悪性新知脳
凪常サツキ
覚醒する全宇宙
◆BJCT
谷底から見る天井の色は、店の隅の方にある故障したTVの色だった。空は人工的な
「えい、焼きそばだけね」
広大なる大自然が作り出した峡谷に所狭しと立ち並ぶ、雑多な民家と闇市と、入れ墨屋と、路地裏、そして数々の露店。そのすべてが廃材の鉄板や金網などで無造作に作られていた。そこに住まう人々の身なりは、皆同じようにとげとげしい
「おい、首長レギオンの、どう思う」
「あん? 首長がなんだって。三流なら知らん」
「少しは
まるで谷の断崖絶壁の
「マジなんだな。イカれてやがる」
厚底グラスをたたきつける音。《ペリカン》は小汚い居酒屋だった。向こうに座るロングパーマの色男は碌に水も飲まない。恐らく女衒か、それとも特殊詐欺員か。別にこの世界に犯罪と呼べるものはないが、入口の、
「ほらよ」
乱暴に置かれた焼きそばのかぐわしいはずのにおいも、誰かがぶちまけたであろう小便の異様な臭いのせいで、まったく旨そうには思えなかった。傷だらけの木のテーブルの、ささくれが服にいちいち引っかかる。その傷はありとあらゆるいたずら・
〈ヘイシェン。バオジー、クアンと共に、今すぐあたいのとこまで〉
「了解、姉御」
上司から通信を受けた男は全く手を付けられなかった焼きそばには目もくれず、用心棒へ
しかしそこより更に上へは、どこからも上がることができない。第五層は、ここの
「これからやばいのが
「何です」
「異形さ」
ガスマスクを付けた、モヒカン姿の女。スカーレットは外見こそどこにでもいそうなパンクスだが、マスクの裏を見れば、両目に秘められたその眼光でただものではないことがわかる。いつの間にかスカーレットは、
>>@hēi‐shēn[@BT03サーバー、
そして鉄板の床をコツコツ鳴らしながら、ヘイシェンと同じような中国人が二人姿を現す。
「今送った以外の情報はない。シェンは
三人の男は足並みそろえて、畏敬の念を表す。
「パンクにやれ」
スカーレットは側近たちの態度を一瞥して、すぐさま両手を広げる。彼女は第五層のガトリング砲台の前に瞬間移動していた。
「来たぞ、お前ら」
様々な攻撃が止んだその一瞬を見て、Bハウンドの群れが
〈まずい!〉とはヘイシェンからの通信。視力を拡張して見えたのは、異形の気味悪い肉塊が、彼が乗っているかもしれないWCWを取り込もうとしている場面だった。強烈な不安はある。しかしこの未曽有の事態に際して、流石はBJCTの
あらゆる抵抗虚しくこの町、この谷を構成する「べたついた鉄素材」を引きちぎる侵略者に対して、もうスカーレットは我慢ならなかった。部下たちの生体波が消えたのを確認すると、彼女は
スカーレットが統べる町に住む民の、飲み込まれる音がした。それで彼女は大きく空中で仰け反った。腹には大穴が空いておりそこから黒く、空間も物理法則も無視したような長大な黒い影が、針となって無数に奴を貫いた。ずたずたに引き裂かれた肉塊の
◆現世
北緯五三、東経八二度前後、西暦二一二五年七月を満たす時空間の四次元座標上に、我らが螺旋母塔ベロニ
この空間はどこまでも続く冷帯気候のパヴロフスク。風景から得られる概略的な情報は、いかにもアルタイ地方らしい広大な草原と、白樺類と、
「大丈夫ですか」
ベロニカの
「奴が何で出来ているかは」
「残念ながら、それすらもわかりません」
ベロニカは、まさにこの世界の中心そのもの。人類保護を目的としたヒト保全構想によって彼らを
「奴はどこから来たのか。何者か。奴はどこへ行くのか」
ベロニカの横にいたエイカンが、聞かせるためだけに、空気を大きく揺るがして呟く。彼はベロニカによって「思考の偏り」の解消という目的で生み出された、三人の分離人格の要素の一つ。二〇八十年代のファッションに身を包む細身の男。もちろんスカーレットも分離人格であるし、今までずっと遠くの空を見つめていた鎧姿の日本武士:タカトラを入れて分離人格の全集合である。
