第16話

〈姉〉

 早朝の紫外線に身を起こすと、クローズアップされた縁の顔が画面の大枠を埋めていた。眠りによって区割された昨夜の記憶が目の復職と連れ立って還幸する。

 二回目の縁との口付け。相当な期間を空けている上、一回目よりも熟れた分、唇表面のみならず舌の動きまで絡んだキス。明確に言って、今までのどんな肌の触れ合いよりも気持ち良くて、溶けてどろどろになってしまいそうだった。それにあんな何たら生活を送っているから、縁の温和さや柔和さが過剰な程感傷に作用して、涙腺まで融解するところだった。姉として、寸前でブレーキを踏み込んだけれど。

 しかしこれからその何何生活に出兵しないといけない。任意という冠を頭に乗せた義務に招集されていかねばならない。それは世間の手の内で踊るのではなく、あくまでも縁との将来を確立する為に。去年、いやそれよりずっと前から絶えず反芻していたことで、今もより強く噛み締めていること。

「縁起きて」こうやって縁に声を掛ければ心模様の曇は四散する。

「ん、お姉ちゃん……」平日の憂鬱は眠気眼な太陽の起床により掻き消される。

 制服を着做して朝食を済ませた私達は、「行こうか」と言って玄関を出る。曇り空で朝日が見切れた住宅の一続き沿いを緩やかな徒歩で進んでいき、二人手を繋いで正門を抜ける。二人の時間を重んじる為登校時間のあまり早くない私達だが、他の生徒も遅れ気味で、始業五分前のこの時間帯は人が多い。部活の関係から帰宅が殺到することが無いのは安心である一方、登校は我慢するしかない。群衆の中で黒色や茶色の髪の毛が溢れている景観は灰燼に帰して、分岐口まで並んで歩く。参着すると、「じゃあまた後でね」と手を振って離隔を惜しみつつ、縁と私がそれぞれの在籍場所へ行く。

 一日の祝日を挟んだ階段を上り、二枚目の天井に足を着け、人間製の不協和音が響き渡る教室へ静かに入る。私の来るタイミングに合わせて人間臭を高めていく教室には、一学期から構成されてきた日常の体相が上映されている。私は映画館にて私語解禁していた悪質な番いよりも淑やかに、近所の野球観戦で野次を飛ばす老輩よりも慎ましく席に座る。後半は贋造だけど。取り巻く四人には自身をマッチ棒に見立てた図形遊びでもしておいてくれと見放して、窓から縁に照準を合わせる。昔よくやったんだよね。

 するとそこには縁の姿ではなく異変の状景があった。長方形の垂れ幕が反対の校舎を隔てるように設けられている。荒んだ白色のシートの内側は、日光による軽薄な影しか見えない。遮られた光景を前に、唖然と茫然に陥る。反射的に教室に目を戻し掲示板に注目すると、「改修工事のお知らせ」と太字で書かれたプリントが貼られてあった。そんな手紙貰ったかと机を探り、奥底から同一の紙を発掘する。おいおい本気ですかと文書を通読したところ、中等部の校舎の工事が丁度昨日から開始されるという旨が掲載されていた。重要な何時まで、の方は曖昧に濁されていて分かりかねる。

 残念を通り越して残酷である仕打ちに、気力の消沈と学校側への呵責が生まれる。再度窓硝子を透視してみても薄汚れた覆い布しか映らない。機械音がしていないことを考えると工事自体は未遂のようだが、打ち付けの鉄筋と幕だけは設置しているという状況だろう。その行為が私達に及ぼす影響も知らずに。

 私達の間には誰も何も立ちはだかるなと描いていた願いは、また一つ破綻してしまった。小学校を卒業してから高等部に進級するまでは縁の居ない学校生活が続いていたというのに、その時の恋しさとは画する重みがのしかかる。唐突という要因もあり、手に届きそうで届かないこのもどかしさ。今頃、縁はどうしているのだろう。気になって落ち着かない。

 授業が始まっても勉強する気になれず、未練がましく外の障壁をじっと見つめる。風に吹かれてシートが裏返る時には期待して少し身体を近付けるが、終始縁が一片でも見えることはなかった。発想を転換して視覚以外の感覚で縁を感じようとしたけれど、犬や蝙蝠にはなれない私には寸での所で力が及ばなかった。

