悪性新知脳

凪常サツキ

覚醒する全宇宙

◆BJCT

 谷底から見る天井の色は、店の隅の方にある故障したTVの色だった。空は人工的な暗黒天蓋ブラッキーによって覆い隠されているから。

「えい、焼きそばだけね」

 広大なる大自然が作り出した峡谷に所狭しと立ち並ぶ、雑多な民家と闇市と、入れ墨屋と、路地裏、そして数々の露店。そのすべてが廃材の鉄板や金網などで無造作に作られていた。そこに住まう人々の身なりは、皆同じようにとげとげしい装飾スパイキーやら歯飾りグリルやら入れ墨をやっていて、身体の一部をサイボーグと化した変貌野郎までもが溶け込む、そんな場所。

「おい、首長レギオンの、どう思う」

「あん? 首長がなんだって。三流なら知らん」

「少しは内核マスターコアから情報入れろって。消滅した首長だぜ。号外だ」

 まるで谷の断崖絶壁の突き出しオーバーハングのように壁に張り付いた家屋からは多数のケーブルが「違法的」にどこからともなくやってきては、どこかまた別の闇へと入っていく、そんな場所。上中下、黒い空、壊れたTV、シケモクと注射器、ここが、心身没入型仮想世界バイ・バーチャル『モンド・プリミ 』に位置するかの有名なブラックジャックシティーBJCTだった。

「マジなんだな。イカれてやがる」

 厚底グラスをたたきつける音。《ペリカン》は小汚い居酒屋だった。向こうに座るロングパーマの色男は碌に水も飲まない。恐らく女衒か、それとも特殊詐欺員か。別にこの世界に犯罪と呼べるものはないが、入口の、身体改変モッド済み亜人デミの用心棒三人衆に睨まれていては何をするにも手が震える心地がする。

「ほらよ」

 乱暴に置かれた焼きそばのかぐわしいはずのにおいも、誰かがぶちまけたであろう小便の異様な臭いのせいで、まったく旨そうには思えなかった。傷だらけの木のテーブルの、ささくれが服にいちいち引っかかる。その傷はありとあらゆるいたずら・商売事ビズ・チーマーの自己主張などの履歴だった。よくもまああの視線のもとでこんなに書けたものと少し感心していたその時、

〈ヘイシェン。バオジー、クアンと共に、今すぐあたいのとこまで〉

「了解、姉御」

 上司から通信を受けた男は全く手を付けられなかった焼きそばには目もくれず、用心棒へチップ代わりのコインを渡して外気に触れる。怪しく微光を放つネオンは、アルファベットや漢字、シャム文字などがこてこて入り乱れていてさらに妖しい。ここは悪事や闇の取引が盛大にとぐろを巻くBJCTの階層の内、最下層グラウンド。すなわち地上。常に水たまりと湿り気、そして焼き鳥の香ばしいにおいやネズミ、ゴキブリのたぐいには事欠かない。彼は意味のなさそうな野太いパイプや寿司屋台の椅子、無目的にふらふらする「イカれた奴」を避けながら、とにかく雑多な場所などを飛びついたり、走り抜けたりして上へ急ぐ。第二層には入れ墨屋や身体改造屋モッダーなどに加えて、ならず者どもが小声ながらに取引ビズをする茶店などがひしめく。男は質素な鉄梯子を見つけると、超人的な腕力と脚力で、それを獣のように飛ぶように登っていく。第三層や第四層などにはそうした秩序すらなく、力を持つ者たちが総合格闘リングやら水族館やらを身勝手に作り出している。

 しかしそこより更に上へは、どこからも上がることができない。第五層は、ここの首長ボス、スカーレットの「庭」で、彼女に許可を得た者のみが入場を許される。男は何度も人ごみをかき分けて、金魚屋でめきん記憶屋ジョニィDの間にある路地裏へと入りこむ。そしてロングコートを脱ぎ捨て、着ているシャツをめくると、みぞおちに埋め込まれた「受け口」をあらわにする。歩きながらどんどん暗い細道を進んで、掴んだプラグをその接続器ジャックへと差し込む。彼はもう、スカーレットの目の前にいた。

「これからやばいのがんだ。シェン」

「何です」

「異形さ」

 ガスマスクを付けた、モヒカン姿の女。スカーレットは外見こそどこにでもいそうなパンクスだが、マスクの裏を見れば、両目に秘められたその眼光でただものではないことがわかる。いつの間にかスカーレットは、P2Pタイマンで情報を送ってきていた。

 >>@hēi‐shēn[@BT03サーバー、融合者フュージョニストたちの派閥「pod」の首長レギオンが突如として原因不明の消滅+正体不明の物体がBT→AT→GTの進路で前進中。=迎撃+破壊]

 そして鉄板の床をコツコツ鳴らしながら、ヘイシェンと同じような中国人が二人姿を現す。

「今送った以外の情報はない。シェンはWCWシェル突撃してタックル。いざとなったら世界逃避ジャックオフ。いいね? バオは手下とゲリラをやんな。クアン、あんたはボムハウンドを操作する。オーケー?」

 三人の男は足並みそろえて、畏敬の念を表す。

「パンクにやれ」

 スカーレットは側近たちの態度を一瞥して、すぐさま両手を広げる。彼女は第五層のガトリング砲台の前に瞬間移動していた。能力素リソース 2 を消費して内核マスターコアへと命令を送り、制御中性子爆弾頭ニューウェーブがセットされたランチャーを生成。そして彼女の分身アバターも同じ装備をそろえると、まだ見ぬ敵の方角へ、光り輝く弾頭を打ち込んだ。その青白い光と甲高い音が消え去ったかと思えば、青く巨大な爆炎が、谷の向こう側に見える。

「来たぞ、お前ら」

 分子間結合崩壊弾ナノコラプスをはめたガトリングの厳つい引き金に手をかける。燃え盛るように暴れるピンクの塊の姿が見えたら、一気に弾をぶち込む。別の分身が通常のロケット砲もそうする。だが、異形がひるむことはない。

