節を重ねるごとに、どこまでも、あなたへの愛は広く深くなっていきました。歳を重ねるたびに、あなたは新しい美しさをまとった女になっていました。私もそうだったなら、とても幸せ。



 ねえ。あなたのいる天国は、住みよいところですか。

 争いも、差別もなく、皆が平等に過ごせているところですか。


 例えそうじゃなくても、あなたの周りはきっと明るい。それだけは分かります。

 あなたへの土産話をもう少し覚えたら、私も逢いにいくからね。そちらの道案内、お願いね。


 並んでいた末広がりの愛の、片方が旅立っても。並んでいたことを覚えているから、私はまだ歩けそうです。

 

 あなたと巡り逢えた私へ。八十八歳、おめでとう。

 

 私を生かし続けてくれるあなたへ。心から、ありがとう。


 今日もあなたを、愛しています。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

恋文は空色に溶けて 市亀 @ichikame

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