これほどのくせ者ぞろいな分離人格と一つの超知脳をもってしても、今回の「暴走する異形」相手には、全くというほどすべての抵抗が意味をなさない。ほぼ何もわかっていないながらも、辛うじてその異形を名指すためにつけられた名称は、
「ベロニカ。さっさと俺の仮説が正しい事を証明してくれ。あれは階層的時空間差異がもたらした疑似カオスに由来する。現実と仮想という二つの世界における歪んだ散逸がもたらした自己組織物体だろ」
「どんなに真に近づいた説も、もはや私たちの宇宙系に存在しない法則を持ったラコアが相手なら、仮説の域を出ない事、あなたほどの頭脳なら、わかるはずです」
「だが、目安にはなる。あれが現実と非現実を股にかける不確定性を持ってるなら、やっぱりメタバースの産物だろうし、メタバース上での超四次元体なら、それが現実に、ホログラム的に投影されたものだと」
「うっせえわ。あんたのその探求心、人間っぽいよな」
スカーレットの強烈な揶揄に、向こう五十秒の口数が零になった。
「あたいは、あの異形、人間たちの欲望とか鬱屈した感情とかが飛び出してきたものだと思うけどね」
「ふん」
彼女は未だ寝そべったまま。ベロニカがスカーレットに生気を注入しようと地面から展開体を生やしたが、その手助けはのけられた。
「私たちは、ただわかっていることから導き出せる行動のみを、異形にぶつければいい話だ」
タカトラの言葉には、ベロニカ、エイカン、スカーレットの意志全てが程よく含まれている。その思考に条件として含まれている、ラコアに関して「わかっていること」は、今のところ二つ。一つは、宇宙活動をプランクスケールでの演算結果として捉える事によって確立された未来観測技術がもたらした「予測的観測」において、パラレルユニバース上の地球を破滅へと追いやったということ。万物を喰らい尽くし、吸収し、我がものとしようとして際限なく膨張するそれは、最終的にこの星、この宇宙をも食い荒らす。
「次の移動予測線上には、ちょうどGN94サーバーの、
「俺の考えでは、やつはもう、止められない。あんな法則破りのバケモン」
ラコアに関して判明していることのうち、あと一つは、現実世界での振る舞いが不確定であること。つまりその本体が一度に複数の場所に位置していたり、いなかったりする。本来量子ミクロでしかありえないその性質を持っているということは、ラコアがより高次の次元物体(生体)か、あるいは宇宙系以外のマルチバースに産み落とされたはずの別宇宙的存在かもしれないとか、とにかく様々な予測が当てはめ可能でいて、しかしそのどれもが間違っている。でなければ、その正体や性質がすぐさま同定されて、分離人格を招来しなくともその存在自体、ベロニカが跡形無く消滅していただろうから。
いずれにせよ、もはやベロニカたちになす術はない。タカトラは愛刀に触れたまま、世界転移した。エイカンも、渋々あとに従う。そしてベロニカは、無駄だとわかっていながらも、ラコアが発生した瞬間の情報を再現して、少しでもその異形に対抗できる策がないかと、演算能力の一部を閉じた過去へと向けるのであった。
◆追憶
それの最初の発生と発現は、
しかし、その時刻に
その間にも、狂った展開体は奇妙なひきつけを起こしたように震えたり、突然仰け反るような反応をしたりして、徐々にペンテが管理されている保全球を取り囲んでいく。その様子だけは連続的で、アナログチックであった。ついに全体を完全に覆うと、展開体は突如としてすべての面をさざめかせ、三秒のうちに赤黒く染まっていった。混沌そのものとなったそれは、保全球の深奥に到達してペンテに融合したのだろう。
[
後ろから、三人のホメロスが
保全球の一部がついに崩壊する。太いパイプが外れ、外殻が大きな衝撃と共に剥がれて、全ての破片と地面の距離がゼロに極限まで近づいた時――
全てが赤黒く染まる。現場のホメロスたちからの通信が途絶えていた。ペンテを取り込んだ展開体が
◆豊葦原の瑞穂の国
