逃げて、逃げて、逃げた先

「『白銀の』ヴァルター、これが最後だ。……おまえが分不相応にも強奪し隷属させた、精霊鍛冶師アウレール・シュミットを解放しろ」


 ベルンハルトが言う。


「応じない場合は、相応の対価を払ってもらうよ。アウレールくんの代わりに君が、一生、自由を失うことになる」


 ジークハルトが言う。

 ここから見えるヴァルターの横顔が、凄まじい形相だ。眉間に深い皺が刻まれ、目は血走り、大きく開いた口からは荒い息が漏れている。

 何かに憑かれてるんじゃねえか、とすら思えてくる、地獄の悪鬼の形相だった。

 そう、七年前のあの日、闘技場でゲオルクの胴を打ちまくっていた時と……おんなじ顔をしてやがる。


 ああ。

 この顔を見せた次の日、こいつは死んだんだ。

 そして今も、事実上、殺されようとしてやがる。


「……断る」


 震える声で、しかし確かに聞き取れる明瞭さで、ヴァルターは言った。

 白い顔がひどく震えていた。だがそれは、恐怖ではないように見える。

 あの日、闘技場で倒れた時のあいつと同じ顔だ。屈辱に怒り、己の無力に絶望していたはずの、あの時と。死神の呼び声を聞いたであろう、あの時と。

 やめろ。やめてくれ。

 ゴタゴタはごめんだ。知ってる奴が怪我させられるのも、殺されるのもごめんだ。

 誰かどうにかしてくれ、頼むから!


「なるほどね。つまり君は、一生自由を奪われることを望むわけだ……ねえベルちゃん」


 ジークハルトの言葉と同時に、ベルンハルトは、ヴァルターのズボンの裾を引き上げた。白い脛が露になる。


「腱を切った男一人、麓まで運んでいける?」

「荷物にはなるが、問題はない。山を下りれば、あとは箱にでも詰めて――」


 ベルンハルトが、むき出しの脚へ短剣を向けた。切っ先が、うろうろと動く。


「――荷馬車を借りて、運べばいいだろう。聖王国までは距離があるから、管理が大変だがな」


 短剣の狙いが、定まった。

 ヴァルターが、強く目を閉じた。眉間に深い皺が寄る。こんな表情でも、こいつの顔はやっぱり綺麗だ――

 思った瞬間、なにかが弾けた。


 たくさんの景色が、一瞬のうちに浮かんで消える。

 山ん中の工房に入ってきた、灰色の外套の影。

 オレに馬乗りになり、見下ろしてくる青い瞳。

 マルクトの職人街で、薄赤の夕陽に染まった、威厳たっぷりだが何も考えてねえ横顔。

 中央通りで繋いだ、ひんやりした手。

 居酒屋で黒板を眺めていた、ぼんやり顔。

 焼き魚の骨と格闘していた、真剣な目つき――


 オレは、見過ごせばいい。

 こいつが囚われ、一生自由を失うのを、ただ見ていればいい。そのかわりに、オレは自由になれる。

 剣だけに生きて、他のことは何も知らねえ剣術バカになって、その挙句いっぺん死んで、なぜか蘇ったこいつが……なすすべなく生ける屍にされるのを、放っておけばいい。

 それで、厄介事はすべて片付く――


 ――はずがねえ!

 こんなことが、あっていいはずがねえんだ!!


「それじゃあ遠慮なく、入れさせてもらうよ。『有効打グート』――君の試合は、これで終わりだ」


 だめだ。

 こいつを傷つけさせちゃならねえ。こいつは生きなきゃならねえ。

 誰も助けてくれねえなら、オレが、やるしかねえんだ!


「まだだ……まだ軽打ライヒトだ!!」


 力の限り、俺は叫んだ。

 ヴァルターが、はっと目を見開く。

 オレは、縛られたままの両手に意識を集中した。

 バキバキと音を立てて、皮膚が黒鱗に変わる。発した高熱で、縄が焼き切れた。

 ……チャンスは、今しかねえ!


「はぁあぁアァァァッッッ!!」


 床を蹴って、ベルンハルトに飛びかかる。

 熱を帯びた拳で、右肩をぶちのめす。完全に虚を突かれたベルンハルトが、床に弾き飛ばされた。

 落ちた短剣を、部屋の反対側へ蹴り飛ばす。


「すまねえ、ちょっと熱いぞ!」


 オレは、黒い鉤爪でヴァルターの縄を切った。青の瞳が、激しく瞬きながらオレを見る。


「立て! 行くぞ!!」


 言えば、流石は王国二番目の剣士だ。表情がすっと平静に戻る。

 長い銀髪を揺らし、長身が立ち上がった。

 オレとヴァルターが、ほとんど同時に、部屋の隅の扉へ駆け出す。


「逃がさないよ!」


 ジークハルトが吼える。

 無視して、オレは木の扉を蹴り開けた。日の光が一気に入ってくる。

 外には、煉瓦でできた簡素な建物が並んでいる。さっきの村の外れらしい。周りには森が迫っている。中に入っちまえば、まけるかもしれねえ。

 フォルスト村の外れに住んでいた頃、野山はオレの庭だった。ヴァルターはヴァルターで、人間離れした身体能力を身につけてるようだ。

 どちらからともなく、オレたちは森に飛び込んだ。


 下草が多く歩きにくいところへ、あえて突っ込んでいく。ヴァルターもついてくる。

 こちとら毎日、山で暮らしてたんだ。野山を走るのには慣れている。茂みの隙間、走れそうなところを見極め、進む。

 森の深い方へ深い方へと、がむしゃらに進む。いま自分がどのあたりにいるのか、さっぱりわからねえ。

 それでいい。

 迷うくらいの場所じゃねえと、あいつらをまくのは無理だろうからな!