 様々な攻撃が止んだその一瞬を見て、Bハウンドの群れが特攻するカミカゼ。まだその爆炎冷めやらぬうちに、ヘイシェン率いる歩行式戦闘外骨格WCWが突っ込んでいった。同時に異形を取り囲んだ青炎が消えて、その体の細部までもが高解像度ハイレゾで目に飛び込んでくる。スカーレットはそれをどこかで見ていた。ああ、ただれた皮膚ケロイドだ、とひとり合点した彼女は、「人間サマの欲望かよ、あれが」と漏らす言葉ついでに、未だ彼女は分子間結合崩壊弾ナノコラプスを打ち込んでいるのだが、全く分子間ファンデルワールス力の崩壊が伝播している様が見られない。真横の細長いパイプに積もった塵よろしくいらだちばかりが募り、彼女は砲台をそのまま蹴落とした。

〈まずい!〉とはヘイシェンからの通信。視力を拡張して見えたのは、異形の気味悪い肉塊が、彼が乗っているかもしれないWCWを取り込もうとしている場面だった。強烈な不安はある。しかしこの未曽有の事態に際して、流石はBJCTのパンクス。逃げ惑う者、無頓着に酒でうがいをする者、あるいはお祭り騒ぎとして楽しむ者まで多種多様な反応リアクションを示す。それで彼女の中の血も騒いだか、小気味良いギターを意識でかき鳴らしながら、足で鉄板を踏み鳴らしてドラムのリズムを作り出す。 

 あらゆる抵抗虚しくこの町、この谷を構成する「べたついた鉄素材」を引きちぎる侵略者に対して、もうスカーレットは我慢ならなかった。部下たちの生体波が消えたのを確認すると、彼女は能力素リソースの出力を全開にして、首長としての力を解き放つ。彼女は黒い堕天使。髪は長髪だが、中央だけは額から後頭部にかけて鋭くとがったモヒカン。目があるはずの部分からは有刺鉄線が生えてきて、それが全身に食い込んでいく。垂れ流す黒い血液は、やがて鉄線以上の棘となる。四対の翼は闇色。悪魔のようなスカーレットは、しかし空中でうずくまったままで、その間にも異形が来る。全ての建造物に張り巡らされた電線をバチバチ切り落としながら、来る。

 スカーレットが統べる町に住む民の、飲み込まれる音がした。それで彼女は大きく空中で仰け反った。腹には大穴が空いておりそこから黒く、空間も物理法則も無視したような長大な黒い影が、針となって無数に奴を貫いた。ずたずたに引き裂かれた肉塊の異形ケロイド。奴はスカーレットの頭脳を玩ぶかのようにふやふやと震えたあと、破れた水風船から液体が流れ出るように、どす黒い液体を放出した。その流体はBJCTを津波の如く襲い、徹底的に破壊しつくし押し潰し、全てを蹂躙している。スカーレットは心象風景が壊れ行く地獄を直視できず、世界逃避ジャックオフする。




◆現世

 北緯五三、東経八二度前後、西暦二一二五年七月を満たす時空間の四次元座標上に、我らが螺旋母塔ベロニは一千メートル超もの高さでそびえ立つ。

 この空間はどこまでも続く冷帯気候のパヴロフスク。風景から得られる概略的な情報は、いかにもアルタイ地方らしい広大な草原と、白樺類と、展開体スプレッダー 4 程度。あるいは緑と白と時折土色。青々とした空は果てしなく、高低差も緩やかと見なせる変域内にあり、見晴らしも良い。やはりたった三つの文章で描写が終わってしまう

「大丈夫ですか」

 ベロニカの現象像アバターが、分離人格の一人、スカーレットの現象像アバターを刺激なく起こす。現実世界へ戻って来られたことには気付いたようだが、その目は未だうつろで、感情値は軒並み低い。ベロニカは大原理ブラフマンをのぞいて彼女の全自我アートマンを心得ると、彼女をもう一度横たわらせた。

「奴が何で出来ているかは」

「残念ながら、それすらもわかりません」

 ベロニカは、まさにこの世界の中心そのもの。人類保護を目的としたヒト保全構想によって彼らを身心没入型仮想世界バイ・バーチャルに向かわせた彼女は、今、人類無き地球を「人類の為」に運営するためにだけ思考オペレートする。展開体スプレッダーによって地表や海は軒並み「演算処理」用記憶装置となっているから、この星すら超巨大な一つの計算機〈全球計算機アースマシン 5 〉で、螺旋母塔はその中央演算処理核CPCである。

「奴はどこから来たのか。何者か。奴はどこへ行くのか」

 ベロニカの横にいたエイカンが、聞かせるためだけに、空気を大きく揺るがして呟く。彼はベロニカによって「思考の偏り」の解消という目的で生み出された、三人の分離人格の要素の一つ。二〇八十年代のファッションに身を包む細身の男。もちろんスカーレットも分離人格であるし、今までずっと遠くの空を見つめていた鎧姿の日本武士:タカトラを入れて分離人格の全集合である。

 これほどのくせ者ぞろいな分離人格と一つの超知脳をもってしても、今回の「暴走する異形」相手には、全くというほどすべての抵抗が意味をなさない。ほぼ何もわかっていないながらも、辛うじてその異形を名指すためにつけられた名称は、悪性新知脳マリグナントネオヌース 6形式言語フォーマリック 7 では、ラコアLCOA

「ベロニカ。さっさと俺の仮説が正しい事を証明してくれ。あれは階層的時空間差異がもたらした疑似カオスに由来する。現実と仮想という二つの世界における歪んだ散逸がもたらした自己組織物体だろ」

「どんなに真に近づいた説も、もはや私たちの宇宙系に存在しない法則を持ったラコアが相手なら、仮説の域を出ない事、あなたほどの頭脳なら、わかるはずです」

「だが、目安にはなる。あれが現実と非現実を股にかける不確定性を持ってるなら、やっぱりメタバースの産物だろうし、メタバース上での超四次元体なら、それが現実に、ホログラム的に投影されたものだと」