豊葦原の瑞穂の国は、タカトラにとって心のまほろば。川を挟んで向こうに連なる山々の影は黒みがかった深紫だったが、昇りつつある朝日が白く染め上げようとする空に呼応して、徐々にその凹凸が、脈のような模様として仄かに黄色く色付いていく。その山のすそにある民家からは白い煙が舞い上がっていて、人々の生気を見た。それがまた川から出た水けむりのようにも見え、手前の葦原と相まって、心にすら潤いを与える。
***
***
***
透き通ったこの朝の寒気に交じって、ぷつぷつとした波動の乱れが、蟲の悲鳴じみたものが、常に感じ取れる。異様で
****
***
****
「あれは」
杉林全てを覆い尽くさんとする、桃色の爛れた肉。ぷすぷすと時折泡立ちながら、瞬く間にあらゆる方向へと、その液体のような体を広げて、木々を腐らせていった。おお、あれこそが。迫りくる実感に、熱いため息が漏れ出た。
〈タカトラ。東の杉林に確認せり。大和城前方に集まるよう指示すべし〉
彼は通信を切って、もう一度胸の奥にまで、新鮮で瑞々しい、朝の気を取り込もうとした。だがもはや腐れて切った森の臭いがずっと鼻にこびりついているような気がして、心は爽やかに整うことができなかった。
城から見渡せるのは、一面の平原と遠くにそびえる山の連なり、そして青々とした高天原とそれを照らす、長々しい日。まさに、日高見の大和城。タカトラは城の天守から目を凝らして、池の近くに咲く桜をじっと見つめた。すると視線と意識がどんどん交わっていって、見たものに意識が移り変わる。環境と己の心が融解した。今や彼は何とも知れない大きな葉に乗る、一匹の雨蛙。その変身もつかの間、異様な轟音に驚いて、水に潜った。
〈騒がしいエイカン。より繊細に、ここの地形、生態系をけがさずに動かせないのか〉
〈無理だ。恨むなら、俺をお前と一緒に行かせたベロニカか、元凶のラコアにするんだな〉
ゆくりない騒音に思わず意識を自分の体に戻したタカトラは、右手の丘から現代戦車隊が遥か向こうにまで列をなしながらこちらへ迫るのを実感で見た。それらは全くもってこの原風景に似つかわしくない。情報量が多く、角ばった外装甲といういかにも人工的なものどもは、もはやタカトラの目には例のラコアと同じ侵略者のように映った。エイカンはと言えば、まるで
〈隊列アルファ! 展開せよ〉
カラリとした日の熱線が苛烈にと照り付ける中、巨大兵器に身を包んだエイカンの非指向性命令が全ての隊員に届くと、自律的に動く車両たちが、粒々しい石垣のようにぴったりと壁を作った。しかし、ただの壁ではない。その構成単位には一つずつ巨大な砲台がある。そのきな臭い砲台の先に、いよいよきな臭い気配がした。タカトラは愛刀〈ウツギリ〉の柄に、静かに手をかけた。気を溜める。
〈
歩兵が高エネルギー光線を放ち、戦車は青白く輝くガウス砲弾を勢いよく発射する。そのすべてが一極集中して、杉林の闇の向こうを攻め立てる。紫の気味悪い煙が立ち上がったのを、タカトラは見た。何やら良からぬ雰囲気が立ち込めていると察知したその時、林のありとあらゆる木々から、鳥や虫が飛び立ち、獣たちがこちらへ飛び出した。異形から逃げるためか。
そして奴は来た。
〈怯むな、
エイカンの強気な指示や砲撃を、別にタカトラは有効だとは思っていない。エイカンだってそうだろう。あの
〈いろいろ、お前がいると胸糞悪い〉
エイカンがとうとう、
〈来るぞ〉
〈見えてないとでも?〉
突如、ラコアは戦車歩兵部隊に覆いかぶさるように、波を模した形に変形した。
〈隊形エコー!〉
歩兵が一斉に退却して、今まで横一列に並んでいた戦車が、形を変えつつそれぞれ繋がっていく。やがて無数にあった戦車はいまや一つの平面になって、それが防波堤のような立ち振る舞いをした。
びしゃり。
もの凄い衝撃と深い音、そして腐乱臭が生ぬるい強風と共に皆を襲う。波としての異形がまさしく波として猛々しく、生々しく動いている。一方で戦車の壁は、天にすら打ちあがっていきそうな勢いの波を諸に受け続けていて、おもむろに歩兵やエイカン、タカトラらの方向へと傾いている。エイカンも巌の巨体で加勢するが、力が足りない。