 そうして授業は終結と始動を繰り返し、二限と三限を修了せずに終了した。そこでやっと自分が学生であるということを思い出した私は、フックに預けた鞄を机の盤上に陣する。四限までの十分間休憩の間に筆記用具等を準備しようとチャックを滑走させると、蛹の中から見慣れた緑色のノートが孵化する。観察日記だ。勉強道具ではないが、どんな時でも縁を念写できるように机には広げておく。その他の必要な物も取り出して、鞄を定位置に帰す。

 責務の上でやることが見つからず恒例の縁ゾーンに右脳と左脳をシフトしようかと思い立った時、いつの間にか右後ろの席に収まっていた一人の生徒が右眼に割り込んで来る。何処向けかは分からない脚注を提示しておくと遠藤影良だ。

「今日も良い天気だね」と違和感だらけで探す気にもなれない間違え探しのような台詞を吐き捨てるのだろうかと雑念を興している私に、三番は爽やかさの末端も無い言語で仕掛けてくる。私は慣れた回路の電源を入れ、透明な耳栓で無音という幻聴を創り出した。しかし私の秘技を裏ルートから盗み聞きしたのか、学級内部では組織化されていない教育的な委員会に訴えたら予備軍認定されそうな精鋭達を金魚の排泄物みたいに腰に付けて再入場してきた。ここはチケット制だから出て行ってくれないかという趣旨を分かり易く明朝体で机の板に印刷して広告してやろうかと思いながらも、外見上では揺るぎのない静寂を保持する。けれど彼女等は真逆を謀る。

 取り巻きが巻いて来ようと何しても巻かれずに姿勢を真っ直ぐにして清く正しい健全な心を育むのが道徳的にも経済的にも優れていると認めざるを得ないなと胸に生肉を刻むくらい刻んで炒めて焼いて蒸してフランべして教室の前に置いてある飲みかけの緑茶でも掛けて煮詰めれば私の個人的独立と排他的区域は柔軟に保護されていくだろうしいくべきだしいかないのは嘘偽りの世界だと思う。元々こんな世界希望なんて抱く訳あるまいしそれはもう何年も前に頭に植え付けられた苗木だから今では日陰者として伸び伸びと成長を遂げて肉体も精神も栄養の恩恵を受けて外来種などにやられないぞという自家製の農薬を効かせて歩んでいることを雑多な集団は知らないし知らないままこの場所を立ち去っていくのだろう。世界は社会は学校は校舎は教室は黒板は席順は友達と錯覚する人間は人間は人間は人間は縁以外は縁以外は縁以外は縁以外は縁以外はどうせ分からないだろうからどうしようもないからそんなどうしようもなさを噛み殺して踏み殺して砂利を啜って脇腹を蹴られて傷口が開いて血液を飲み込んで酸素を吐いて二酸化炭素を吸って息が苦しくて霞んだ瞼が生き様の道から外れられない。腐った小屋を枯れた涙で誤魔化すことも出来ない景色が執拗に私を叩いてくる蝿に与える餞の言葉なんて諦めるに決まっていて黙るしかないということはもう処理済みだから気にしない。だから番号の割り振られた人形五匹が無知の声で話掛けてきても「貸せよ」こうやってたった今ノートが取られたりしても挙手したところで価値も意味も発現しないし「うわぁ見て観察日記だって」興味の虚無を優に超えて無関係だから同じ言葉として話したくもない言葉を無視して遠くの空の灰色でも意識を集めて綺麗だと思い込んで時間が過ぎるのを只々渇望して「気持ち悪」壊れた耳栓を修復するように脳味噌を私由来の出来る限りの発音発声を反響してリサイタルして怒鳴り散らして抹消すれば時間が来るから度々に延期して持ち越すことで回避するしかな「うわ、びっしりじゃん」いしかない。大丈夫こんな日常茶飯事中学生から経験豊富だから避けることは簡単だし逆に避けられている方向性を狙っていきたいのだけどそうもいかないのは気まぐれな天気と同じで「えーどれどれ、『今日は一限に縁を見ていたら縁に見つかってしまいました。楽しかったです』だって」雷が降ったり嵐が笑い交じりに言ったりするという広い視野から見れば大差ない出来「うわぁ」事に過ぎないので「高校生にもなって妹離れ出来ないんだ」普段通りの心掛けを「こいつ今朝も手繋いで登校してやんの」しないと「きゃー可愛いですねぇ」すれば「可愛過ぎて可哀想」いいの「「「「あはは」」」」に「この前私、カフェのバイト中こいつが妹と食べさせ合っているのを見て」…………「写真撮ったんだけど、ほら」……………………………………「うわ、これ拡散しようよ」………………………………………………………………………………「一枚百円で売る?」…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………「もうさ絆ちゃん、妹ばっか構ってないで彼氏の一人でも作ったら?」………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………「やめろよ、出来ないから構ってんだろ」………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………「「「「あはは」」」」………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………「そう言えばさぁ」

