第7話
〈姉〉
約十分間、縁と目を合わせ続けて漸く目が覚める。
縁との口付けもその後の余韻も、浮遊感ある夢現な情感だった。兎に角夢みたいな時の流れだった。一瞬のようで永遠のような、そんな陳腐な言い回しに頼らざるを得ない時間だった。
それで、この後はどうするのだろう。私は何も考えてないし何も分からないのだけど、縁は何をしてくれるのだろう。縁に主導権を任せっ放しだ。
すると縁は私の身体に触れると私の寝間着を捲ろうと手を動かしてきた。私は驚きのあまり身体が固まって抵抗すること無く縁の為すがままになる。寝間着の上の方が半分ほど脱がされた。あぁ愈々私達は関係性の高みへと昇るのだな。
そう朧気に思った時、軽快な旋律を乗せた音楽が伝播した。私と縁はその音に釣られ音源を目で探った。間を置いて漸く私の携帯の着信音だと思い出す。寝間着を着崩したまま携帯を見つけ出し、発信者は誰かと画面を確認してみる。
そこには「
〈妹〉
ふざけるな。ふざけんな。
遠藤慰陽、許さない。わたしとお姉ちゃんの時間を邪魔するんじゃない。折角良い流れだったのに。あのまま押し切っていればお姉ちゃんともっとわたしの口からは言えない様々な触れ合いが出来ただろうに。そうした暁には輝かしい未来が待ち受けていたはずだ。
おのれ遠藤慰陽め。わたし達の未来に干渉してきやがったな。わたしとお姉ちゃんの一直線の進路に分岐点を作った罪深さを認識しているのか。どうやって責任と自分の首を取るつもりなのだ。後者は最悪の場合、部屋に置いてある制服に入れっ放しの鋭い文房具でわたしが手伝ってあげても良い。一方で、前者及び遠藤慰陽という名の偽善者はどうしようもない。
現実で対面した時は仕方なく敬語を使ってあげているけど、わたしの胸の内でまで遠藤慰陽に心理描写の手間掛けている暇は無いのだぞ。わたしの心の容量はお姉ちゃんで満たして、継続的に拡大成長していく予定なのだ。わたしの記憶倉庫は日々更新されていくのだ。異種が交われば魂の警告灯が紅く鳴る。紅の他人は避けて通る方針の明るい姉妹計画がわたし達の生きた証となるのです。
携帯を手にしたお姉ちゃんは持ち前の慈悲溢れる高邁の精神を発揮して、わたしとしては騒音にしか聞こえない遠藤慰陽の着信に応答する。
「もしもし。こんばんわ慰陽さん」
「……おーい、もしもしぃ……あぁ、絆ちゃん。絆ちゃんだぁ。やっと、やっと出てくれたのねぇ。幾ら待っても全然出ないんだもの。もぅ、何かあったんじゃないかなって心配したよぅ」
お姉ちゃんが通話をスピーカーモードに変えてくれたので、わたしにも遠藤慰陽の甘ったるい声が聞こえてくる。あぁ誤解はしないで。しないでというかしないよね。お姉ちゃんはわたしを除け者にするまいと気を配ってくれたことから容易に分かる甚大な思慮深さを持っているのであって、わたしが只今厭わしさの被害を受けているのは、安穏と悠々自適な生活を満喫している近所の女子大学生、遠藤慰陽の存在その他諸々に原因がある他無いから。
遠藤慰陽とは通算二十回にも満たない出会いと別れしか経ていないけど、わたし達の間に割って入ることの深刻さを一回毎に痛感して欲しい。越してきたのが最近とは言え、この土地のルールというものを頭に叩き込んで生活するべきだ。わたし達には過度に関わらず不可侵のまま見守るというこの町の掟を。わたし達がルールで他人はレール以下。わたし達が新幹線の乗客とするなら、遠藤慰陽含む雑多な人間達は山手線の駅のホームに転がる小石、もしくは改札の通れない残高切れの無益な定期券だ。ここ一帯はわたし達が旅乗りするロマンスカーに貼られた光さえ差さない路線図のようなもの。
「いや、何も……何も無いですよ」言葉に詰まってわたしの方をちらっと見た。見てくれて安心した。側に居さえすれば心は安らかになるだろうと言われればその通り。しかし例を挙げることでその指摘を洗練させるなら、仮に自分の家のリビングに役割を十分に果たしているアロマキャンドルがあるとして、同時に自分が少し離れたキッチンに立っているものだと仮定したら、遠くから流れてくる微かな香りを嗅ぐだけで満ち足りた気持ちになれるか。否、芳香の一端でも吸い込めば自ずと蜜を産む樹幹に近付きたくなるはずだ。同じようにお姉ちゃんの存在を見つめるのは明媚な営みでありながら、お姉ちゃんと目と目で意思を通信することが叶えばより一層の幸せを掴める。
お姉ちゃんが何かを起こそうとしたわたしのことを気に掛けてくれるのは喜ばしいことで、遠藤慰陽にこちらの状況を悟らせない心配りは流石と言いたい。わたしはわたしで暗黙の中にお姉ちゃんの心遣いを隈無く察知している。遠藤慰陽は蚊帳の外、宇宙の外に放り出そうという画策は言う必要が無くお姉ちゃんと共通するみたい。