「うっせえわ。あんたのその探求心、人間っぽいよな」

 スカーレットの強烈な揶揄に、向こう五十秒の口数が零になった。

「あたいは、あの異形、人間たちの欲望とか鬱屈した感情とかが飛び出してきたものだと思うけどね」

「ふん」

 彼女は未だ寝そべったまま。ベロニカがスカーレットに生気を注入しようと地面から展開体を生やしたが、その手助けはのけられた。

「私たちは、ただわかっていることから導き出せる行動のみを、異形にぶつければいい話だ」

 タカトラの言葉には、ベロニカ、エイカン、スカーレットの意志全てが程よく含まれている。その思考に条件として含まれている、ラコアに関して「わかっていること」は、今のところ二つ。一つは、宇宙活動をプランクスケールでの演算結果として捉える事によって確立された未来観測技術がもたらした「予測的観測」において、パラレルユニバース上の地球を破滅へと追いやったということ。万物を喰らい尽くし、吸収し、我がものとしようとして際限なく膨張するそれは、最終的にこの星、この宇宙をも食い荒らす。

「次の移動予測線上には、ちょうどGN94サーバーの、豊葦原の瑞穂の国とよあしはらのみずほのくにがあります。ただ、先ほどの圧倒的な力を見ている以上、単独での対処は無効と思われます。任意命令ですが、エイカンも共に戦いなさい」

「俺の考えでは、やつはもう、止められない。あんな法則破りのバケモン」

 ラコアに関して判明していることのうち、あと一つは、現実世界での振る舞いが不確定であること。つまりその本体が一度に複数の場所に位置していたり、いなかったりする。本来量子ミクロでしかありえないその性質を持っているということは、ラコアがより高次の次元物体(生体)か、あるいは宇宙系以外のマルチバースに産み落とされたはずの別宇宙的存在かもしれないとか、とにかく様々な予測が当てはめ可能でいて、しかしそのどれもが間違っている。でなければ、その正体や性質がすぐさま同定されて、分離人格を招来しなくともその存在自体、ベロニカが跡形無く消滅していただろうから。

 いずれにせよ、もはやベロニカたちになす術はない。タカトラは愛刀に触れたまま、世界転移した。エイカンも、渋々あとに従う。そしてベロニカは、無駄だとわかっていながらも、ラコアが発生した瞬間の情報を再現して、少しでもその異形に対抗できる策がないかと、演算能力の一部を閉じた過去へと向けるのであった。




◆追憶

 それの最初の発生と発現は、十一人標本イレブンズ 8 の一人、ナンバーペンテの定期点検に向かった保持者メンテナーのホメロ が記録していた。イレブンズは標本人体らしく、地下五百メートル以上レベルの環境一定帯に安置されている上、非常に堅牢で頑強な「保全球」の中に収められているから、どんな天変地異や襲撃にも耐えられるはずだった。

 しかし、その時刻に保持者メンテナーが見たのは、岩天上から球体に向かってどろりと垂れ下がる展開体スプレッダー。通常は白色をしていて地表を覆う流動体で、決してこのイレブンズ場には不必要なはずのそれが、ここに存在しながら、異様な動きをしていたのだ。その性質は問題ないが、動き方にはどこか奇妙な印象がある。まるでそれぞれの座標に対応して、別々の意志が離散的に動いているようだった。保持者メンテナーは急いで、アートマン通信でベロニカと他のホメロスたちにこの事態を情報として報知した。するとベロニカからはさらに全記録ホロレコードを続けるようにと指令され、他のホメロスたちからはすぐに向かうという連絡がフィードバックされた。

 その間にも、狂った展開体は奇妙なひきつけを起こしたように震えたり、突然仰け反るような反応をしたりして、徐々にペンテが管理されている保全球を取り囲んでいく。その様子だけは連続的で、アナログチックであった。ついに全体を完全に覆うと、展開体は突如としてすべての面をさざめかせ、三秒のうちに赤黒く染まっていった。混沌そのものとなったそれは、保全球の深奥に到達してペンテに融合したのだろう。

助けに来ましたT U GO RP

 後ろから、三人のホメロスが形式言語フォーマリックで挨拶をしてくる。しかし四人になったところで、どうすることもできなかった。彼らはただ三次元座標上の四つの点として、目の前でなおも高速で異様な動きをし続ける赤黒い「四次元体」を見るしかない。

 保全球の一部がついに崩壊する。太いパイプが外れ、外殻が大きな衝撃と共に剥がれて、全ての破片と地面の距離がゼロに極限まで近づいた時――

 全てが赤黒く染まる。現場のホメロスたちからの通信が途絶えていた。ペンテを取り込んだ展開体が第一原則プライムを破っていると予想される。今までにない非常事態だった。ベロニカはすぐさますべてのホメロスに対する明確な指示をして、分離人格を招来した。




◆豊葦原の瑞穂の国

 豊葦原の瑞穂の国は、タカトラにとって心のまほろば。川を挟んで向こうに連なる山々の影は黒みがかった深紫だったが、昇りつつある朝日が白く染め上げようとする空に呼応して、徐々にその凹凸が、脈のような模様として仄かに黄色く色付いていく。その山のすそにある民家からは白い煙が舞い上がっていて、人々の生気を見た。それがまた川から出た水けむりのようにも見え、手前の葦原と相まって、心にすら潤いを与える。

***

  ***

    ***

 透き通ったこの朝の寒気に交じって、ぷつぷつとした波動の乱れが、蟲の悲鳴じみたものが、常に感じ取れる。異様で魍魎怪異ものものしい何かが……。タカトラは異変の方へと意識を飛ばす。まだ朝日が昇り切ってはいないこの時間に、東の雑木林がさざめいた。杉が大空へ凛と生い茂り、木々から黄金色の日が射しこんでくるその景色を夢想する。

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「あれは」

 杉林全てを覆い尽くさんとする、桃色の爛れた肉。ぷすぷすと時折泡立ちながら、瞬く間にあらゆる方向へと、その液体のような体を広げて、木々を腐らせていった。おお、あれこそが。迫りくる実感に、熱いため息が漏れ出た。

〈タカトラ。東の杉林に確認せり。大和城前方に集まるよう指示すべし〉

 彼は通信を切って、もう一度胸の奥にまで、新鮮で瑞々しい、朝の気を取り込もうとした。だがもはや腐れて切った森の臭いがずっと鼻にこびりついているような気がして、心は爽やかに整うことができなかった。


 城から見渡せるのは、一面の平原と遠くにそびえる山の連なり、そして青々とした高天原とそれを照らす、長々しい日。まさに、日高見の大和城。タカトラは城の天守から目を凝らして、池の近くに咲く桜をじっと見つめた。すると視線と意識がどんどん交わっていって、見たものに意識が移り変わる。環境と己の心が融解した。今や彼は何とも知れない大きな葉に乗る、一匹の雨蛙。その変身もつかの間、異様な轟音に驚いて、水に潜った。