タカトラは今度こそ刀の柄を握る手に力を込める。とうとう腐乱した波が戦車の壁を越えんとするまさにその時、〈ウツギリ〉で空を一薙ぎ。気の力による真空状態の衝撃波は音速を超える速さでラコアに到達し、防波堤からみちみちとあふれ出していた波は四方八方に散っていった。それでも一時しのぎにしかならないのは言うまでもない。
〈これまでだ〉
エイカンはそんな独り言を呟きながら、この場からはやばやと離脱した。置き土産は
一か八か。
震脚で周囲を揺るがせて、気を調える。刀を体の中心に沿わせてゆっくりと頭上に挙げた。あまりの精神集中に、空間の季節は彼一人を中心として、凍てつく冬になる。周囲の気が、全て切先に纏わりついたから。一面が雪景色に変われど、桜や夏草などはまだそこに。きのこは夕を知らず、
ラコアが打ち寄せる震えで、雪桜がひらりと舞い落ちた時、〈ウツギリ〉は物凄い速さで振り下ろされた。タカトラの気が、全てを切る。音や光をまでも切り裂く見えざる刃が、きららかに、ラコアを縦真っ二つに切り裂いた。異形はその衝撃のまま重く重く、横に開いていく。しかしある所で離れる動きを止めると、目にもとまらぬ速さで元通りに収まっていた。恐らくそれによって生まれたであろう衝撃波は、まさに先ほどタカトラが発したものと瓜二つで、ラコアの前後を一気に切り裂いた。
「負けたぞ」
言い終わらないうちに、タカトラの縦真っ二つに切り裂かれた体が、一度ひびが入った唐竹のようにきれいに分かれて、ゆらり崩れ去った。彼の気配すら消えた後、後ろの大和城がぎいぎいと泣き喚くような軋みをひとつ。俄かに勢いを増した雪が
◆宇宙の覚醒
「来ましたね」
螺旋母塔ベロニカとその分離人格たちは、ありとあらゆる可視光を全反射する純白の神殿前で、地平線の彼方からやってくるくだんの「うねり」を見た。ただ驀進する欲望のうねり。不退転なる悪意のうねり。エイカンが科学技術の嗚咽と称したそのグロテスクすぎる塊が、全体を崩しながら再生するという不可解な動きと共にやってくる。草木をなぎ倒し、地形を抉り、生物を吸収して取り込みながら。少し甘い、玉ねぎが腐ったようなにおいを放出しながら。
近づくにつれて、量子化ノイズのようにぼやけていたうねりの細部が明らかになる。いや、より正確には、その表面は視認できるものではないということが明らかにされた。赤黒い色とそのぬめりけのある質感を見ようとすればするほど、それはどんどんぼやけてくるし、演算の対象にしようとすればするほど、ことごとく捉えられない。しかし意識を集中させないでいると、自然と目に留まる「雰囲気」が、視覚以外の感覚に対して数々の臓物を乱雑に一塊にしたような情報を与え続ける。真の姿は生物を裏返したようなものなのだろうか。あるいは超次元物体的な変形を繰り返す完全グラフ的な姿なのだろうか。やっとのことでベロニカがその法則なき法則をほぼ予測で理論立てて、ラコアを視認するパッチを配布した。それを有効化すると、ある場所では異様に膨らんでは縮むという拍動じみた行為を繰り返しているのが確認できる。またある部分では毛細血管のような細長い管がたくさん密集しながら蠢きあっていて、別の個所ではピンク色の液体を常に噴射し続けている。悪夢という捉えどころのないものを、数学的な厳密な定義によって仮に成り立たせれば、このような姿を取るのではないだろうか。
しかしその形態は不変ではない。当然のことながら己も時間次元のとりこであるといわんばかりに、数秒後には全く別の見た目に変化する。それでもなお未だに満足せず、情報量を増やしていく様は、まさに悪性新生物のような際限のなさを思わせる。死を、破壊を、終わることを忘れてしまった有機物。だからこそ、それは悪性新知脳なのである。
ラコアはほぼ無意味だと推測されているホメロスたちの攻撃を受け止めながら、やはり何ともなしに、ベロニカへと向かう。そして千メートルをゆうに超えるベロニカを、これまたはるかに超える規模となって壁のように見える距離で神殿前に止まると、吐瀉物を吐いた時のような、液体と空気が極めて複雑に混ざり合ってなされる音と共に、一つの肉塊を吐き出した。図太い管に繋がれたそれはみるみるうちに、人体を形成していく。恐らく、展開体の技法を真似て。
