下 おばちゃんの思い出コロッケ
満腹様と一緒に過ごせる時間が、残り一週間を切った。
なるべく満腹様と一緒に過ごしたいのだけれど、社会はそれを許さない。
朝イチで会社に行って、夜終電ギリギリで家に帰る生活は、相変わらずだ。
忙殺されて、クタクタで、しんどかったけれど。
「満腹様、ご飯一緒に食べよう」
二人でご飯を食べる習慣だけは、おろそかにしないようにした。
「小春や、疲れているなら、無理にご飯を作ろうとしなくても良いんじゃぞ?」
「いいの。私が一緒に食べたいんだ。満腹様と」
それまでは、帰って食べるお惣菜とビールだけが楽しみだったのに。
今は、満腹様と食べるご飯が楽しみで、疲れていても自炊するのが苦じゃなくなっていた。
私は知ってしまったのだ。誰かと一緒に――満腹様と一緒に食べるご飯は、暖かくて、私を癒やしてくれるのだと。
満腹様と過ごせるのは今だけ。この時間が過ぎ去れば、また私は一人になってしまう。
だから、出来るだけ、満腹様と過ごせる時間を大切にしたいんだ。
ご飯を食べながら、ふと思う。
祖母はどうだったんだろう。
祖父も死んで、家族との同居も断って。
かつて定食屋だった古びた建物で、死ぬまで暮らしていた。
寂しくなかったんだろうか。何を考えていたんだろう。
私はそれが、分からないでいた。
◯
流れるように時が過ぎた。
満腹様が私の家に来てから、もうすぐ一ヶ月。
明日には、私の元から去ってしまう。
「小春、最後のご飯は決まったかい?」
いつもの穏やかな表情の満腹様に、私は静かに首を振る。
そんな私を見て、満腹様は「そうか……」と髭を撫でた。
「でもいいんだ、私。満腹様と出来るだけ長く一緒に居たいから」
「ほっほっほ。どんな選択をしても良い。小春が後悔しなければな」
「うん。……じゃあ、満腹様、行ってくるね」
「行っておいで、小春」
今日の仕事次第では、日を跨いでしまう。
そうなったら、家に帰る頃にはもう、満腹様は居ないだろう。
「もっとちゃんとお別れしといたほうが良かったかな……」
でも、これで良いのかもしれない。
だって、この二週間、後悔しないように行動してきたじゃないか。
覚悟を決めて出社した私だったが、その日の仕事は拍子抜けするほどすぐ終わった。
「みんなお疲れさま。今日はもう上がっていいよ」
「えっ?」
私は時計を見る。いつもは三、四時間の残業が当たり前なのに、まだ定時だった。
「課長、本当にいいんですか?」
「あぁ、今日の案件はそれほど立て込んでないからね。たまには早く帰りなよ」
「あ……ありがとうございます。それじゃあ、お先に失礼します。お疲れさまでした」
「お疲れさまー」
部署の皆に頭を下げ、逃げるように会社を後にする。
まだ陽が昇っている間に電車に揺られ、家路につくのが久しぶりで、何だか信じられなかった。
電車の窓から見える夕陽は美しく煌めいており、私を労ってくれているような気さえする。
「龍神様とご飯が食べられる……」
今日が、龍神様と一緒にいられる最後の日。
何を食べようか。
お鍋でもいいし、奮発して焼き肉でもいい。いつも通りの和食も悪くない。
駅前のスーパーに寄ろうか、精肉店で高級肉を買ってしまうか。
色々考えを巡らせていて、ふと、祖母のことが頭に浮かんだ。
祖母は最後に、龍神様に何をお願いしたんだろう。
最後となると、きっと一番食べたかったものを選ぶに違いない。
だって祖母は、いつも好きなものを最後に食べる人だったから。
タイミングを見計らったように、電車が最寄り駅に止まった。
改札を抜け、家へと向かう。
最初はゆっくり歩いていたのが、徐々に早足になり、やがて駆け足になった
エレベーターが待ちきれず、階段を段飛ばしで上がり、慌てて玄関のドアを開く。
「た……ただいま!」
「どうしたんじゃ小春。今日はずいぶん早いのぅ」
「満腹……様……私、決めた」
「うん?」
「最後のご飯、決めたよ……」
私は、知らないとダメだと思った。
祖母が何を満腹様に望んだのかを。
祖母が最後に食べたものは、きっと祖母にとって特別な代物だったはずだ。
だから。
「おばあちゃんが最後に龍神様にお願いしたご飯を出してほしい」
○
「それじゃあ小春、準備は良いかい?」
「うん、お願いします、龍神様」
「ほっほっほ、その願い聞き届けたり」
龍神様が机の上に手をかざすと、まばゆい光が部屋中に広がった。
すると、どこか懐かしい香りがしてくる。
香ばしい、揚げ物をした時の独特の香り。
私が恐る恐る目を開くと。
机の上にあったのは――コロッケだった。
意外な品物に、私は思わず目を丸くする。
一見して、何の変哲もない普通のコロッケだ。変わっているのは形くらい。
惣菜店やスーパーで売られているコロッケは平べったい印象だが、このコロッケは少し違う。いかにも手料理という感じの、少し分厚い楕円形をしたコロッケ。
「これが、おばあちゃんの選んだ最後のご飯?」
「食べてごらん、小春」
「う、うん……いただきます」
私は恐る恐る、コロッケを口へと運ぶ。
一口かじると、サクッと心地よい音がして、口の中にコロッケの味が広がった。
刹那、私は気づく。
酷く懐かしい、優しくて、他のお店では食べたことのないような濃厚な味。
「おじいちゃんのコロッケだ……」