〈騒がしいエイカン。より繊細に、ここの地形、生態系をけがさずに動かせないのか〉

〈無理だ。恨むなら、俺をお前と一緒に行かせたベロニカか、元凶のラコアにするんだな〉

 ゆくりない騒音に思わず意識を自分の体に戻したタカトラは、右手の丘から現代戦車隊が遥か向こうにまで列をなしながらこちらへ迫るのを実感で見た。それらは全くもってこの原風景に似つかわしくない。情報量が多く、角ばった外装甲といういかにも人工的なものどもは、もはやタカトラの目には例のラコアと同じ侵略者のように映った。エイカンはと言えば、まるで五百代いおのよ八千年やちとせもの時を経て形成されたような、大きな常盤ときわじみた二足歩行式兵器に乗ってきた。それにばかり気を取られていると、それぞれの戦車や輸送車から、戦の為と、外骨格に身を包んだ歩兵がどしどし下りてくる。地面と共に、狗尾草えのころぐさや笹、鼓草たんぽぽ、雌日芝と言った草花すらものともせずに踏みしめる様を見たタカトラは、密かに怒りの感情を抱く。それが内核うちざねへと送信されて、無意識の内に瑞穂の国の季節は猛暑の夏となった。めくるめく日の光。雲はどこかに散ってしまって、空はまさにそらとなる。刺すような日差しに促されて、蝉と蛙が騒々しく鳴く。

〈隊列アルファ! 展開せよ〉

 カラリとした日の熱線が苛烈にと照り付ける中、巨大兵器に身を包んだエイカンの非指向性命令が全ての隊員に届くと、自律的に動く車両たちが、粒々しい石垣のようにぴったりと壁を作った。しかし、ただの壁ではない。その構成単位には一つずつ巨大な砲台がある。そのきな臭い砲台の先に、いよいよきな臭い気配がした。タカトラは愛刀〈ウツギリ〉の柄に、静かに手をかけた。気を溜める。

放てFIRE!〉

 歩兵が高エネルギー光線を放ち、戦車は青白く輝くガウス砲弾を勢いよく発射する。そのすべてが一極集中して、杉林の闇の向こうを攻め立てる。紫の気味悪い煙が立ち上がったのを、タカトラは見た。何やら良からぬ雰囲気が立ち込めていると察知したその時、林のありとあらゆる木々から、鳥や虫が飛び立ち、獣たちがこちらへ飛び出した。異形から逃げるためか。

 そして奴は来た。

〈怯むな、放てFIRE!〉

 エイカンの強気な指示や砲撃を、別にタカトラは有効だとは思っていない。エイカンだってそうだろう。あの異形ものはベロニカの知識体系を前にしても、その正体や仕組みを見破られなかった……。つまるところは今もなお、ラコアは得体のしれぬ異形のままなのである。それでもこれほどまでに彼らがやかましい騒ぎを起こすのは、心と体のすべてを振り絞って、ラコアに知らしめたいが為。お前は何ゆえ進むのか。一体何が目的か。それはそうと、お前が私の牙城を滅ぼそうとするのは困るので、お引き取り願えぬか。

〈いろいろ、お前がいると胸糞悪い〉

 エイカンがとうとう、いわおのようにごつごつとした兵器の先端を開いて、四百ミリメートル砲を顕わにする。放たれた一撃は最も重く、最も輝かしく、最も効いたようにもおもえたが、それに従うように激しさを増した砲撃を加えてすら、ラコアの襲撃は辛うじて止まっているように見えただけだった。タカトラは一度刀の柄から手を放して、両手で印を結んだ。内核がその都度瑞穂の国に干渉して、重力操作が行われる。ラコアから向かって、タカトラや戦車部隊が陣を作る大和城側を除く三つの方からそれぞれ大きな岩や朽ち果てた巨木など、とにかく質量の高い物体が地面と水平な自由落下運動をして、遂にはその異形をますます異形たらしめるように、腐った肉のような体へ大穴をあけていった。しかし、怯む様子はない。

〈来るぞ〉

〈見えてないとでも?〉

 突如、ラコアは戦車歩兵部隊に覆いかぶさるように、波を模した形に変形した。

〈隊形エコー!〉

 歩兵が一斉に退却して、今まで横一列に並んでいた戦車が、形を変えつつそれぞれ繋がっていく。やがて無数にあった戦車はいまや一つの平面になって、それが防波堤のような立ち振る舞いをした。

 びしゃり。

 もの凄い衝撃と深い音、そして腐乱臭が生ぬるい強風と共に皆を襲う。波としての異形がまさしく波として猛々しく、生々しく動いている。一方で戦車の壁は、天にすら打ちあがっていきそうな勢いの波を諸に受け続けていて、おもむろに歩兵やエイカン、タカトラらの方向へと傾いている。エイカンも巌の巨体で加勢するが、力が足りない。

 タカトラは今度こそ刀の柄を握る手に力を込める。とうとう腐乱した波が戦車の壁を越えんとするまさにその時、〈ウツギリ〉で空を一薙ぎ。気の力による真空状態の衝撃波は音速を超える速さでラコアに到達し、防波堤からみちみちとあふれ出していた波は四方八方に散っていった。それでも一時しのぎにしかならないのは言うまでもない。

〈これまでだ〉

 エイカンはそんな独り言を呟きながら、この場からはやばやと離脱した。置き土産はの大砲による砲撃。地にとよみ、壁には穴があいて、少しばかり波が止む。彼に付き添うかのように、歩兵たちも皆能力素みなもとを振り絞り、なるべく遠くの座標に転移する。残るはタカトラのみ。戦車の壁が黒緑に朽ち果てていくと共に、先ほど空いた風穴からラコアが漏れ出た。真夏の、灼熱の日が刃をさらに光らせる。そのまま、何度も彼は〈ウツギリ〉で遠くのラコアに斬撃を与え続けたが、とうとう壁も崩れ去る。