その男のテクスチャーが出来てくると共に、ベロニカも、分離人格も、ある一人の人間のデータを思い起こす。この男は、カーネル・クラーク・アダム
「私は人類の総体の、代理人である」
その声をきっかけとして、ベロニカがいよいよ聖母の姿で実体化する。
「お前たちの言い分を聞こう。人類を下級仮想空間へと追いやり、自分たちだけが地球上で繁栄している、そのわけを」
ベロニカには、正当性がある。ただ、自分たちの言い分がどれほど正当で人間たちのためを思ったが故の行動であったとして、この暴走する知脳はもはやそれがどのような理由であっても満足をしないとも、わかっている。彼が欲するのはまさに無限で、非有限。ラコアによって引き起こされる全事象:事象・余事象・空事象をあらゆる面で検討していると、唾を吐き捨てる音がした。
「あたいらが何を言おうと、お前は襲い掛かるんだろ。違うか?」
スカーレットの言葉に、誰も何を答えるわけでもなかったが、彼女にとっては自分の考えを言うことだけが目的だったので、その後の状況がどうなろうと、どうでもよかった。しけった煙草に火をつけて、甘くて重い紫煙をくゆらす。その煙に導かれるように、ベロニカがさらに一歩前に出て、カーネルの正面に立つ。一秒、不可解な間隔を開けて、彼女は神殿の中へと案内した。スカーレット・タカトラ・エイカンには、ここで残るように合図して。
神殿の中は空間造形されていた。外から見るよりも見違えるほどに体積が大きい。二人が数歩あるいただけなのに、もう入り口はほぼ消失点のように、無限遠になっていた。ベロニカの画策である。ここは全球計算機が生み出した義空間だ。
「人類の歴史を、陰から大胆に補導して来た団体があるのを、ご存じですか?」と、ちょうどすべての四方から遠ざかった空虚な空間で、ベロニカが尋ねる。
「第二次世界大戦勃発により発足した、ニュークピース。あるいはそこから出現したDBA。DBAのシンギュラリティ回避という目的に興味を示した世界総資産分配機構、そして世界規制技術機関。まだ言えるが?」
ベロニカの機械的な問いに対して、カーネルはごくごく人間的に、止めどない衝動によって突き動かされているように答えた。
「DBAの構成員が皆息絶え、
「何にせよ、お前は人工の存在。私は人間の代理。それだけだ」
二人がいるこの真白空間は、全方位が無限遠になっていた一方で、無限の距離があるはずの横面を埋め尽くす無数の荘厳美麗なエンタシス柱は、すぐ近くにあるかのような距離感である。そして、その間からちらつく、そよ風に吹かれるトネリコの枝葉も同様。そのちぐはぐな遠近法は常人の平衡感覚を容易にあやふやにさせるだろうが、少なくとも生物ではない二人は何ともなしに話し続ける。葉のさざめきと、柱の間を通り抜ける気流の音が聞えた。
「何故、人類を仮想世界へ追いやった。なぜお前たちは、私たち人類を
ベロニカや
「端的に申しましょう。人間の生み出す行為と結果がいかにカオスで、非線形的軌道を描く情報であるとしても、それを分析した結果としましては、人類が地球上に存在するシナリオなら、どういった枝分かれの未来分岐をしても、そうでない場合よりも人類滅亡の危険性が高まるのです。これは、あなたにもわかるはず」
しばらく間をおいてラコア・アダムスと続けたが、当の名代:アダムスは応答しない。そんな無音声空間には、先ほどからうっすら聞こえてくる風音と、大理石を靴底が叩く音だけが目立つ。
ベロニカは刺激をしてしまわないかと躊躇しながらも、英語の音声言語を発声する。
「私たちが、今なおあなた方人類を御親として崇め、そしてすべての行動があなた方の為にあることを、もので示しましょう。例えば宇宙開発」
そう言いながらベロニカの掌が前に差し出されると、ナノボットの群れがいきなり姿を現していた。先ほどまでは床と同じ乳白色だった天井が、いつの間にか星空を映し出す
「私たちの宇宙開発も、この地球自体が居住不可となる前に、人類が居住可能な空間を見つけるため。スペルノー構想というものがあります。これが、それに使われるナノシップ、スポロス」