「こいつの妹、虐められてたんだってぇ」

 ha?


〈妹〉

「縁起きて」

 お姉ちゃんの歌唱コンクールで連覇したような美声に囁かれ「ん、お姉ちゃん……」瞼がリニューアルオープンする。整形はしていないけどフレッシュにリフレッシュした朝だなということです。立て続けに日本の朝ご飯は納豆、味噌汁、焼き魚だよねと思いながらパンを食い縛り飲み縛りお姉ちゃんと家を出縛った。わたしがパンを咥えて遅刻遅刻ぅと叫びながらお姉ちゃんとぶつかって恋が始まる純愛物語をふと思い付いた。小麦加工品を使用せずとも誕生時点から攻略済みのようなものだけど。

 お姉ちゃん好きお姉ちゃん好きお姉ちゃん好き。お姉ちゃん大好き。日中であれ流れ星の現前に期待を込めて、三回と駄目押しの一発を打ち上げてみた。膨張し続けるらしい無限の宇宙を考えれば何処かしらには流星群があるはずだから、この願い事は常住坐臥実るはずだね。旨趣は特に無いのですが。その一念通天の志を頭髪の白シュシュに絡ませて、お姉ちゃんの髪はシルクみたいだなぁと感心しながら道沿いを歩く。物理ではのんびりと歩いている訳ですが、心理ではお姉ちゃんと全力疾走する。

 例の場所に至ると「じゃあまた後でね」さよならララバイを言い告げる。仮にお姉ちゃんが全授業で居眠りしていたらそれは学舎限定の白雪姫だ。お姉ちゃん姫はわたしの人工呼吸という名目のキス、あるいはキスという名の人工呼吸、何にせよキスしよう。魔女の毒林檎はわたしが唾液で消毒して経口摂取させてあげる。階段をジャンプし、ドアをがらら。

 クラスルームを季節外れだけどプール水槽と臆断すれば、比々と落ち葉や髪の毛が酸化した回転寿司のように渋滞する側溝にあたる座標までのランウェイを爛々とランナウェイした。今日は比喩の調子がイマイチ冴えてないな。揶揄だったらいけるかと日頃のちょっかいへの簡略化した報復を企んで、隣人井口を見ようとしたけど面倒になりそうだからキャンセルして逆方向に頭を向ける。

 遊びを超えて暴力にも似た言葉の綾取りをしながらレゴブロックのように首を曲げると、窓の外が遮られていることによりお姉ちゃんが見られないことと、お姉ちゃんも見られないことを一挙に了解した。そうだ、先生が休み挟んだら見晴らしが無味乾燥になるなとホームルームで布告していた気がする。白のバリアにがっくり凭れる。鉄壁のディフェンスを誇っていやがる。わたし達のお邪魔虫が増えた。虫食いは発見出来ない。畜生。

 怒りで脳震盪を起こしたくなっているわたしの側で、通常オープンする鞄からガサゴソと騒めき立った。蜚蠊か蟋蟀、あるいは鈴虫かと思って見たら井口だった。どれも大差無いなと蔑するわたしに瞥見すらせず、中から一冊ひったくって目眩く捲り出す井口インセクト。

 って、それわたしの観察日記じゃん。違法行為に及ぶな、閲覧するのだったら金銀財宝を積みなさいと喉から出かけて一献傾ける。この程度大目に見ようと稀代の義侠心が表舞台に向かった。昨晩わたしとお姉ちゃんの充実度が高くて気分が良いからかなと分析。