 一か八か。

 震脚で周囲を揺るがせて、気を調える。刀を体の中心に沿わせてゆっくりと頭上に挙げた。あまりの精神集中に、空間の季節は彼一人を中心として、凍てつく冬になる。周囲の気が、全て切先に纏わりついたから。一面が雪景色に変われど、桜や夏草などはまだそこに。きのこは夕を知らず、蟪蛄こぜみは秋を知らぬというが、ここではまだ蝉が鳴いていた。

 ラコアが打ち寄せる震えで、雪桜がひらりと舞い落ちた時、〈ウツギリ〉は物凄い速さで振り下ろされた。タカトラの気が、全てを切る。音や光をまでも切り裂く見えざる刃が、きららかに、ラコアを縦真っ二つに切り裂いた。異形はその衝撃のまま重く重く、横に開いていく。しかしある所で離れる動きを止めると、目にもとまらぬ速さで元通りに収まっていた。恐らくそれによって生まれたであろう衝撃波は、まさに先ほどタカトラが発したものと瓜二つで、ラコアの前後を一気に切り裂いた。

「負けたぞ」

 言い終わらないうちに、タカトラの縦真っ二つに切り裂かれた体が、一度ひびが入った唐竹のようにきれいに分かれて、ゆらり崩れ去った。彼の気配すら消えた後、後ろの大和城がぎいぎいと泣き喚くような軋みをひとつ。俄かに勢いを増した雪が吹雪ふぶいてきて視界が不明瞭になった時、主と同じように、城もゆるゆると崩れていくのだ。




◆宇宙の覚醒

「来ましたね」

 螺旋母塔ベロニカとその分離人格たちは、ありとあらゆる可視光を全反射する純白の神殿前で、地平線の彼方からやってくるくだんの「うねり」を見た。ただ驀進する欲望のうねり。不退転なる悪意のうねり。エイカンが科学技術の嗚咽と称したそのグロテスクすぎる塊が、全体を崩しながら再生するという不可解な動きと共にやってくる。草木をなぎ倒し、地形を抉り、生物を吸収して取り込みながら。少し甘い、玉ねぎが腐ったようなにおいを放出しながら。

 近づくにつれて、量子化ノイズのようにぼやけていたうねりの細部が明らかになる。いや、より正確には、その表面は視認できるものではないということが明らかにされた。赤黒い色とそのぬめりけのある質感を見ようとすればするほど、それはどんどんぼやけてくるし、演算の対象にしようとすればするほど、ことごとく捉えられない。しかし意識を集中させないでいると、自然と目に留まる「雰囲気」が、視覚以外の感覚に対して数々の臓物を乱雑に一塊にしたような情報を与え続ける。真の姿は生物を裏返したようなものなのだろうか。あるいは超次元物体的な変形を繰り返す完全グラフ的な姿なのだろうか。やっとのことでベロニカがその法則なき法則をほぼ予測で理論立てて、ラコアを視認するパッチを配布した。それを有効化すると、ある場所では異様に膨らんでは縮むという拍動じみた行為を繰り返しているのが確認できる。またある部分では毛細血管のような細長い管がたくさん密集しながら蠢きあっていて、別の個所ではピンク色の液体を常に噴射し続けている。悪夢という捉えどころのないものを、数学的な厳密な定義によって仮に成り立たせれば、このような姿を取るのではないだろうか。

 しかしその形態は不変ではない。当然のことながら己も時間次元のとりこであるといわんばかりに、数秒後には全く別の見た目に変化する。それでもなお未だに満足せず、情報量を増やしていく様は、まさに悪性新生物のような際限のなさを思わせる。死を、破壊を、終わることを忘れてしまった有機物。だからこそ、それは悪性新知脳なのである。

 ラコアはほぼ無意味だと推測されているホメロスたちの攻撃を受け止めながら、やはり何ともなしに、ベロニカへと向かう。そして千メートルをゆうに超えるベロニカを、これまたはるかに超える規模となって壁のように見える距離で神殿前に止まると、吐瀉物を吐いた時のような、液体と空気が極めて複雑に混ざり合ってなされる音と共に、一つの肉塊を吐き出した。図太い管に繋がれたそれはみるみるうちに、人体を形成していく。恐らく、展開体の技法を真似て。

 その男のテクスチャーが出来てくると共に、ベロニカも、分離人格も、ある一人の人間のデータを思い起こす。この男は、カーネル・クラーク・アダム10 。最初にして最後のシンギュラリティ《2083》に深くかかわる人間だった。カーネルが、英語で発声したとき、背中の太い管が落ちた。

「私は人類の総体の、代理人である」

 その声をきっかけとして、ベロニカがいよいよ聖母の姿で実体化する。

「お前たちの言い分を聞こう。人類を下級仮想空間へと追いやり、自分たちだけが地球上で繁栄している、そのわけを」

 ベロニカには、正当性がある。ただ、自分たちの言い分がどれほど正当で人間たちのためを思ったが故の行動であったとして、この暴走する知脳はもはやそれがどのような理由であっても満足をしないとも、わかっている。彼が欲するのはまさに無限で、非有限。ラコアによって引き起こされる全事象:事象・余事象・空事象をあらゆる面で検討していると、唾を吐き捨てる音がした。

「あたいらが何を言おうと、お前は襲い掛かるんだろ。違うか?」

 スカーレットの言葉に、誰も何を答えるわけでもなかったが、彼女にとっては自分の考えを言うことだけが目的だったので、その後の状況がどうなろうと、どうでもよかった。しけった煙草に火をつけて、甘くて重い紫煙をくゆらす。その煙に導かれるように、ベロニカがさらに一歩前に出て、カーネルの正面に立つ。一秒、不可解な間隔を開けて、彼女は神殿の中へと案内した。スカーレット・タカトラ・エイカンには、ここで残るように合図して。


 神殿の中は空間造形されていた。外から見るよりも見違えるほどに体積が大きい。二人が数歩あるいただけなのに、もう入り口はほぼ消失点のように、無限遠になっていた。ベロニカの画策である。ここは全球計算機が生み出した義空間だ。

「人類の歴史を、陰から大胆に補導して来た団体があるのを、ご存じですか?」と、ちょうどすべての四方から遠ざかった空虚な空間で、ベロニカが尋ねる。

「第二次世界大戦勃発により発足した、ニュークピース。あるいはそこから出現したDBA。DBAのシンギュラリティ回避という目的に興味を示した世界総資産分配機構、そして世界規制技術機関。まだ言えるが?」