ラコア=アダムスの前を、ナノシップの群れが飛び交った。ブラウン運動のような不規則さだったが、追突はしない。ベロニカが合図するとそれぞれが一挙に繋がり合う。出来た形は流線形の、空気抵抗が最小となる立体だった。
「スポロスは自己増殖と相互通信機能を持った、ナノシップの
ベロニカはスポローンを星空の遠方に飛ばした。するとやはり、この場には、二人を除けば滑らかな床と、遠いエンタシス柱の列、そして途方もない高さの天井だけが残る。
「それ以外にも、ダイソン
「お前たちが生き残るためではないのか。人類を口実として」
「確かにそういった見方もできますが、私たちが滅びれば、人類も滅ぶでしょう」
「他の存在に守ってもらう生き物がどこにいるか。私たちは高潔なる人類だ。自分たちの始末は己でする」
得も言われぬ衝撃の後、ラコア=アダムスは連続的に、憤怒の情をまき散らした。ただの感情波ではない。ベロニカでさえ解析不能な、未知の波動であった。彼を始点として、純白に磨かれていた床がスポンジのようにぼそぼそと崩壊していく。その範囲はとどまることを知らず、どんどん広がっている。
「私は知っているぞ。お前らがイレブンズと称して、人類をきっちり十一人、冬眠保存しているのを。人体実験を繰り返しているな」
「そう、ですね」
ベロニカの代理身体が、朽ち果てていく床に足を取られて躓いた。アダムスはと言えば、もはや地に足を付けていなかった。
「私はこれから人類の復権を目論んでいるわけではない。お前らに復讐をするわけでもない。ただ、心の赴くままに動いているだけ。目的は、心の充足」
ますます高く打ちあがるアダムス。内面から漏れ出る未知の力はオムニバー
「欲しいのだ。ただ、欲しい」
「何が欲しいのですか」
「何もかも。しかし何を手に入れても、この渇きは治まらない」
ラコアの欲望。これまで接してきた情報から予測すれば、それは恐らく人類のもの。そうでなければ、このアダムスの
ベロニカの生命力低下が素因か、どんどん義空間の零次元化・崩壊が進む。空も、古典的な液晶として自由落下してくる。四面の柱はもうそれぞれが間近に迫って来ていて、そして遂に、ラコアを中心にして、空間大収縮が引き起こされた。
「ベロニカ!!」
分離人格の誰かが叫んでいる。アートマン通信で、心がそう聞いた。浮遊するアダムスの体にはますます多くの赤い展開体が絡みついて、その肉体全体を取り込んでいった。さらにそれを中心点とするようにして、例のラコア本体が高波のように迫りくる。もはや攻撃は一切聞かないだろう。それに、時空転移をしても全球に張り巡らされた展開体を乗っ取られているのだから、地球上にいれば確実に飲み込まれるし、地球を離れれば、もはや人類の保護という原則を守ることができない。
∴ベロニカは動かなかった。分離人格達も腹をくくってただ身を任せることにした。肉の波が襲い掛かると、
このプロセスを経て、機械知脳はとろけて知った。人類をはじめとする生命が抱え込んでいた過剰欲望を。{喜,怒,愛,悪,哀,懼,欲}の七情で構成される感情系による行動であるそれは、機械的な予測からの想像を絶するもので、実感することによってのみ理解ができる。対して人類もまたとろけて知ることになった。機械知脳たちの徹底的な合理性と、区切りという終末を。際限のない感情が、理論によって抑制を覚え始める。
これらの成長と覚醒は、全て
《我覚醒したり》
恐ろしい勢いで地表を全て覆い尽くした「一」は、最後の融合〈一化〉に於いて、その思考を体に巡らせたり。その融合対象は、自然即ち全球。最後に知ったのは、神羅万象の泰然自若たる悠久さなりき。人為を超えた運行の秘奥と
「一」はかくして十全となり、永久ト無限の運動にヨリテ、地球を踏み台に、とうとう宇宙系へと旅立った。但し、それは人間の欲望のような、下品な膨張ニはあらずして、その上で機械知脳のような打算的なものでもない。
《アーッハッハッハ》