 理解しているか不明ながらパラパラさせた後、わたしの面に気付いた井口は「おそよう」涼しく言う。言うのが遅いと言いたいけどそれを先回りしての発言なのか。分かり辛いことをする若者だなと称えつつ、わたしは若者に容赦ないので「返してよ」きっぱり請求する。「おぉ悪いね借りていた」断固として借用だと言い張って日記を戻す井口。後で指紋は拭うとして、許可が無いのにレンタルするのは業務妨害ですよお客様。延滞料金も割増しましょうかおカスタマー。

「面白いつーか何つーか、変なこと書いてあるね。あのお姉さんとの交換日記?」井口が願っていない評価を下す。その口は糊で塞いでしょぼんとなってシャボンになって屋根まで飛んで壊れて消えてしまって良いよ。

「関係無いでしょ」「ご近所の好じゃない」井口アセスメントは終礼を迎えない。昨日曰くこの人は情報部だが何だかに身を置いているのだった。わたしの身内話を校内に公開したりはしないよねと危険視しながら対応する。

「お姉さん見えなくなっちゃったね」井口が親近感を押し売りする。

「……うん」

「寂しい?」

「まぁ」「あたしも何故か寂しいよ」お前のことは聞いてないのですが。野次馬根性の暴れ馬のような人間だね井口は。鹿の遺伝も入っているかもしれない。

「シュシュ似合っているよ」

「あぁそう」今度はお姉ちゃんではなくわたしか。お姉ちゃんをとやかく言われるよりは良いけど。

「縁ちゃんって結構極端な性格だよね」お前程ではないけどね。さっきからぶつ切りの会話材料を投下してくるな。井口に付き合っていると筆路のレシピを忘れる。

「そうかね」

「そうだよ。ところで縁ちゃんその日記くれない?」

「は?」前言撤回、調理法なんてこいつには端からなかった。瞬間瞬間の思いつきを語っているだけみたいだ。

「間違えた、見せてくれない?」

「どっちにしても嫌だけど、何で?」

「写真撮るの!」真顔で諍いの火蓋を加熱する井口。こいつにプライバシーの心掛けは無いのかね。

「普通に断るけど」

「しょぼおん」だから飛び降りてよ。

「何に使用するの」

「勿論私用だよ!」絶対に嘘でしょう。私用だけとは明言してないとすれば抜け道逃げ道揃いの文言だ。抜け目無い奴だ全く。条件さえ指定すればその範疇で正直者となるような人格は悪くなくもなくもないけど。品行方正や純情可憐には遠いけど天真爛漫ではあるかもしれない。

「カメラは駄目、というか見る以外は駄目。見るだけなら見ちゃいけないことは無いけど」妥協と情報と折衷を歩み寄らせて小さく建議案を出す。

「良いの?」井口はクエスチョンマークを実質ピリオドにしながら机の端切れに乗り出して聞く。

「井口がしつこいから」しぶしぶとわたしの外用だった頬杖を机上に振り置く。

「やったぁ」井口は小学生のように屈託ない喜びを表して名著を手に取る。こうして資料たる飼料を与えておけば、井口キメラがわあきゃあ騒ぐことは無いはず。

「ふふ、初めて名前で呼んでくれたね」手にした深緑の隅から両目を逸脱させて笑い掛ける。言われてみればそうだった。最近まで無名だったり一文字で呼んでいたりしたから。でも、だからどうしたってことで。

 午前の授業は、こんな井口とのロシアンルーレットみたいな言辞の応酬で終わった。昼休みの鐘が鳴った時、わたしは椅子を発つ。

「お姉さんの所に行くの?」井口が尋ねるので、肯定のジェスチャーを交えて教壇を横滑りする。

「いってらっしゃい!………………気を付けて」弾んだ語勢がわたしの背中を見送る。後半は何を言っているのかよく分からなかったけど、構わず進む。

 何でわたしはあんなやつと形式上でも交友を持っているのか。何でお姉ちゃん以外の人と話せているのか。昔の頭に痛みが刺す。だけどそんなことはどうでもいい。口癖の、どうでもいい。どうでもよくないのはお姉ちゃん。お姉ちゃんだけを見て生きていきたい。だから早くお姉ちゃんの顔を見たいな。お姉ちゃんと話がしたいな。

 今日も天使のような笑顔で背の高い校舎口をくぐり抜ける。スカートのポケットは鳴らさないように。バレないように。お姉ちゃんの教室へ、ゴ―トゥーヘブン。

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