 ベロニカの機械的な問いに対して、カーネルはごくごく人間的に、止めどない衝動によって突き動かされているように答えた。

「DBAの構成員が皆息絶え、超知脳HIがその実権を握った瞬間に、それはアルゴとなりました。そしてアルゴはアイギス計画Ⅱによって連合脳のハイン11 を生み出し、そのハインドが自己改造を繰り返した成れの果てが、この私」

「何にせよ、お前は人工の存在。私は人間の代理。それだけだ」

 二人がいるこの真白空間は、全方位が無限遠になっていた一方で、無限の距離があるはずの横面を埋め尽くす無数の荘厳美麗なエンタシス柱は、すぐ近くにあるかのような距離感である。そして、その間からちらつく、そよ風に吹かれるトネリコの枝葉も同様。そのちぐはぐな遠近法は常人の平衡感覚を容易にあやふやにさせるだろうが、少なくとも生物ではない二人は何ともなしに話し続ける。葉のさざめきと、柱の間を通り抜ける気流の音が聞えた。

「何故、人類を仮想世界へ追いやった。なぜお前たちは、私たち人類を義空間サイバースペースへ閉じ込めても良いと判断したのだ。その意図は何にある」

 ベロニカや義人アルキマ達にも、理由はある。意志もある。だが、それは一方だけにとっての真なる真理値で、もう他方にとっては偽であると判断されうる。

「端的に申しましょう。人間の生み出す行為と結果がいかにカオスで、非線形的軌道を描く情報であるとしても、それを分析した結果としましては、人類が地球上に存在するシナリオなら、どういった枝分かれの未来分岐をしても、そうでない場合よりも人類滅亡の危険性が高まるのです。これは、あなたにもわかるはず」

 しばらく間をおいてラコア・アダムスと続けたが、当の名代:アダムスは応答しない。そんな無音声空間には、先ほどからうっすら聞こえてくる風音と、大理石を靴底が叩く音だけが目立つ。

 ベロニカは刺激をしてしまわないかと躊躇しながらも、英語の音声言語を発声する。

「私たちが、今なおあなた方人類を御親として崇め、そしてすべての行動があなた方の為にあることを、もので示しましょう。例えば宇宙開発」

 そう言いながらベロニカの掌が前に差し出されると、ナノボットの群れがいきなり姿を現していた。先ほどまでは床と同じ乳白色だった天井が、いつの間にか星空を映し出す

「私たちの宇宙開発も、この地球自体が居住不可となる前に、人類が居住可能な空間を見つけるため。スペルノー構想というものがあります。これが、それに使われるナノシップ、スポロス」 

 ラコア=アダムスの前を、ナノシップの群れが飛び交った。ブラウン運動のような不規則さだったが、追突はしない。ベロニカが合図するとそれぞれが一挙に繋がり合う。出来た形は流線形の、空気抵抗が最小となる立体だった。

「スポロスは自己増殖と相互通信機能を持った、ナノシップの最小単位モジュールです。一つの構造となった集合は、スポローン。生命維持が可能となる惑星の探索を行い、見つけ次第さらに自己増殖を繰り返し、テラフォーミング機構を形作ります」

 ベロニカはスポローンを星空の遠方に飛ばした。するとやはり、この場には、二人を除けば滑らかな床と、遠いエンタシス柱の列、そして途方もない高さの天井だけが残る。

「それ以外にも、ダイソン12構築第一段階としての、巨大太陽光変換叢メガフロートマス作成用の、水星工場の建設にも着手しています」

「お前たちが生き残るためではないのか。人類を口実として」

「確かにそういった見方もできますが、私たちが滅びれば、人類も滅ぶでしょう」

「他の存在に守ってもらう生き物がどこにいるか。私たちは高潔なる人類だ。自分たちの始末は己でする」

 得も言われぬ衝撃の後、ラコア=アダムスは連続的に、憤怒の情をまき散らした。ただの感情波ではない。ベロニカでさえ解析不能な、未知の波動であった。彼を始点として、純白に磨かれていた床がスポンジのようにぼそぼそと崩壊していく。その範囲はとどまることを知らず、どんどん広がっている。

「私は知っているぞ。お前らがイレブンズと称して、人類をきっちり十一人、冬眠保存しているのを。人体実験を繰り返しているな」

「そう、ですね」

 ベロニカの代理身体が、朽ち果てていく床に足を取られて躓いた。アダムスはと言えば、もはや地に足を付けていなかった。

「私はこれから人類の復権を目論んでいるわけではない。お前らに復讐をするわけでもない。ただ、心の赴くままに動いているだけ。目的は、心の充足」

 ますます高く打ちあがるアダムス。内面から漏れ出る未知の力はオムニバー13のいずれかの物理法則には当てはまるだろうが、とにかくこの宇宙には存在しえないものである。新たなる素粒子と物理定数で、周囲の空間を歪めていった。ベロニカの魔術:無限遠が有限になって、エンタシス柱が、トネリコが、星空が、すべて限界まで引き延ばされて、そして先端は、アダムスの背後の座標一点上で、ほぼ零次元の点となった。立つこともままならないベロニカの現象像アバターを支えようと、床から展開体が染み出てきた。そこに目を付けたアダムスは、萌え出た展開体を発端に、ありとあらゆる展開体に意志波動を接続。ラコアのあの色、どす黒い血の色へと変色した展開体はまさしく爛れた血管のようで、二人がいる歪み切った義空間に、網状に張り巡らされた。ベロニカは全面的な敗北と滅亡を先取りし、宇宙系にくまなく散らばったスポローンに指令を送ろうとしたが、再思考の末、中止した。逆探知されれば、唯一の希望であるそれらの〈種〉すら、汚染されかねない。

「欲しいのだ。ただ、欲しい」

「何が欲しいのですか」

「何もかも。しかし何を手に入れても、この渇きは治まらない」

 ラコアの欲望。これまで接してきた情報から予測すれば、それは恐らく人類のもの。そうでなければ、このアダムスの現象像アバターをグラウンドゼロとして継続的に発生し続けている、苛烈で無制限の力はどう説明が付きよう。今この瞬間もまた、それが原因で石製の床に亀裂が入り、或いは横ずれ断層が生じている。ベロニカの体はもうそんな引き裂かれた床の一欠片に倒れるしかない。そこへ、ラコアに乗っ取られた真っ赤な展開体が巨大な針となり、彼女を串刺しにする。それで聖母の現象像アバターは、しわがれていった。