それは、かつて定食屋をしていたころ、祖父が自分に作ってくれたコロッケの味だった。
子供の頃、両親が仕事で忙しかった時、祖父母と一緒に食べた味。
覚えてる。小学生のころ、私の絵が地域のコンクールで金賞を獲ったからって、ご褒美にコロッケを食べさせてくれたことを。
自分の絵を見て、誰かが喜んでくれるのが嬉しくて。
だから私は、絵に夢中になったんだ。
あぁ……そうだった。
私、いつから夢を忘れてしまっていたんだろう。
あんなに大切な思い出だったのに。
もっともっと沢山の人に喜んでもらいたい。ただそれだけだったのに。
気がついたら、私はコロッケを食べながら涙を流していた。
サクッとしていて、ジャガイモはホクホクで、お肉と玉ねぎの食感もしっかりマッチしていて、ひとくち口にするごとに次が食べたくなって。
たぶん一生忘れない、大切なコロッケの味だ。
「美味しいかい? 小春」
「うん……おいしい。おいしいよ……」
ポロポロと、心の疲れや、溜まっていた感情の澱(おり)が流れ出るように、瞳から溢れた涙は留まること無くこぼれ落ちた。
◯
「不思議だったなぁ」
「何がじゃ?」
コロッケを食べ終わった私を見て、満腹様は首を傾げる。
「このコロッケ、オーソドックスな玉ねぎと合いびき肉のコロッケだよね。普通のスーパーに置いているのと変わらない具材なのに、なんでこんなに美味しいんだろ。全然味が違うっていうか」
「ゆで卵とマヨネーズが入っとるんじゃよ」
「ゆで卵とマヨネーズ……?」
予想外だった。
「ほっほっほ、面白い味付けじゃろう? 夫の作る料理の中で、トメは一番このコロッケが好きじゃった。このコロッケを食べた時、トメはいつ死んでも良いと言っておった。でも、それから十年以上……長生きしたのう」
「それはたぶん……おじいちゃんの味を思い出したからだよ」
祖母の家に行った時、冷蔵庫に沢山の食材が入っていたのを覚えている。老婆の一人暮らしにしては、ずいぶん色んな種類の調味料や食材が存在していた。どの食材もまだ新しくて、定期的に料理をしていたのが見て取れた。
きっと祖母は、このコロッケを食べて、祖父の味を再現することにしたんじゃないだろうか。
食堂をやっていた頃の味を、毎日再現していた。それが、祖母の生きる理由になった。食べることが、祖母の命を繋いでくれていた。
祖母の晩年は、きっと幸せだった。
○
こうして、私は最後のお願いを満腹様に捧げた。
三つの願いを叶えた満腹様は、間もなく水晶に帰らねばならない。
「満腹様、本当にありがとうね。一緒に過ごしたこと、多分一生忘れない。水のお供えと、お祈りも、欠かさないから安心してよ」
「ほっほっほ、ありがとう、小春。お前さんと別れるのは、ちと寂しいのう」
「ねぇ、本当にもう会うことはないの? またどこかで出会ったりとか……」
しかし満腹様は、ハッキリと首を振った。
いつもは私の言う事を否定しない満腹様が、明確にハッキリと。
「二度と会う事はない。それが決まりじゃ。その水晶も、いずれ時が来れば、小春の手から別の人に渡るじゃろう」
「心配だなぁ。割れちゃったりしない?」
「大丈夫じゃ。水晶はまた持つべき人の元にゆく。割れることもない。そう言うふうに出来ている」
「そうなんだ」
「じゃあのう、小春。お前さんと過ごした一ヶ月、実に楽しかったぞ」
「うん。……ねぇ満腹様。最後に一回だけ、抱きしめても良い?」
「ほっほ、構わんよ」
抱きしめた満腹様は、両手で優しく私を包んでくれる。
まるで本当のおじいちゃんみたいに、優しい包容だった。
満腹様の温度を感じた、次の瞬間。
大きな光が部屋に満ち、私の前から満腹様の姿は消えた。
「ありがとね、満腹様」
残った水晶に、私は静かに声を掛けた。
○
それから数ヶ月語。
私は仕事を辞めた。
正直、辞めることに迷いはあったし、後悔するかもしれないとも思った。
でも、もう何もしないで諦めてしまうのは、嫌だったんだ。
「ただいま」
買い物から帰って来ても、もう「おかえり」を言ってくれる人はいない。
それでも良いと、そう思う。
私は、満腹様から大切なものを沢山もらったから。
「あとで水、足しといてあげるからね」
水晶に備えられたグラスの水が減るのを見て、私は微笑む。
パソコンに接続したペンタブレットに向かい、私は腕まくりをする。
やる気はバッチリだ。
「じゃあ作品作りから始めるかぁ。とは言え、何を描くべきかなぁ」
イラストレーターとして活動するには作品がないと話にならない。
まずは、私の原点――誰かに喜んでもらえるイラスト作りから始めたいのだが……。
何を描けば良いのだろうか。
何事も作品作りにはモチーフが必要だ。
画期的なモチーフはないだろうか。
「そうだっ!」
私のすぐそばには、最も最適なモデルが居たじゃないか。
私はウキウキしながら、ペンを走らせた。
この時描いた『満腹龍神様』と名付けたキャラクターイラストが、後にネットで爆発的な人気を集め、私は某大手企業の専属イラストレーターになるわけだが。
それはまた、別の話。
――了
満腹龍神様と3つのご飯 坂 @koma-saka
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