 ヴァルターの銀髪が、気付けば枯葉と枯草まみれになっている。外套も土で汚れてしまった。

 茶色の飾りを増やしながら、オレたちはひたすらに進んだ。


 そうするうち、やがてジークハルトの気配は、青葉の向こうに消えていた。

 相方が火傷をしているはずだ、深追いはできなかったのかもしれねえ。だが油断はすることなく、オレたちはさらに、森の奥へ奥へと進んでいった。




 ◆  ◇  ◆




 どこまで進んだかわからねえ。気がつけば、オレたちは巨木の並ぶ森の中にいた。

 澄んだ空気の中、木漏れ日が幾筋も降り注いでいる。清らかな光の中で、汚れきったオレたちの恰好は余計にみすぼらしく見える。だがそれも、ある意味で勲章なのかもしれねえ。

 巨木の間に、少しばかり開けた場所があった。茂る下草が、色とりどりの春の花をささやかに咲かせている。

 花たちの間には、澄んだ小川が流れていた。オレは腕を人の身に戻し、火照った両手を流水に浸けた。肌がすうっと冷えていくのが、気持ちいい。

 横でヴァルターも水をすくう。白い両手が、水面と口との間を無心に往復しているのが、なんだか妙に可笑しい。

 声をあげて笑うと、ヴァルターは不思議そうにオレを見た。疲れた表情だ、だが、少しばかり口元が緩んでいる。


「……なぜ助けた」


 気付けばヴァルターの視線は、はだけたままのオレの胸元に向いている。首輪の水晶は、相変わらず不気味に赤黒く輝いている。

 あらためて見ると、溜息が出てくる。こいつから自由になる機会、オレは自分からふいにしちまった。

 だが、今はそこまで残念にも思わねえ。

 オレは、ヴァルターの青い瞳を正面から見つめ、にいっと笑ってみせた。


「ゴタゴタも人死にも、大っ嫌いだからな。……オレに見えるところで死なれるのは、もうごめんだ」


 よくわかんねえことは、多い。

 ブラウ川に沈んで七年、ヴァルターの身に何があったのか。何をどうして人間離れした力を得たのか。フォルスト村で聞いた「精霊の聖印」とやらと、何か関係があるのか。

 どこで「隷属の首輪」なんつう代物を手に入れやがったのか。ひとりで居酒屋の注文もできねえような奴が、どうやってこの闇の呪具にたどりついたのか。

 ゲオルクの奴は、何を考えて王様なんぞになったのか。

 ベルンハルトとジークハルトは、両方とも手練れの密偵に見えた。それが二人も、オレひとりのために寄越された。ゲオルクの奴、いったい何を考えてやがるのか。

 今は全部、ばらばらのことどもだ。だが、どこかで繋がっているようにも思える。気のせいかもしれねえが。


「……そうか」


 長い睫毛を伏せながら、ヴァルターは笑った。


「安心しろ、俺は生き延びる……ゲオルクを討ち果たすまでは、必ず」

「信用していいんだろうな? おまえが死んだらオレも死ぬんだろ?」


 光の筋みてえな銀髪を揺らしながら、ヴァルターはふっと笑った。

 いい感じに力が抜けた、おだやかな笑いだった。……完璧な均整にやわらかさが加われば、こうも華やかな美が生まれるんだな。オレは、美の女神の采配に、ひたすら感服するしかできなかった。


「大丈夫だ。奴を討つまで、俺もおまえも負けはしない。約束する」


 なんだかんだで、渦の中心に居るのはこいつだ。それと、オレだ。

 こいつの行く先に、すべての鍵は落ちているような……そんな予感がある。

 その分、ゴタゴタに巻き込まれちまうのは困りもんだが。とはいえ、オレもおそらくは一方の中心だ。逃げることは、もうできそうにねえ。

 なら、こいつと一緒に居るのが、いまのところは最良なのかもしれねえ。


「頼りにしてるぜ。王国二番目の剣士様よ」

「ああ。そして、すべてが終わった暁には――」


 ヴァルターの指先が、オレの胸元に伸びる。


「――かならず解放する。だから、しばらく待ってくれるか」

「いいえ、とは言えねえよ。オレはおまえの『所有物』なんだからな」


 ヴァルターは笑った。相変わらず憎らしいくらいに美しい、だが、ほんのわずか寂しそうな笑みだった。


「……すまない」


 ヴァルターは、静かに目を伏せた。

 オレもヴァルターも、それきり何も言わなかった。深い森の中、響く音は、清水の流れる音と鳥の鳴き声ばかりだった。



【1章完】

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【1章完結】白銀はアツく焼いて打て! ~略奪された精霊鍛冶師と、勝利を知らない死に還りの剣士~ 五色ひいらぎ @hiiragi_goshiki

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