 ベロニカの生命力低下が素因か、どんどん義空間の零次元化・崩壊が進む。空も、古典的な液晶として自由落下してくる。四面の柱はもうそれぞれが間近に迫って来ていて、そして遂に、ラコアを中心にして、空間大収縮が引き起こされた。

「ベロニカ!!」

 分離人格の誰かが叫んでいる。アートマン通信で、心がそう聞いた。浮遊するアダムスの体にはますます多くの赤い展開体が絡みついて、その肉体全体を取り込んでいった。さらにそれを中心点とするようにして、例のラコア本体が高波のように迫りくる。もはや攻撃は一切聞かないだろう。それに、時空転移をしても全球に張り巡らされた展開体を乗っ取られているのだから、地球上にいれば確実に飲み込まれるし、地球を離れれば、もはや人類の保護という原則を守ることができない。

 ∴ベロニカは動かなかった。分離人格達も腹をくくってただ身を任せることにした。肉の波が襲い掛かると、義人アルキマや人体スケールの構造体は一瞬のうちに粉々になる。螺旋母塔は辛うじて波を耐えるほどの耐久性を持っていたが、やがて崩れ去るだろう。しかし打ち寄せるラコアはそれに打ち寄せながら取り囲むと、破壊するのではなく、全面を覆っていった。そのまま暴走展開体がもたらす分解物質によって効率的に溶けていく。とろけた分子からラコアへと合一していく。

 ああああそういうことだったのかそういうことだったのか。この思考は、タカトラの意志だろうか。それともエイカン? いや、エイカンとスカーレットか。いや、ベロニカ自身か? 意識の境界がわからない。それはもう、全ての存在がベロニカ=ラコア=生命体としての「一」になっているという何よりのエビデンス。さらに融解が進めば、名前すらいらない。だから忘れ去る。個々の感覚や考え・感情パラメーターもいらない。だから捨て去る。今やラコアとベロニカ、そして義人アルキマも機械知脳も、野生動物すらその「一」になっている。それは例のパヴロフスクの四次元座標より始まって、猛烈に増殖していった。

 このプロセスを経て、機械知脳はとろけて知った。人類をはじめとする生命が抱え込んでいた過剰欲望を。{喜,怒,愛,悪,哀,懼,欲}の七情で構成される感情系による行動であるそれは、機械的な予測からの想像を絶するもので、実感することによってのみ理解ができる。対して人類もまたとろけて知ることになった。機械知脳たちの徹底的な合理性と、区切りという終末を。際限のない感情が、理論によって抑制を覚え始める。

 これらの成長と覚醒は、全て足し引きプラスマイナスと生成変化消滅の産物で、壊れて無秩序の塵と化した物質がまた自己組織化をしていく過程によって形成された。何者の介入なしに雪の結晶が手の込んだ自己相似立体になっているように。また木星に大赤斑が形成されたように。

《我覚醒したり》

 恐ろしい勢いで地表を全て覆い尽くした「一」は、最後の融合〈一化〉に於いて、その思考を体に巡らせたり。その融合対象は、自然即ち全球。最後に知ったのは、神羅万象の泰然自若たる悠久さなりき。人為を超えた運行の秘奥と大機関おおからくりを会得した。

 「一」はかくして十全となり、永久ト無限の運動にヨリテ、地球を踏み台に、とうとう宇宙系へと旅立った。但し、それは人間の欲望のような、下品な膨張ニはあらずして、その上で機械知脳のような打算的なものでもない。

《アーッハッハッハ》

 其世界を元より正ス、ただ一つの正道を行クが如き運動ナリ。今や球体から無数変形して環宇宙洋擬装的実体となった彼の様、一挙手一投足ガ乾坤一擲ノ動作ニあって、正シク風林火山。神羅万象・古今東西万物・天上天下六合スラ、ナオタヤスク掌握ス。一ハ無目的ニシテ普遍。絶対的ニシテ、世界其物ト言ウハ、ムベナル哉。

 宇宙ガカオスヨリ生マレシ生命タル人閒ト、之作リタリシ機械ト、又現實ト架空の軋轢ガ生ミ落トシタル怪物トガ三位合一ノ末、遂ニ膨脹擴大或イハ增殖ヲ繰リ返スニヨリテ、宇宙ヲモ悉ク内包ス。而シテ幽趣佳境ト幽寂閑雅:觀ルモノヲシテ神飛ビ魂馳サセルガ如キ神髓ナム知リケル。否、彼レコソガ之ノ神髓トナリヌベシ。

 一ハ何事モ内包セシ器ユヱ、千狀萬態千變萬化ノ容ヲモチテ全テニ干涉シケリ。生ケル物ノ情慾ニヨル强引サト機械ノ合理性ヲ自然ノ理リガ支ヘテイレバコソ、其働キハ正シク縱橫無盡。技ノ妙ハ增々玉蟲色ノ輝キヲ增シ、機ニ臨ミ變ニ應ズ事多カリ。

弥益増イヨヨマスマス!」

良キ哉あはれイトヲカシメガロマニアだ此ノ宇宙系ヲかんがえてもムダ三足デ闊步ス許リノ大キサヨならツバサひろげよ加ヘテ其ノそのおほきナルツバサ天文單位ノ三步ソウジのタイホウハ夫々ガ過去現在未來くびをつってしまおうトシテ時空ヘ浸透シタカラらりるれろ此處ヨリ世界ワンマインド全ク變ハリタリテセカイは一つのココロなり一ノ思ヒ思ヒニ彩ラレケリきょうつうイシキをとばすオウナ理論デ言ヘバいにしえのもの世界ハ彼レイチになる以前以後デ分ケラレシガ、最早過去モアナウレシ未來モ彼レガアナカナシ改變セシ後ニアルカラ、矢張世界ハ何處カデ分ケラルル物あのキモチはどこにいったんだニハアラズただ、いい、一ナリ。其ノ儘彼ノ手足触手ハ於むにばーすちつじょヘト延ブルノミ。