けれどあぁ、折角喩え話辺りからお姉ちゃんの芳醇な香りをイメージしてきたのにまた遠藤慰陽が脳に嫌がらせをしに来た。遠藤慰陽もういいよ。そう言いたい所だけど、わたし達の電話は始まったばかり。遠藤慰陽の人生終了に期待したい。
「そうなのぅ、良かった。心配して損した。あぁでも、もし本当に何かあったら大変だものね。電話切らないで正解だった。ワタシは間違ってないよぅ」
期待は裏切られる。だから何だその口調と言った幅狭い負の感想を頭で綴ることしか、電話の外のわたしには出来なかった。
「それで何の御用です?」
「そうそうそうだったわ。ワタシ達今日の夕食にボルシチを作っていたんだけど、作り過ぎちゃって。良かったら食べに来ない?それとも持って行ってあげようかぁ」
お前の作った餌なんてわたし達の口に入るか。それにボルシチ、洒落気を出して料理に精通する自慢のつもりか。わたしも作ってみたいけど。わたしの手で完成させた高位な料理をお姉ちゃんに食べさせたい。レシピ改良の必要性を感じてきた。
というかワタシ達?遠藤慰陽は一人暮らしではなかったのか。てっきり独りで細々とインスタント麺類を啜る生活にあると決め付けていたから意外だけど、そもそも大して眼中に無かった。
「あぁ大丈夫です。もう食べたので」
「そうなのぅ?早くない?まだ七時にもなっていないよぅ。お天道様にお別れして直ぐだよぅ」
「あなたの家が遅いだけです」お姉ちゃんは面倒に思って会話を断ち切ろうとする。わたしは生活習慣の乱れが主な理由だと思うよ。自堕落に生きているのは同じ部屋に暮らすらしき人間にも当て嵌ることだろうね。
「そうかなぁ。まぁいいや、ごめんね態々電話掛けちゃって」そう思うのだったらその通話機を今すぐ壊してください。本当に。
「いえ、お電話有難うございます」お姉ちゃんは窓口サービスの応答を連想させる言葉並びで対処する。華麗ね。
「それで御用件は終わりですか?」
「んん、どうかなぁ。他に言いたいことあったかなぁ。引っ越したばかりで分からないことは沢山あるなぁ。何か聞いておきたいかもなぁ」
「じゃあそれはまたの機会ということで、私達もう寝る時間なので」
「あぁ!待って待って!」
お姉ちゃんが話を切り上げようとしてくれたのに、遠藤慰陽の耳障りな声が携帯から広がった。嫌気の余りにわたしは絶叫したくなる。
「……やっぱりいいやぁ。次会った時で良いよね、うん。おっけい。それじゃおやすみ。そうだ、縁ちゃんにも宜しくねぇ」
自己解決をわたし達に投げつける形で通話の終了をやっと認めた。捨て台詞を忘れずに。わたしのこと覚えていたのか。かく言うわたしも指名手配の要領で遠藤慰陽のことを記憶していたがね。
「はいそれじゃ」半ば急いで電話を切るお姉ちゃん。急いでくれて嬉しい。わたしも早くお姉ちゃんと一対一の時間に戻りたかった。
「ごめんね、縁。時間取らせちゃって」お姉ちゃんは姉妹活動を中断した申し訳無さと遠藤慰陽への呆れが混じった溜め息を吐きながら、わたしにお詫びをしてくれる。
「ううん。仕方ないもん」遠藤慰陽という名の動く障壁が崩れない限りは。今日わたしは一体何回遠藤慰陽の四字を挙げただろう。言わざるを得なかったのだろう。「お姉ちゃん」を呼ぶ回数より多かったら絶望する。上回った際には遠藤慰陽を絶命させられたら良いななんて。また呼んでしまった。
「「…………」」
二人して少しの間無言になってしまう。そりゃそうだ、電話の前にあんなことをしていたから。けど今更再開するのは何だかなぁと思う。
「明日は散歩にでも行こうか」とそこでお姉ちゃんが素敵な提案をしてくれた。たった数分間、されど数分間の間に表層心理が夜の闇に染まっていったわたしだけど、この提案によってメンタルヘルスが完全に回復出来た。心が底の方で攪拌されていた気分から一気に上まで弾む感覚へと変わる。
「い、行きたい」心模様を解き放つように喉から賛成を強く表出する音が飛ぶ。ボラードに繋がれ待ちわびていた秋田犬が飼い主の登場を見て燥ぎ回るように。お姉ちゃんのほんの一言でさえわたしは救われる。それは前から身に染みて分かっていたこと。
お姉ちゃんはわたしの返事を聞いて、優しく口角を緩ませながら小さく首を頷かせた。「分かった」と言うその仕草にわたしも少し頬が解れる。
「じゃあおやすみ」携帯を元の位置に戻したお姉ちゃんが、被り直した布団の外から長い一日の終末を告げた。
わたしももう寝よう。結局唇以上の部位はお預けになったけど、それでもお姉ちゃんとわたしの絆は相当深まったはずだよね。それでは明日に備えて。
「おやすみ、お姉ちゃん」
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