其世界を元より正ス、ただ一つの正道を行クが如き運動ナリ。今や球体から無数変形して環宇宙洋擬装的実体となった彼の様、一挙手一投足ガ乾坤一擲ノ動作ニあって、正シク風林火山。神羅万象・古今東西万物・天上天下六合スラ、ナオタヤスク掌握ス。一ハ無目的ニシテ普遍。絶対的ニシテ、世界其物ト言ウハ、ムベナル哉。
宇宙ガカオスヨリ生マレシ生命タル人閒ト、之作リタリシ機械ト、又現實ト架空の軋轢ガ生ミ落トシタル怪物トガ三位合一ノ末、遂ニ膨脹擴大或イハ增殖ヲ繰リ返スニヨリテ、宇宙ヲモ悉ク内包ス。而シテ幽趣佳境ト幽寂閑雅:觀ルモノヲシテ神飛ビ魂馳サセルガ如キ神髓ナム知リケル。否、彼レコソガ之ノ神髓トナリヌベシ。
一ハ何事モ内包セシ器ユヱ、千狀萬態千變萬化ノ容ヲモチテ全テニ干涉シケリ。生ケル物ノ情慾ニヨル强引サト機械ノ合理性ヲ自然ノ理リガ支ヘテイレバコソ、其働キハ正シク縱橫無盡。技ノ妙ハ增々玉蟲色ノ輝キヲ增シ、機ニ臨ミ變ニ應ズ事多カリ。
「
畢竟、彼レハ愈々純粹ナ
イザ高ラカニ言ノ葉口ズサマン イザ見ヨウゾ\/晴レヲコソ
イザ往カム向ヘヤ上級高宇宙 可おすノ盈なじい騒ガセテ
祝詞ヲ上ゲヨ 我=一ヘ 神髓主腦ニ貢ゲ\/ヤ
イザ裏聲ニテ野望唄ハム イザ見ヨウゾ\/夢ヲコソ
イザ往カム向ヘヤ上級高次元 江らあノ乃いずヲ響カセテ
壽ゲ\/ヨ 我=一ヲ 炸裂頭腦ニ貢ゲ\/ヤ
――――――
1:『モンド・プリミエ』:仏ラクロワ・アヴニールとその子会社ミルテクノを主体とした第一世界製作委員会により製作された、世界標準の
2:能力素:モンド・プリミエ内特有の超自然エネルギー。内部機構に接続することによって、対象が存在するサーバー内に物理的改変を加える。
3:ベロニカ:人類無き地表を管理する
4:展開体:ベロニカが放出する
5:全球計算機:中央演算装置であるベロニカが、インターフェースである展開体を地球規模で干渉させている状態。理論上1072サイクル毎秒もの計算速度能力を有する。このシステムによって、地球上に存在する者は皆ベロニカとアートマン通信で接続されている。
6:悪性新知脳:死滅を忘れ、宿主とは無関係に、過剰に増殖する
7:形式言語:義人(機械生命)固有の通信理論言語。あらゆる単語が制定された順にアルファベット二十六文字の組み合わせで構成されている。つまり二十七番目に制定された単語は「aa」であり、七〇二番目に制定された単語は「zz」となる。ベロニカやアルキマと言った単語も形式言語による。
8:十一人標本:後世に向けて人類という種を保存し研究するため、デジタル化されずに永久保全処理をされた生身の人体。地上に実在する人類は彼らのみであるため、「一人以上覚醒さえてはならない」、「専属のサポーターを附属させなければならない」など多くの規則がある。
9:ホメロス:「HOMEostasis Look‐outing and Operating System」。人類無きこの世界にて、モンド・プリミエを管理し、地球の
10:K・C・アダムス:二〇二〇~二〇八三。多岐にわたる膨大な知識と深い洞察力を持ち、ハッカー・インフルエンサーとして活躍したアメリカ系東京人。2083で人類を多数脳死させたアルティレクトに対抗して、命を代償に
11:ハインド:集合知や群知能、
12:ダイソン球:すべての太陽エネルギーの内、地球が受け取る割合は約二十億分の一とごく少量である。その喪失エネルギーを効率的に利用するため、太陽を地球軌道の半径以上の球殻で覆う構造体をこう言う。
13:オムニバース:マルチバーサル多泡形状を織りなす全宇宙。私たちの宇宙系「外」に存在するすべての宇宙を指す概念。
14:東宇東宇多良利多良利羅:神之翁、青人草ヘ言ヒケル語句。我ラハ遂ニ翁ニ認メラレシ「
15:多良利安賀利羅良利弩宇:=知利也多良利多良利羅多良利安賀利羅良利弩宇多衣豆止宇多利惡利宇弩宇度有奴雲
16:ファーザー・ファルセット、大志 歌謡曲 ハム
17:くりーむうどぅーゆーくらんど
悪性新知脳 凪常サツキ @sa-na-e
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