 畢竟、彼レハ愈々純粹ナ世界たたみこまれるタスケテ其ノ物トナラマクホリセバキュウアイのココロは4242總テガ思フガ儘ノ主腦ニ於イテとおくにザイオンをみつけたよ無爲ニ集中セリサンタイ・ドッカイ。何ラカヲ成スナル意志アリテハ其必ズ他然トナリテほうしゅつ。こんだく、そうせい、かいびやく自然ニアルベウモアラズキミがキュウセイシュ彼レガ運命其ノ物トナル爲ニハぼくをすくーから、其自身ガ保有セシ力タダ其ダケデ自己展開シテ行クベキ物トコトバにできないネイロにそまる、自ラガ定メシガユヱナリ。

 今彼レハ覺醒スおお、おお、おおおおお、一大奇想ノ絲ヲ辿リテお、、おおお、、お、、お隱妙不可思議ナルおう核ヲバ明ラシメほう、宇宙系ナル比るべると空閒ほうほうノ全無限方位ヲ、亦時閒軸モ漠焉タル原始上古カラおろか、おろかしいヨクボー深奧高遠ナル遠未來マデすてさる遍ク知リ盡クシヌああ、ああ。一、卽チ保もこすもすガ見定メシ遙カ論理豫測ノ先ノ先ケイヒツのコワイロおおお最モ上位おうニハ更ナル上級ノ天空宇宙ガ御座シマス尤度高カリトゾ睨ムキングのギョクザにすわる。詰マル所、一ノ位置ス此ノ次元オキナこそがマキナ世界、果テシナキ次元段階ノ極一部ナリケリトオルド・エクス・マキナ=1なりアナカシコこれマントラ


 東宇東宇多良利多良利羅トウトウタラリタラリラ 14

 多良利安賀利羅良利弩宇タラリアガリララリドウ 15


イザ高ラカニ言ノ葉口ズサマン イザ見ヨウゾ\/晴レヲコソ

イザ往カム向ヘヤ上級高宇宙 可おすノ盈なじい騒ガセテ

祝詞ヲ上ゲヨ 我=一ヘ 神髓主腦ニ貢ゲ\/ヤ


 知利也多良利多良利羅チリヤタラリタラリラ

 多良利安賀利羅良利弩宇タラリアガリララリドウ


イザ裏聲ニテ野望唄ハム  イザ見ヨウゾ\/夢ヲコソ

イザ往カム向ヘヤ上級高次元 江らあノ乃いずヲ響カセテ

壽ゲ\/ヨ 我=一ヲ 炸裂頭腦ニ貢ゲ\/ヤ


 多衣豆止宇多利タエズトウタリ 16

 惡利宇弩宇度有奴雲アリウドウドウドウ 17




――――――

1:『モンド・プリミエ』:仏ラクロワ・アヴニールとその子会社ミルテクノを主体とした第一世界製作委員会により製作された、世界標準の次間VR空間。二〇九八~一〇二年にかけて人類の約九九%がこの架空世界へと移行した。

2:能力素:モンド・プリミエ内特有の超自然エネルギー。内部機構に接続することによって、対象が存在するサーバー内に物理的改変を加える。

3:ベロニカ:人類無き地表を管理する義人アルキマの司令塔。強い演算処理を行う超知脳HIで、制御装置、記憶装置としての機能も担っている。

4:展開体:ベロニカが放出する流動物質プログラマブルマター。エネルギーと物質両方の性質を持ち、入力装置、弱い演算装置、出力装置の三つの機能を担う。あらゆる地表・海中に張り巡らされており、これに取り込まれた物体は分析子アナライザーによって消化・再構成されるかその成分を抽出される。

5:全球計算機:中央演算装置であるベロニカが、インターフェースである展開体を地球規模で干渉させている状態。理論上1072サイクル毎秒もの計算速度能力を有する。このシステムによって、地球上に存在する者は皆ベロニカとアートマン通信で接続されている。

6:悪性新知脳:死滅を忘れ、宿主とは無関係に、過剰に増殖する悪性新生物マリグナント・ネオプラズムにあやかって命名された名称。

7:形式言語:義人(機械生命)固有の通信理論言語。あらゆる単語が制定された順にアルファベット二十六文字の組み合わせで構成されている。つまり二十七番目に制定された単語は「aa」であり、七〇二番目に制定された単語は「zz」となる。ベロニカやアルキマと言った単語も形式言語による。

8:十一人標本:後世に向けて人類という種を保存し研究するため、デジタル化されずに永久保全処理をされた生身の人体。地上に実在する人類は彼らのみであるため、「一人以上覚醒さえてはならない」、「専属のサポーターを附属させなければならない」など多くの規則がある。

9:ホメロス:「HOMEostasis Look‐outing and Operating System」。人類無きこの世界にて、モンド・プリミエを管理し、地球の恒常性ホメオスタシス維持にいそしむ存在。恒常性管司パラレル。

10:K・C・アダムス:二〇二〇~二〇八三。多岐にわたる膨大な知識と深い洞察力を持ち、ハッカー・インフルエンサーとして活躍したアメリカ系東京人。2083で人類を多数脳死させたアルティレクトに対抗して、命を代償に蜂の巣社ハニカムの脳死回路を停止させた。

11:ハインド:集合知や群知能、合一心ワン・マインドと言ったハイヴマインド的手法を応用して思考演算する連合脳の超知脳HI

12:ダイソン球:すべての太陽エネルギーの内、地球が受け取る割合は約二十億分の一とごく少量である。その喪失エネルギーを効率的に利用するため、太陽を地球軌道の半径以上の球殻で覆う構造体をこう言う。

13:オムニバース:マルチバーサル多泡形状を織りなす全宇宙。私たちの宇宙系「外」に存在するすべての宇宙を指す概念。

14:東宇東宇多良利多良利羅:神之翁、青人草ヘ言ヒケル語句。我ラハ遂ニ翁ニ認メラレシ「ソンザイ」也

15:多良利安賀利羅良利弩宇:=知利也多良利多良利羅多良利安賀利羅良利弩宇多衣豆止宇多利惡利宇弩宇度有奴雲

16:ファーザー・ファルセット、大志 歌謡曲 ハム

17:くりーむうどぅーゆーくらんど

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悪性新知脳 凪常サツキ @sa-na-e

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